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神様の性器 ― 大相撲と普天間
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週刊朝日の2/25号で、大相撲の八百長問題に関しての識者の意見特集をしている。
元横綱の輪島大士氏は現役力士の精神面に檄を飛ばし、企業再生専門家の冨山和彦は検察・警察などの外部からの人事刷新で漸次構造改革せよと説き(ん?いまの副理事だってヤメ検でなかったか?この冨山って男、怪しいな)、漫画家やくみつるは過去にさかのぼる徹底的な全容解明をせよと説いているが、そのなかでオレが注目したのは、スポーツライター玉木正之氏の提言である。
普段スポーツ観戦にそれほど強い関心があるわけではないので、これまでこのスポーツライター玉木氏個人の発言に対してもほとんど注意を払うことは無かったのだが、ここで玉木氏が行っている提言には、非常に注目すべきものがある。
玉木氏はここで、実現は簡単ではないだろうとしながらも、日本の文化としての相撲を守り、過去の名勝負を後生に残す為にも、相撲協会を宗教法人化し、まずファンの相撲に対する見方を正しい方向に誘導すべきだと主張する。それが難しいのであればあるいはそれに準ずる相撲特別立法でもして、とにかく近代スポーツとして認知されている相撲を、文化としての相撲に戻すことが何より優先されるべきである。相撲協会は八百長の存在を認める必要はない。
相撲の神事としての面がクローズアップされたのは、近年では平成元年の森山真弓官房長官(当時)と平成16年の太田房江大阪府知事(同)が表彰式における土俵上での表彰杯授与をいずれも認められなかったことに端を発する、伝統上の女人禁制に対する近代平等思想の側からの性差別だ、男尊女卑だという批判が沸き起こった時であろう。
このとき相撲界はこれは伝統だ、神事なのだから、と繰り返すだけで、反対者を納得させられるだけの説明を施すことは出来なかった。
神事としての相撲の来歴・歴史について明るいわけではないが、相撲において女性が土俵に上がれない訳は、そこで祭られている神様が女だからだろうと、オレは思っている。尊き女の神様に悦んでもらうために、大柄で屈強な男達が集められて、神様の眼の前で裸で激しくぶつかり合って見せるのだ。
そう考えてみれば、女が土俵に上がれないのは、むしろ当然の論理の帰結となる。神様をあがめ奉る行に、神様が参加できないのは当たり前だ。それにもし男の饗宴であるべき土俵のなかに人の子の女が紛れ込んでいたら、神様の方が嫉妬してしまうかも知れない。
オレにはあの円形の土俵とその頭上に宙吊りになった方屋、そのあいだの空間全体が、裸体同士の激しいぶつかり合いのスパークと、そこから立ち昇る<気>の充満する、神と人との婚姻を表徴するエロティックで豊穣な<場>であると思えるのだ。
いにしえの時代からわたしたちにとって大相撲は宗教的行事であったし、いまも変わらず宗教的行事だ。大相撲を近代スポーツに貶めてはならない。大相撲が岐路に立たされている今だからこそ、尚さら声を大にしてわたし達はそのことを言わねばならないのだ。
近代主義者やくみつるの主張しているような大々的な過去にさかのぼる一斉捜査と粛清など、それこそメディアの「おまつり」騒ぎを長期化させるだけの馬鹿馬鹿しい時間と労力の無駄だ。オレたちにはいまもっと重要で真剣に取り組まねばならない喫緊の問題が他にある。
それよりも角界を代表する若き賢者・白鵬がふっと笑みを漏らしながら素っ気無く放った「(八百長は)無いとしか言えないじゃないですか。」 という一言に、すべての真理が既に集約されているということに、わたしたちはもっと驚かねばならない。
オレが同じ立場だったとして、あそこで同じせりふが吐けたかどうか?すべての狂騒を一瞬で我に返らせる、ハッとするような、爽やかな感動すら覚える一言ではなかったか?
どんなに長期間突付かれようが騒がれようが、物的証拠が出てこない限りどのみち「無いとしか言えない」問題なんだから、しょうがないだろう?彼はそう言っている。
白鵬のこの発言がその後いい意味でも悪い意味でも世間で大きく取り沙汰されることは無かったが、このあと最近になってある別な人物が同様な趣旨の発言をした時には、マスメディアを中心としてあっという間に世間を賑わす大騒ぎとなった。
2月13日付の沖縄の地元紙に、昨年5月、米軍普天間基地の沖縄県外移転断念の理由に米海兵隊の「抑止力」を挙げたことはある種の「方便に過ぎなかった」とする鳩山由紀夫前首相の発言が掲載されるやいなや、すぐさま大手新聞・テレビでも大々的に非難の集中砲火の報道となり、国会で取り上げられるまでの騒ぎとなったのである。
たしかに、前首相のものとしてこの発言はこの一語だけを取り出して見るといささか軽率であり、沖縄県民としては馬鹿にされたような気がするだろうし、腹を立ててしまうのは理解出来る。
しかしここはもっと冷静になって考えねばならない。鳩山氏の発言をマスコミに同調して非難することは、沖縄県民にとっても日本国民にとっても、不利益のほうがはるかに大きい。
鳩山氏は白鵬と同じことを言っている。相撲協会が「八百長は無い無い」と言ってきたように、日本政府は普天間の海兵隊についてずっと「抑止力は有る有る」と言ってきた。しかしそれは抑止力が有るからではない、と。
海兵隊自体に抑止力は無い。米軍全体としてみれば抑止力となっていようが、沖縄の海兵隊は直接的な抑止力のための存在ではない。イラクやアフガンに侵攻するための訓練保養所。日本が他の近隣国と有事になった場合にも彼らが出動する保証も必然性も何も無い。
鳩山由紀夫は首相として本気で普天間基地の県外移転に取り組んだのであり、米国ベッタリの自民党政権時代にはそんな首相はいなかった。
それが挫折したのは、アメリカの意向を汲んで最初から辺野古ありきの防衛・外務官僚からまったく協力を得られず、その傭兵であるマスコミからは絶えず足を引っ張られ、外務・防衛大臣すら身中の敵である状態のなか、孤立無援に追い込まれてしまったからである。
そのうえで自分は力不足だった、アメリカと官僚の圧力に屈してしまったと沖縄県民に正直に詫びたのが、あの「方便」発言の真意であろう。
鳩山氏はあらためて国民の前に真実を吐露したのであり、白鵬風に言えば「(抑止力は)有ると言うしかないじゃないですか」という、これ以上ない真実の集約された一語だったのである。。
ここで少し奇妙に思われないだろうか。官僚・マスコミ連合と彼らの形成する世論は、一方で相撲界の八百長については徹底的に追求せよ、と騒ぎ立てているが、こと普天間に関しては、抑止力の有無を徹底議論する代わりに、鳩山氏を吊るし上げることの方に全精力を注いでいるのだ。まるで一年前のデジャ・ヴを見ているようである。
この現象を見るにつけ、我々は次の結論に至ることになる。つまり、我々一般日本人にとって大相撲が宗教的なこころを喚起するものであるように、彼ら官僚・マスコミにとって在留米軍とは、彼らの宗教的信仰心にとっての拠り処のようなものになっていると見做さざるを得ない、ということなのだ。
これはとてつもなく奇妙な宗教だ。現代国家の防衛という、それこそ最も合理的で戦略的な思考が求められる場面で、彼らは宗教的な
抑制(!)を作動させるのである。
そしてまるで女性知事の土俵入りを拒む理事のように、タブーだから触れるな、の一点張りで事を済まそうとする。こんな倒錯した連中に国防と外交をこのまま任せておいて良い筈が無い。極めて危険である。
彼らの宗教に、我々が大相撲のなかに観察したようなエロティックで女性的な要素は見出せない。彼らの信仰心の中心にはただ何か恐い大きなお父さんがいて、そのお父さんに叱られて罰せられるのを懼れているのだ。
彼らの宗教はその意味で日本的でもアジア的でもないし、むしろはっきりとユダヤ的である。お父さんに命じられてそのまま川に走りこみ身を投げて死んでしまう、というフランツ・カフカの短編を思い出す。(カフカはユダヤ系のプラハ人。)
そしてこれは可能性としての指摘にとどめるが、普天間に限らず在留米軍全体に関わる深い闇の中のもうひとつのタブーとして、核持込みの問題も挙げておかねばなるまい。
あるいは鳩山発言は、そこにつながる婉曲のメッセージであったと取れないことも無い。
「核とは何か − エロになりきれなかった何かだよね」
「実際、原爆が出現したときにユダヤ人が動揺したそうです。それはユダヤ人の神のあり方と原爆のあり方が、あるところでよく似ていたからで。」
− 坂本龍一との紀行対談『縄文聖地巡礼』より、中沢新一
古来、沖縄では女性の霊力が強いと信じられており、司祭としてのノロ、シャーマンとしてのユタも女性である。また、沖縄広域に見られるおなり神信仰も、兄を守護するものとしての妹の霊力を神格化する信仰である。
沖縄で「あの世」を指すニライカナイについて、梅原猛はニライが根の下のところで、カナイが空の上のところだろうと解釈する(『日本冒険』)。
そのうえで、カナイが後から付加された外来の対句的概念だろうという学説もあわせて考えるなら、(実際、沖永良部島では「ニラ」、喜界島では「ネインヤ」、沖縄本島では「ニルヤ」と呼ばれるが、「ニライ」は単独で「あの世」を指す概念として使われている。)沖縄の人にとって「あの世」とは根の下にある国であり、そこは死者の国であると同時に、食糧と産出と豊穣のもたらし来る、エロスの国でもある筈だ。
いや、沖縄だけではなく、見えにくくなっているだけで、日本人全体が本来ずっとそういう信仰の下に生きてきた民族なのだ。ユダヤ的な信仰とはその点で明らかな対称をなすと言ってよいだろう。
そしてこうした現状を根っこの部分で直感的にも実際的にも理解している政治家として、ここで我々はやはりまたしてもこの人に登場願うことになるのである。
民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演し、今後の国際社会に関し「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている」と指摘した。一方で「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。
2月14日 MSN産経ニュースよりhttp://sankei.jp.msn.com/politics/news/110214/stt11021415530005-n1.htm
どうだろうか?やや言葉足らずの面はあるが、オレはやはり慧眼の政治家をここに見るが。
それに引き替え、今回の騒動でマスコミのみならず、国会答弁で鬼の首を取ったように得意満面に「人生長く生きていると色々な事がある。わたしの長い人生のなかでも一、二を争う衝撃的なことだ。」と鳩山発言を蔑んでみせた北澤防衛庁長官の発言には、おぞましいくらいの人格の卑しさと、人間としての本性の下品さのみが際立っていなかったか?
彼は鳩山内閣時からの防衛庁の長であり、日米関係の打開に一人苦しむ鳩山総理をみすみす裏切った張本人である。質問に立っていた中谷元や、鳩山発言を「恐ろしい」とのたまった石破茂とは、いいていのお友達だ。
ようやく狂騒のほとぼりも冷めた週末になって、TBSの『報道特集』が、「方便」という言葉の一端だけ独り歩きしてそれが批判されるのは良くないと言っていたが、この番組はこういう役回りか。
今回の騒動で、鳩山由紀夫は現在の日本で貴重な政治家であることを再確認した。彼には小沢一郎ともども、まだまだ政界のど真ん中で大活躍していただきたい。
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