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「減税日本」は「強者への逆再分配日本」と呼ばれるべきだ
2011.02.18 08:54 きまぐれな日々
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1156.html
小沢一郎に近い民主党の比例区単独選出議員16人が菅執行部に反旗を翻したことで、政局は一気に流動化したとされている。
「とされている」と書いたのは、政権与党のくだらない権力争いなんかどうでも良いと私が考えているからであって、自民党政権末期時代の「麻生降ろし」に対しても私は冷淡だった。「麻生降ろし」には、どうせ次の選挙で大敗する諸氏がいったい何やってるんだと思ったものだが、現在では同じことが民主党衆院議員諸氏に当てはまる。今回菅直人に反旗を翻した16人は、昨夜のテレビで一色清と古舘伊知郎が言っていたように、おそらく今のままだと、ほぼ全員次の総選挙で落選するだろう。だから、早く泥船から逃げ出したいのである。
そういった点では、まだ一昨年の自民党議員たちの方に誇りを感じる。彼らは、自民党公認で立候補して、堂々と散っていったからだ。現在、「小沢一郎に近い」といわれる民主党の比例区単独選出議員たちが考えているのは、橋下徹や河村たかしと提携して原口一博が立ち上げようとしている「日本維新の会」とやらに加わって、「改革者」を気取って、あわよくば次の選挙でも生き残ることだ。そこには、「国民の生活が第一」の信条も心情も、そのかけらもない。
心情、あるいは信条と書いたが、この言葉から思い出すのは、昨年「暴力装置」をめぐる問題で一躍クローズアップされたマックス・ウェーバーの「職業としての政治」であって、ウェーバーは、政治家たる者は自分が正しいと信じるままに行動する「心情倫理」ではなく、 結果への責任を重んじて行動する「責任倫理」に基づいて行動すべきだと論じた。この「心情倫理」を「信条倫理」と訳する訳者もいる。
となると、ウェーバー流にいえば鳩山由紀夫は「心情倫理」に従って行動する人間の典型例であり、政治家失格ということになる。当ブログもしばしば、政治は結果がすべてだと論じているが、鳩山政権も菅政権もその意味では失敗した政権であり、民主党比例区単独選出議員の意図はどうあれ、菅直人内閣は早期に総辞職すべきだし、同様に昨年6月初めに鳩山由紀夫内閣が総辞職に追い込まれたのも当然だったと思う。
そもそも鳩山由紀夫の場合、「心情(信条)倫理」に従って行動したといえるかも怪しい。今でも忘れられないのは政権交代直後のことで、私には鳩山由紀夫から新政権が発足する緊張感といったものが全く感じられなかった。えっ、これが政権交代なの? と思ったくらいだ。1993年に発足した細川連立政権の時には、私はこの政権を支持していなかったけれども、もっと締まった緊張感があった。しかし、鳩山由紀夫から感じられたのは、「まあ何とかなるさ」という安易さだけだった。人事についてもそうで、官房長官にあの無能な平野博文を据えたのはその典型例だし、官僚の人事にしてもほとんど自民党時代のままで手をつけなかったために官僚の反撃をもろに食った。環境エネルギー問題における迷走はその好例であり、羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く菅直人は、鳩山の失敗を見て懲りたか、環境エネルギー政策にはきわめて消極的な態度をとり続けている。これでは、政権交代をした意味が何もない。
小沢・鳩山の支持者は口を開けば官僚ガーとうるさいが、そもそもの政権交代時に鳩山らが指導力を発揮しなかった(できなかったのではない)ことが問題なのであって、明治以来の官僚支配がどうのこうのという話など、私は聞く耳を全く持たない。そんなものは鳩山らが結果を出せなかったことの責任逃れでしかない。
例の「方便」発言にしても、その本質はどうしようもない無責任な責任逃れであって、『琉球新報』の論説委員が烈火のごとく怒って鳩山に「万死に値する」と最大限の非難の言葉を浴びせた気持ちも理解できる。結果責任をとることができない政治家は、そもそも政治家になってはならなかったのであり、本来ならあのような形で内閣総辞職をした時点で鳩山は次の衆院選に出馬しないどころか即刻議員辞職すべきだったと思うが、その引退宣言さえも鳩山は撤回してしまった。無能な人間ほど議員の座にしがみつく。自民党の比例代表候補として当選しながら、民主党政権入りした与謝野馨も、議員辞職をしなければ筋が通らないが、呆れたことに「モチベーションを保つため」という手前勝手な理屈で議員の座にしがみついている。鳩山も与謝野も、「権力亡者」の本質に何も変わりはない。
鳩山の「抑止力」発言のオーソリゼーションを鳩山自身が否定したことの意義を評価する向きもあるが、そんなのは当たり前でのことではないだろうか。私は、鳩山の首相当時の「抑止力」発言を聞いた時、中学生くらいの頃に習った核抑止論否定のロジックを思い出し、未だに「抑止力」などという言葉を一国の総理大臣が使うのかとあきれたものだ。普通、「抑止力」というと想起するのは「核抑止論」であり、そんなものは冷戦時代の思考だ。鳩山は総理大臣在任中にこそ「抑止力」論の批判をすべきだったのであり、今頃あんなことを言い出したって、かけらほども私は評価しない。
だが、世の小沢信者諸氏はそんな鳩山にとても甘い。それは、鳩山由紀夫が小沢一郎の従順な犬だからにほかならない。「方便で私はクビになったのか」と鳩山にたてつく福島瑞穂の社民党や、「今後影響力を失う小沢一郎にいつまでもついていかない方が良い」と鳩山に忠告したという亀井静香の国民新党に対しては、かなりの小沢信者が冷淡だ。特に社民党に対しては、「共産や社民」というひとくくりで切り捨てようとする小沢信者が増えてきた。具体的にいうと、『雑談日記』というブログを運営しているSOBAという人間などがその代表格である。
社民党(や国民新党)を切り捨ててもいっこうに構わないという態度を小沢信者が取り始めたのは、むろん河村たかしや橋下徹との連携で小沢一郎一派の政権奪取が可能だと踏んでいるからにほかならない。政権交代前から橋下徹に秋波を送るはしたない挙に出ていたのは、鳩山由紀夫や菅直人も同様だったが、特に目立ったのが原口一博だった。そして、その原口が「日本維新の会」なる政治集団を立ち上げる構想を表明すると、それに呼応するように民主党比例区単独選出議員16人が菅直人に反旗を翻したわけである。要するに彼らは次の総選挙で橋下や河村の人気にあやかって、「改革者」面をして地位を守ろうなどという狭い了見で行動したに過ぎない。
そんな民主党の雑魚議員たちなどいちいち批判していてもしょうがないが、原口一博が橋下徹や河村たかしと連携しようとしていることは批判しておかなければなるまい。松下政経塾出身の原口一博という人間は、同塾出身の政治家の中でも有数の政治思想右翼にして新自由主義志向の政治家であり、評価できる部分は全くないといっても過言ではない。そんな原口が橋下や河村にすり寄って政治勢力を形成しようとは、まさしく「類は友を呼ぶ」である。
そんな原口一博を積極的に評価する政治家の一人に、あの城内実がいる。
城内は、自身のブログの昨年1月30日付エントリ「小沢一郎幹事長と『陸山会』の問題」http://www.m-kiuchi.com/2010/01/30/ozawamondai/に早くも
民主党は原口一博総務大臣を総理にして7月の参議院選挙を闘うしかない。
などと書いている。また、岩釣兼生氏という元拓殖大柔道部監督が先日死去した際、政治家名義の花輪を贈ってくれないかと支援者に頼まれた城内実が声をかけた10人の政治家の中に原口一博もいる。
蛇足だが、花輪の件は城内ブログの最近のエントリ「岩釣兼生先生逝く」
http://www.m-kiuchi.com/2011/02/08/iwatsurikaneosenseiyuk/に顛末記が書かれている。城内が他に花輪の贈呈を依頼した政治家たちには中曽根康弘、西岡武夫、平沼赳夫、安倍晋三らがいるが、城内がブログを書いた時点では平沼赳夫の同意は得られていない。城内自身がそう書いている。城内から依頼を受けた政治家のうち、はっきり断ったのが文部科学大臣の高木義明なのだが、高木の秘書が無礼千万だ、と城内は怒り狂っており、それで発作的にエントリを上げたようだ。この城内実というのも、浜松では無類の強さを誇る政治家だが、いつも思うのだけれどもこの男は極端な自己中心主義者だ。知り合いでも何でもない拓殖大の元柔道部監督の葬式に花輪を贈る道理はないと政治家が考えたって何の不思議もないと思うのだが、城内実にはそういう常識が理解できず、「おれさまが直々に頼んでいて、中曽根先生や安倍先生も同意してくれたのに、なんたる無礼者か」くらいにしか考えていないのだろう。そんな城内実を一昨年まで持ち上げていたのも、一部の小沢信者だった。
その城内実は、いずれ自民党に復党するだろうと私は考えていたのだが、昨年小沢一郎をめぐる怪情報をブログの記事にした時から「原口総理」をほのめかしていたことを考えると、「原口新党」に城内実が参加する可能性もあるように思えてきた。
もっとも、以上は余談で、城内実が参加しようがしまいが「日本維新の会」がろくでもない政治集団であることは間違いない。橋下徹や河村たかしと提携する以上、「減税」を主張の柱に据えることは間違いない。
「減税」というと、最近感心したのが下記のTwitterだ。
http://twitter.com/tikani_nemuru_M/status/37160731279364096
子ども手当がバラマキで、減税がバラ
マキででないという理屈がまったくわ
からない。貧困層に金を撒いても無駄
だという社会ダーウィニズムなんかね?
いや全くその通りであって、これには拍手喝采した。
いうまでもなく、「減税」とは公共事業と同様の財政政策だが、マスコミは何かというと公共事業を目の敵にするのに、「減税日本」が先日の名古屋トリプル選挙で躍進すると、「政治を変えるきっかけになる」とか「新しい政治の始まりを告げる」などと言ってこれを絶賛する。なぜか。
理由は簡単、たいていの公共企業には曲がりなりにも格差を縮小する再分配効果がある(東京に本社を持つ企業に傾斜的に配分されるなどの問題はあるが、ここでは措いておく)のに対し、減税は富裕層への逆再分配効果がある財政政策であり、全員に同額の税金をかける人頭税よりもっと格差拡大と階級固定化の効果が強い「究極の新自由主義政策」といえるからだ。つまり、格差を拡大し、階級を固定化したいマスコミにとって、河村の「減税」のワンフレーズポリティクスは大歓迎なのだ。
私はこのTwitterを見て、以後「減税日本」を「強者への逆再分配日本」と呼ぶことに決めた。「バラマキ日本」や「ネオリベ日本」の方が単純で良いのだが、やはり「逆再分配」という言葉を入れなければ、「減税日本」の本質を表現したことにはならない。
そんな「減税日本」の河村たかしと連携するという原口一博の新党もまた、「強者への逆再分配」を目指す政党という位置づけになることはいうまでもない。これは、小泉・竹中が君臨していた頃の自民党の比ではない、究極の新自由主義政党になる。
前のエントリに、小沢信者から「真の敵は植草や河村ではなく、菅一派だ」という趣旨のコメントをもらっているが、いわゆる「菅一派」の位置づけは、政権交代直前の麻生自民党と同じで、ほっといても勝手に自滅する勢力だ。当ブログは、政権交代選挙直前にはもう麻生自民党をあまり叩かなかったが、現在、河村たかしらへの批判に注力し、菅一派をあまり叩かないのは同じ理由による。麻生自民党も菅一派も、ともに主要経済閣僚に与謝野馨を戴く最悪の政権だが、ほっといても自壊する存在であり、むしろその後に控えているさらなる新自由主義勢力への批判とその脅威への警告に当ブログが集中するのは、私にとってはあまりにも当たり前のことである。
敵は、名古屋、大阪、そして佐賀にあり。今後当ブログは、河村たかしや橋下徹とともに、原口一博を徹底的に叩いていくことを宣言する。
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