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日本の政治報道を退屈にしたのは誰か――政治記者のみなさん、そろそろ本当の政治記事を書きませんか?(週刊・上杉隆|ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/articles/-/11172
たまには「政局記事」というものを書いてみようと思う。
〈2月17日、小沢一郎元代表に近い16人の国会議員が民主党会派を離脱した。
16人は、同党所属の比例選出の衆議院議員で、同日、衆議院に新会派「民主党政権交代に責任を持つ会」を届け出たのち記者会見を開いた。会長は渡辺浩一郎氏で、会見では「菅内閣に正当性はない」として即時退陣を強く求めている。
これに対して、枝野幸男官房長官は、同日午前の会見で、「動き自体は当然、承知をいたしているが、詳細、どういう理屈を立てておられるのか、よく分からないところがある。また、同じ党で会派が別ということは、これはもう、常識的に考えられないことだと思っているので、党の方で然るべくキチッとした対応をしていただけるものと確信をしている」と不快感を示した。
仮に、16人が予算関連法案などで反対に回れば、衆議院の3分の2議席による再可決が絶望的となり、菅政権は窮地に立たされることになる。
岡田克也幹事長ほか、党執行部は、16人の会派離脱を認めず、さらなる同調者の動きを封じ込めようと躍起になっている。
だが、小沢元代表周辺からは、さらなる同調者が現れることも示唆され、菅内閣は予算成立を前に、正念場を迎えている〉
ストレートニュースと
新聞記事の大きな違い
政治記者は大変である。朝から晩まで政治家を追いかけ、こうした記事を書かなければならないのだ。
一見すれば、立派な記事であるかのようである。だが、そこには何ら深みはないし、膝を打つような分析もない。なにより読んでいてまったく面白くもなんともない。
そう、こうした記事はストレートニュースと呼ばれ、通常、通信社の記者が書く記事とされている。
世界中のメディアでは、新聞記者と通信記者の仕事は明確に区別されている。一方で、日本ではその二つが混在している。
どういうことか? 端的に言おう。日本のメディア界には、「新聞記者」は存在しないのである。
筆者が冒頭に書いた「政局記事」は、世界で言えば、ストレートニュースに分類されるだろう。それは、現象をそのまま「切り取る」ことで、できるだけ速く、ありのままの素材を読者に伝えることが是とされている。
そのうちの一部は〈速報〉として扱われ、テレビや新聞などの同業者へ配信されることもある。
世界的にみれば、速報を第一義とする仕事に特化した報道機関を「ワイヤーサービス」と称し、ロイターやAP、日本でいえば共同通信、時事通信などがそれにあたる。
新聞記事には記者の知見を
総動員した内容が求められる
一方で新聞社の仕事はそこにない。世界中で新聞記者の求められている仕事は、さらにそこから踏み込み、自らの知識、見識、経験などを総動員し、さらに取材、調査、分析、検証などを加え、一本の記事を書くことにある。
そうなると、記者ひとりひとりが書く記事が違ってくるのが当然になる。人間はひとりひとり違うものである。よって同じ事象でも、違う価値観で物事を見るから、当然に異なる記事がたくさん生まれるのである。
そのために新聞には欠かせないルールがある。それは、基本的にすべての記事に「バイ・ライン」(署名)が義務付けられているということだ。
どういうことか? それはつまり、書かれている記事の内容と同時に、誰によって書かれているかということも、読者にとって重要な情報であるという認識が共有されているのだ。
たとえば、日本の報道で「ニューヨークタイムズによると――」などという引用がよくされる。
仮に、ニューヨークタイムズの記者がそれを知ったらきっと不思議に思うか、場合によっては抗議してくるかもしれない。
なぜか。それは、ニューヨークタイムズという新聞が記事を書くことは一切なく(当たり前だが)、それは個人の記者によって書かれたものだからだ。
日本の政治報道を
退屈にしたのは誰か?
つまり、世界的にみた場合、新聞は、記者個人の主観や思想などが入りこむことが許され、通信社のストレートニュースのように客観性をそれほど求められていない。
むしろ、スター記者が自らの署名のもと、ユニークな見方を提示することが少なくない。だから、新聞記事は引用するのならば、「ニューヨークタイムズのニコラス・クリストフの記事によれば」、とか「デイビッドサンガー記者(NYT)の記事によれば」という引用が正しくなる。
もちろん、原則、署名の必要ないワイヤーサービス(通信社)ではこの限りではない。
そう、日本に「新聞記者」がいないといったのはこのことなのだ。
日本で、無味乾燥の退屈な「政局報道」ばかりが蔓延ることになるのは、政治記者たちがすべて「通信記者」だからだ。
この世にはひとりとして同じ人間はいない。だから、新聞記者たちもそれぞれの価値観でもって記事を書けば、その人数分だけ異なった記事が生まれるのだ。
その多様性こそ新聞の面白さであり、新聞記者の仕事の醍醐味なのである。
政治記者のみなさん、そろそろ本当の政治記事を書きませんか?
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