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2011年2月21日 (月)
2.20緊急シンポジウム&デモ エジプトに続け!不条理な公権力に抵抗する100万人運動 は無事終えることが出来ました。
昨日、幡ヶ谷区民会館での緊急シンポジウムと明治公園から代々木公園までのデモは、多くの参加視聴の方々、ネット、Twitterなどでの拡散、また、中継いただいたAPF通信様、岩上安身事務所様、のび太君他様々な方々のお陰を持ちまして、無事終了する事が出来ました。有難うございました。
この場を借りてパネラーの三井環様、保坂展人様、木村三浩様、メッセージを頂戴しました 衆議院議員田中康夫様、衆議院議員山田正彦様、ビデオレターをお送り頂きました参議院議員森ゆうこ様に深く感謝の意を表させて頂きます。また、ボランティアスタッフの方々にもお礼を申し上げます。
市民の連帯の会
事務局長 矢野健一郎拝
http://kennryoku-teikou-kok.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/220-100-d519.html
幡ヶ谷区民会館での緊急シンポジウム
AFP
http://www.ustream.tv/recorded/12808910
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わたしは、市民の連帯の会
が主催したシンポジウムに参加して
日本の表の帝王は検事総長であり裏の帝王は最高裁判所であることが理解できた。
1945年敗戦後の検察とは、戦前軍国主義全体ファシズム治安弾圧の特高検察官僚が担ってきた。内務官僚は、戦争責任をすべて軍人に押し付け、敗戦後、日本支配のシステムを強化し生き延びてきたのである。
これが戦後日本民主主義の本質であった。
戦前、プレタリア文学者であった小林多喜二は特高検察によって虐殺された。
多くの共産主義者や民主主義者が獄中で、検察によって虐殺されたのである。
わたしが17歳から37歳まで、何故、左翼であった理由は、戦前の検察による治安弾圧を勉強したからである。
1945年日本敗戦後からの反米闘争を担ってきたのは左翼であった。
戦前の日本民族主義の担い手は右翼であったが、1945年敗戦の転換によって、日本民族主義からの反米闘争を担ったのは左翼であった。逆転したのである。
19609年反安保の反米闘争を見よ!
1970年の反安保の反米闘争を見よ!
2.20緊急シンポジウムを聞いて、わたしの17歳からの人生は間違っていなかったことを確信した。わたしは文学者である小林多喜二を虐殺した日本検察機構に対して、歴史的な謝罪をさせるであろう。
そして今、わたしは実践哲学行動哲学をもった、心の中からの小沢一郎支持応援者である。「2・27いざ鎌倉デモは必ず成功する」そのために毎日、天と対話をしている人間である。
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