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加藤の乱・wikipedia(小鳩陣営は「一年坊主の乱」のみで空き缶を撹乱し、七奉行の手で引き摺り下ろさせるべきです)
http://www.asyura2.com/11/senkyo107/msg/697.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 2 月 17 日 16:41:45: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E3%81%AE%E4%B9%B1
加藤の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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加藤の乱(かとうのらん)は、2000年11月に第2次森内閣打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の倒閣運動。いわゆる森おろしである。別名は加藤政局・YK革命。

目次
1 概要
2 遠因
3 加藤の戦略
4 加藤の発言
5 周辺の発言や行動
5.1 橋本龍太郎
5.2 小泉純一郎
5.3 野中広務
5.4 宮澤喜一
5.5 民主党・自由党
5.6 加藤派・山崎派の現役閣僚の動き
6 執行部の切り崩し工作
7 結末
7.1 「大将なんだから」
7.2 派閥の分裂
7.3 加藤派
7.4 山崎派
7.5 橋本派
7.6 森喜朗
8 不信任決議案における投票行動
8.1 賛成(190人)
8.2 反対(237人)
8.3 欠席(50人)
8.4 退場(1人)
9 本会議に欠席した自民党議員
9.1 宏池会(加藤派)
9.2 近未来政治研究会(山崎派)
9.3 平成研究会(橋本派)
9.4 無派閥
10 備考
10.1 マスコミの反応
10.2 本会議場でのコップ水事件
10.3 勘違い?
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク

[編集] 概要
2000年11月20日の衆議院本会議に向けて野党が森内閣不信任決議案を提出する動きを見せると、加藤紘一(加藤派会長)とその同志の国会議員が賛成もしくは欠席すると宣言した。これに加藤の盟友である山崎拓(山崎派会長)が山崎派として同調する構えを見せた。

当時、衆議院の議席は与党が480人中272人を占め、過半数より31人上回っていたが、衆議院の加藤派45人と山崎派19人の計64人が造反をすれば内閣不信任案が可決され、森内閣は内閣総辞職か衆議院解散を余儀なくされる。この発言は、加藤派の自民党からの独立、政界再編などさまざまな憶測を呼んだ。

党幹事長の野中広務による党内引き締めにより、加藤の意図は失敗したが、自民党内の混乱は森政権の低落に一層拍車をかけることになり、翌年春の自民党総裁選での小泉純一郎当選への布石となった。

[編集] 遠因
派閥を継承し総裁候補としての実績を着々とあげつつあった加藤と山崎。総裁候補の登竜門として1999年9月の自民党総裁選挙に出馬するも事前予想通り現職総裁の小渕恵三に敗れた。が、あくまでも登竜門のつもりだった加藤・山崎であったのに対し、無投票での再任を願っていた小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒した。また、加藤が小渕に政策論争を挑んだことも小渕の逆鱗に触れた。温厚な人柄で通っていた小渕だが「あいつは俺を追い落とそうとした」と加藤・山崎派を徹底的に干していく。非主流が干されることは政争の常であるが小渕の対応はその範疇を越えていた。小選挙区制導入により、徐々に執行部の権力が強くなっており、非主流派の立場は一層厳しいものとなった。

当時の加藤は改革派のイメージが強く(小渕とは財政に関して決定的に政策主張が違い、財政健全派や市場主義派に支持されていた)、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していた。また党内第二派閥で保守本流の宏池会会長や「YKKの長男」として総裁候補一番手と認識されていた。しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕が倒れ、いわゆる五人組によって不透明な形で森総理が誕生する。

森との順番的に遅れをとり(小渕再選前には、加藤は政界ではポスト小渕のNO1候補と衆目一致するところであった。保守本流の派閥の長、橋本・小渕政権誕生への協力、幹事長としての新進党切り崩しの実績等があったためである。しかし、当時の加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいた。YKKとしての反竹下派の源流、宮沢内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発などからである。しかし、自身の首相形態に理想を求めすぎた為、就任が云わば先送りにされていた)、加藤の焦りが極まる一方、森内閣は、神の国発言、中川秀直官房長官のスキャンダルによる辞任などで、内閣支持率は低迷を続け、不人気がピークに達していた。

国民の支持が低い森内閣のままで2001年参院選に突入すると自民党が惨敗することが予想され、自民党が敗北した1998年参院選での非改選議員と合わせて与党が参議院過半数割れ(ねじれ国会)も懸念されていた。一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回人事での加藤派・山崎派の要望だった小里貞利の総務会長起用や保岡興治の閣僚入りを実現させたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとってはそれは自らの人気を下げる行為にしかならず、森とは距離を置いていた。

山崎は政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、とことん加藤について行くつもりであった。また、当時の状況ではますますその道しか打開策がなかった。

[編集] 加藤の戦略
加藤はマスコミやウェブサイト、2ちゃんねる(運営側に了承を得て公式利用)などを通じて世論に訴える戦術をとり、広く公衆の関心を集めた。不信任案提出当日の夜は特集番組を放送したニュース番組等は軒並み高視聴率を記録し、タクシー・居酒屋・銭湯などは利用者が通常日に比べ激減するほど、世間の関心を集めた。なお、加藤自身は書籍物における2ちゃんねる関連の記事などで2ちゃんねらーであることを公言している。

加藤は、加藤派の一部の離脱は予想の範囲内であったが、不信任案を通す人数までは切り崩されることはほとんど無いと確信していた。

マスコミ・世間は不信任案否決に至っても加藤が自民党を離脱し民主党に与すると当然思ったが、加藤は自民党に残ってあくまでも自民党の中で改革を狙うと主張した。2000年当時、自民党を離脱した過去の様々な勢力はどれも一過性なもので、時機が過ぎれば自民党在籍時より政界影響力が小さくなっていたことも加藤の念頭にはあった[1]。

[編集] 加藤の発言
意思表明時
「森首相に改造はやらせない。」
11月9日夜、虎ノ門ホテルオークラ内日本料理屋「山里」での政治評論家(渡邉恒雄、早坂茂三、中村慶一郎、三宅久之、屋山太郎ら中曽根派に強い面子)たちとの会合で、内閣改造の話が出た際に倒閣を宣言。この発言から加藤の乱が始まった[2]。
中村が内閣参与であったため、加藤の倒閣宣言はすぐに中村から森首相に伝わった。
乱発生後
「私の携帯には菅さんの電話番号が入ってます」
盛んに菅直人や鳩山由紀夫との密接な関係をマスコミにアピールしていた。
採決の直前
「これから長いドラマが始まります。」
「100%勝てるが、今回ぼくは首相になれないだろう。次は河野さん(河野洋平外相)かもしれない」(順当度と、自身へのあてつけを意識して)
(17日未明に切り崩しの多数派工作が始まっていた時点での側近議員への電話)
乱の後
「私(加藤)は自民党内部での変革を望んでおり、国民は自民党を超えた政界の変革を望んでいた。これが大きな誤算だった」(『サンデープロジェクト』にて)
[編集] 周辺の発言や行動
[編集] 橋本龍太郎
11月11日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれた主流5派閥の会合にて「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」と発言した。

この発言以前にも各有力者が加藤を批判するコメントを出していたが、エスカレートして橋本がこの発言を行った。加藤を応援する側の世論から格好の批判対象となり、主流派の中からもこのコメントに対して下品だと批判が出た。

[編集] 小泉純一郎
小泉は衆議院本会議場でこの件について相談を加藤から受けている。その中で小泉は「俺ならもっと早くやっている」と語っており、加藤は小泉の支持(少なくとも個人的支持)は得たと解釈した向きがあった。評論家たちとの夜の会合の後に、マスコミが「加藤決起か!?」と伝えた際にYKKの仲の小泉が本人に確認し「加藤は本気だ」と述べたところから、加藤の決起が本物だということが一気に認知された。

「政策の小泉から、政局の小泉になる」と宣言した小泉は加藤が本気だと知るや森首相の出身派閥である森派の会長に就いていた立場から、マスコミや野中ら党内実力者に「加藤が不信任案に賛成する」と積極的に情報を流し、政策的に対立してきた野中ら党内実力者と連携して加藤派や山崎派、加藤に近い若手らを説得する役割に回り、不信任案に反対した。

加藤、山崎拓とともにYKKと呼ばれていた小泉は一部メディア・TBSテレビの報道番組『ブロードキャスター』で森派の一部とともに離党し加藤と合流するケースを報道していたが現実味は薄かった。

乱後にYKKが初めて同席したパーティーで小泉が「YKKは友情と打算の二重構造」と発言したことが注目を浴びた。笑顔で発言した小泉と苦渋の表情で発言を聞いた加藤・山崎との表情の対比も視聴者に印象を残した(後に加藤・山崎共に、小泉がYKK等でなく、あくまでも原点は福田にあり、森派を最重要視する政治家であったことを思い知らされる)。

[編集] 野中広務
橋本派の野中広務幹事長は当然、加藤の行動を批判して、切り崩しの先頭に立った。実質的に切り崩し側の総責任者的ポジションとなり、マスコミにも多々出演した。全てが決まる(切り崩し工作が頂点を極める)と言われた不信任提出前の土日の日曜日に北海道の会合に出席するという行動すらとっている(日曜の政治関連番組には中継で出演)。週末以前は「除名」の一本槍で超強気な姿勢を見せていたが、日曜のテレビ発言で条件的に含みを残す発言に変わった(水面下では小里貞利が野中・青木らと交渉を断続的に続けていた)。

かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばからなかった。1996年には加藤が幹事長時代に幹事長代理として補佐し、新進党からの保守系議員の引き抜き工作を行って自民党の衆議院単独過半数の成果を上げた関係であった。しかし、1998年の自民党総裁選で小渕の意向に反する形で加藤が立候補した時から反加藤の立場をとるようになった。

[編集] 宮澤喜一
浜田幸一によると、加藤は事前に宮澤喜一から「乱」の了解を得ていたか、煽られていたのだという。ゆえに、その後の宮澤の行動をみると疑問符をつけざるを得ない。 後に、舞台裏の話として、宮崎哲弥も宮台真司とのM2対談で宮澤黒幕説を述べている。

前日の宮澤との食事会で加藤がプランを説明すると、宮澤はそれを肯定・後押しするような態度を加藤に取ったというが、浜田・宮崎ソースとも宮澤は加藤に対してはっきりとした言質を与えていなかった点では一致している。

宮澤の政治的な権謀術数を見抜けず、素朴に信頼した点が政治家としての詰めの甘さを露呈したと言える。しかし、その後の議員辞職・出直し後の加藤はその詰めの甘さこそがむしろ加藤自身の魅力あるいは政治的資源に利用しうるリソースであるとの確信を持った。

その証拠に、今まで加藤があまり顧みることの無かった地元の小さな集会や居酒屋などの会合に積極的に参加するようになり加藤は以前にも増して人間の幅が広がったという見方をされている。

[編集] 民主党・自由党
自由党党首の小沢一郎は11月17日(金曜日)に不信任決議案を提出するよう民主党代表の鳩山由紀夫に主張したが、これは週末議員が地元に戻り、後援者から不信任案への対応を考え直すよう説得される危険性が考えられるためだった。

しかし、加藤が土日で逆に派内議員を説得すると主張し、鳩山は11月20日(月曜日)に提出、結果的に土日に切り崩され、加藤派所属衆議院議員の半数は加藤と袂を分かった。

乱失敗後、小沢は「男子じゃないな」とコメントしている[3]。

[編集] 加藤派・山崎派の現役閣僚の動き
現役閣僚だった山崎派の保岡興治法務大臣と加藤派の森田一運輸大臣は加藤・山崎の倒閣に表立って動けなかったものの、2人は加藤・山崎両派が内閣不信任案に賛成することを最終決定した場合、森首相に辞表を提出して不信任票を投ずることも考えていた[4]。結局、加藤・山崎派が欠席戦術に切り替えたため、保岡と森田は出席して信任票を投じた。なお、加藤派の吉川芳男労働大臣は参議院議員のため衆議院の内閣不信任採決には関与していないが、加藤の乱には反対する意向を示した。

その後の内閣改造で上記3人は大臣の地位を解かれている。

[編集] 執行部の切り崩し工作
執行部は加藤の同調者への切り崩し手段として、公認権を最大限活用した[5]。

野中は内閣不信任案が可決された場合、森内閣に解散総選挙を求めるつもりであった。野中は2000年11月17日に、都道府県連に総選挙の準備を指示している。同時に不信任案の採決に賛成したり欠席したりした議員は除名もしくは公認しないことを決めた。また、小選挙区支部長の「差し替え」、つまり対立候補の擁立も考えていたという[5]。

二大政党による対決が中心となる小選挙区制では二大政党の候補とならないと当選するのは難しい。また第一野党である民主党への合流という選択肢を事実上封じている中で元々の所属政党である自民党から公認されないことになると、二大政党間で埋没する中で当選が難しい選挙になってしまう可能性が出てきたため、加藤の同調者の多くは動揺し、加藤は同調者を十分集められなかったのである[5]。

切り崩し終盤には加藤・山崎に除名届を内容証明郵便で送るなど徹底して除名の意思を崩さなかった。まず、加藤との決別を表明したベテランメンバーの中に宮澤の名前があったことが大きかった。それに続いて、切り崩しが進み形勢が微妙だった時点で加藤の政権構想立案を担当した丹羽雄哉や加藤の側近中の側近と言われた古賀誠が離反したことで形勢は一気に決まった。

[編集] 結末
党内の国会議員に同調者が広がらず、ベテラン議員の中に保守本流を自任する自派が党を割ることや野党の不信任案に同調するという禁じ手への不満・不安がある中で、野中を中心とする執行部が除名を強硬に主張して切り崩された結果、加藤の腹心でもある小里貞利総務会長の説得を受け入れ欠席戦術に切り替えた。これを加藤は涙ながらに「名誉ある撤退」と呼んだ。

[編集] 「大将なんだから」
加藤派の議員が切り崩された中で、敗北を確信した加藤、山崎と側近議員がその後の対応を協議する場面の一部がそのままテレビで放映された。

途中、加藤・山崎の2人が単独で議場で不信任票を投じに行くと発言する。派閥領袖の単独での不信任投票は自分が起こした倒閣運動には党除名になっても一議員として最終的な責任を全うする一方で、非主流派として冷遇されるまで加藤・山崎に従った議員には党除名という辛酸に合わせないための配慮とされた。しかし、宣言して本会議場に向かおうとする加藤の肩を加藤派の谷垣禎一がつかみ「加藤先生、あなたは大将なんだから! 独りで突撃なんてダメですよ!」と懸命に慰留した。

側近たちの涙ながらの説得に加藤は顔を紅潮し、涙をにじませ、歯を食いしばりながら立ちつくす。加藤派、山崎派は全員で欠席することを確認し、残った議員での派閥の結束力を確認した。

印象的なこのシーンは、加藤の乱を回顧する場合、その挫折を象徴するシーンとして必ず用いられるものであり、谷垣禎一の人物紹介でも欠かせない映像となっている。

[編集] 派閥の分裂
この政局の結果、加藤派・宏池会は以下の様に分裂した。

加藤と行動をともにしたグループ(加藤派)
加藤、小里のほかに原田昇左右、森田一、谷垣禎一、川崎二郎、逢沢一郎、園田博之ら。
反対したグループ(堀内派)
宮澤喜一(前派閥会長)
鈴木善幸(前々派閥会長、既に引退していたが支持を表明した)
池田行彦(宏池会創世の池田勇人の後継)
丹羽雄哉(加藤の政権構想執筆者)
堀内光雄
古賀誠(加藤の側近中の側近)
太田誠一ら
宏池会の源流的存在の宮澤・鈴木・池田らが反対に周り、加藤の有力側近まで反対に周りベテランは追従し、宏池会の大勢は反対が決定的となった。

両グループは2008年に合流するまで双方が宏池会を名乗る異常事態となっていた。

また、上記どちらのグループにも属さず、一時無所属、あるいは現在も無所属を通している議員も存在する。
[編集] 加藤派
当時、世論の森政権・自民党への支持が極端に低かったことから、加藤への期待感がとても大きかったにも関わらず、離党は拒否し、投票も棄権したことにより逆に加藤への失望感や批判が渦巻いた。

加藤派の人数が大幅に減少し第2派閥から第6派閥に転落したこと、内閣改造と党役員改選によって加藤派の小里貞利が総務会長を離任し、森田一や吉川芳男が閣僚離任したことによって、加藤の党内影響力が大幅に低下した。さらに南青山マンション疑惑や秘書逮捕などによって加藤紘一は派閥会長辞任、党離党、議員辞職に追い込まれ、総理総裁候補から完全に脱落した。

議員辞職後の衆院選で議員当選して国政に復帰。自民党に復党し、加藤派の後継である小里派の最高顧問に就任したが、加藤及び小里派の政界影響力には既に限界があった。この様なことから、小里派も派の看板を将来の総裁候補と呼ばれていた谷垣に切り替えた。谷垣は小派閥出身者ながらも小泉内閣で財務相に就任しポスト小泉の一人として認知されるようになった。

加藤が倒閣運動を起こさなければ、派閥分裂は起こらず第2派閥領袖としての地位を保ち、2001年2月のえひめ丸事件を契機とするポスト森において、加藤が総理総裁になっていたと見る向きも多い。

[編集] 山崎派
一方、山崎派は離脱者は現役閣僚のために身動きが取れなかった保岡興治を除けば実質1人(稲葉大和)に留まり、派閥の結束を党内に知らしめた。乱に参加したこと自体には党内から批判を浴びたものの、小所帯ながらも、かつて鉄の団結を誇った田中派を彷彿とさせる結束に党内から感嘆の声が上がった。

しかしながら、結束は保ったとは言え、加藤の乱以後は内閣改造で保岡が閣僚離任をして山崎派の閣僚が1人もいなくなり、党内での影響力は更に落ち込み窮していた。この間、加藤派との合流や民主党への合流が噂されたが、小泉総裁誕生後は山崎が幹事長、その後副総裁に就任し、主流派となるなど、山崎と山崎派は党内で一定の影響力を維持することに成功した。

[編集] 橋本派
主流派・執行部側として乱の沈静化にあたった野中を中心とする橋本派は面目躍如となった。しかし、決議案投票に若手数人が棄権した。鉄の団結を誇るとされた橋本派の足元が最初に揺らいだ場面となった。それまでにも分裂等を経験していた橋本派であったが、それまでの分裂・離脱は派内有力者に引っ張られるケースであった。今回の離脱は、若手自らの意思によるもので派閥の影響力にほころびが見えてきた例となった。

以前からの森の不適切発言が連続し支持率が急落していたため橋本派内では森擁護の意欲が薄れていた。加藤の乱自体は徹底して沈静化したものの、乱沈静化前後でで「乱そのものは徹底的に鎮圧するが、決して森内閣を今後も支援していくわけではない」といったニュアンスの発言が橋本派幹部から多々出ており、既に橋本派内で森政権維持を断念・拒否したとすら見られる動きが出ていた。乱後は森政権から距離を置き始め、ポスト森を模索するようになった。これに小泉が激怒して当初は勝ち目のないと言われた総裁選出馬へ向かう事になる。

[編集] 森喜朗
もしこの加藤の乱が成功して内閣不信任決議可決が確実となった場合、解散総選挙を強行に促していた野中幹事長に反して党内融和を優先して、衆議院解散をせず内閣総辞職し、加藤に政権を渡す予定だったとされる。

不信任の対象となっていた内閣の首相だった森は2001年に内閣総辞職するも、次の首相には自派閥出身の小泉純一郎が選出され、派閥会長と後見人という立場で党内影響力を維持し、自ら率いる派閥(森派)も小泉政権下で主流派として党内で確実に勢力を伸ばし、後に2005年の衆議院選挙で当時の最大派閥であった橋本派を抜いて最大派閥に躍り出ることになる。

政策よりも党内の和を最も重視し、それによって出世したともいえる森は、後々までこの加藤の乱に対しての遺恨を持っており、2007年9月に発足した福田康夫政権の幹事長に谷垣禎一を起用することに反対したとされ、乱の森へ与えた影響の大きさが垣間見える。

ただ、乱より8年後の2008年6月9日、都内の日本料理店で加藤と会食した。席の上で、加藤は「あの時は迷惑を掛けました」と謝罪し、森と握手して和解している。

[編集] 不信任決議案における投票行動
[編集] 賛成(190人)
民主党・無所属クラブ:127人
自由党:22人
日本共産党:20人
社会民主党・市民連合:19人
無所属の会:1人(中田宏)
無所属:1人(川田悦子)
[編集] 反対(237人)
自由民主党:192人
平成研究会(橋本龍太郎派):57人
清和政策研究会(森喜朗派):39人
志帥会(江藤隆美・亀井静香派):35人
宏池会(加藤紘一派):24人
番町政策研究所(旧河本敏夫派):12人
大勇会(河野洋平グループ):12人
近未来政治研究会(山崎拓派):2人
無派閥:10人
公明党:31人
保守党:6人
21世紀クラブ:6人(山本幸三、宇田川芳雄、上川陽子、北村誠吾、谷本龍哉、平井卓也)
無所属:2人(藤波孝生、徳田虎雄)
[編集] 欠席(50人)
自由民主党:42人
宏池会(加藤派):21人
近未来政治研究会(山崎派):17人
平成研究会(橋本派):2人
無派閥:2人
21世紀クラブ:3人(森田健作、金子恭之、近藤基彦)
無所属の会:2人(柿沢弘治、粟屋敏信、土屋品子)
民主党・無所属クラブ:1人(三村申吾)
無所属:2人(渡部恒三、中村喜四郎)
[編集] 退場(1人)
保守党:1人(松浪健四郎)
[編集] 本会議に欠席した自民党議員
[編集] 宏池会(加藤派)
加藤紘一
逢沢一郎
石原伸晃
山本公一
福井照
小里貞利
金子一義
中谷元
佐藤勉
原田昇左右
北村直人
岸田文雄
塩崎恭久
谷垣禎一
杉山憲夫
根本匠
菅義偉
川崎二郎
園田博之
岩永峯一
望月義夫

[編集] 近未来政治研究会(山崎派)
山崎拓
木村義雄
佐藤剛男
田中和徳
亀井善之
武部勤
田野瀬良太郎
渡辺具能
甘利明
遠藤武彦
林幹雄
自見庄三郎
渡海紀三朗
原田義昭
大野功統
岸本光造
奥谷通

[編集] 平成研究会(橋本派)
松本和那
小西哲※病欠

[編集] 無派閥
平沢勝栄
渡辺喜美

[編集] 備考
[編集] マスコミの反応
マスコミやマスコミの言うところの国民にとって、最も「分り辛い」点として、現内閣への内閣不信任案に同調しながらも、離党は絶対にしないというロジックが乱中に何度も取り上げられ、加藤本人への突っ込みでも何度も使われた。加藤本人は、「過去に自民党を改革しようとして離党した人たちが度々いたが、一時の盛り上がりだけで、毎度いずれエネルギーを失ってしまっている。結局、改革に繋がらない行動になっている。だから、私たちは中でやる。」という主張を度々繰りかえしたが、マスコミには「それでも分り辛い」と評されていた。

[編集] 本会議場でのコップ水事件
本会議の演説において松浪健四郎議員が野次に激昂し、壇上からコップの水を掛けるという事件が起こった。

加藤の乱で揺れていた森内閣不信任案決議で、保守党を代表して反対討論を行っている最中、民主党議員から野次られたことを理由に国会の壇上から永田寿康に目掛けてコップの水を浴びせた(松浪は暴言を吐いたからと主張したが、永田は否定)。野次の内容は「おまえ、党首(=扇千景)と何発やったんだ」である蓋然性が高いとされているが、これは松浪自身が否定している。

水掛けの直後、抗議する野党議員が一斉に演壇に押しかけ大騒ぎとなり、あまりの音量に松浪は耳をふさぎながら早口で草稿を読み上げ演壇から降りた。松浪はこの場で議場からの退場の処分を下され、のちに登院停止処分を受けた。

[編集] 勘違い?
2007年6月29日、衆議院に安倍内閣不信任決議案が提出された際、加藤は賛成を意味する白票を持って壇上に上がった。「加藤の乱」の再発かと一時危惧されたが、加藤は白票を渡す直前にあわてて自分の席に戻り反対を意味する青票に持ち替えた。

本人曰く、与党議員は法案の採決でよく白票を使うために起きた単なる勘違いであったとのことだが、「本音は賛成だったのではないか」という周りの声もある。

[編集] 脚注
^ もし離党に至った際に、加藤派自体《特にベテラン》がついてこないとの計算があったと言われる。派内説得にあたる際も、再三「離党」は絶対に無いと説得している。また、加藤には保守本流という自負が強く、自民党自体を否定していた訳ではない。保守本流の自負心が強いのは他の宏池会ベテランにも言えることなので、離党が派内事情的に非現実的であるという認識があった。
^ ここが計画的なものだったのか、評論家たちに煽られて突発的に言ったものなのかが真相が明らかになっていない。
^ 小沢は1993年の内閣不信任決議採決において派閥を率いて不信任票を投じ、その直後の解散総選挙において自民党を離党し、非自民政権を樹立させている。
^ 過去には1993年の嘘つき解散時の不信任決議採決で2閣僚が辞表を提出した上で不信任票を投じた例がある。
^ a b c 竹中治堅 『首相支配--日本政治の変貌』 中央公論新社〈中公新書〉、2006年5月25日、135-136頁。ISBN 4121018451
[編集] 関連項目
倒閣
内閣不信任決議
第2次森内閣
宏池会、近未来政治研究会
[編集] 外部リンク
国会議事録

表・話・編・歴 自由民主党

前身:自由党・日本民主党

歴史

1950年代:
55年体制成立 55年 - 鳩山一郎 日ソ国交回復と国連加盟 - 保守合同

56年 - 石橋湛山

57年 - 岸信介 警察官職務執行法改正案 - 安保条約改定 - 満州人脈 - 三閣僚辞任


1960年代:
高度経済成長と
吉田学校の系譜 60年 - 池田勇人 所得倍増計画 - 農業基本法公布 - OECD加盟 - 東京オリンピック開催 - 三木答申 - 財界四天王

64年 - 佐藤栄作 日韓基本条約調印 - 非核三原則表明 - 公害国会 - 沖縄返還 - 佐藤派五奉行 - 黒い霧事件 - 日通事件


1970年代:
三角大福の激突 72年 - 田中角栄 日中国交回復 - 日本列島改造論 - 第1次オイルショック - 第一次角福戦争 - 青嵐会 - 田中金脈問題と椎名裁定

74年 - 三木武夫 ロッキード事件 - 三木おろし

76年 - 福田赳夫 日中平和友好条約調印 - 福田ドクトリン - 大福密約 - 第二次角福戦争

78年 - 大平正芳 田園都市構想 - 総合安全保障構想 - 第2次オイルショック - ダグラス・グラマン事件 - 四十日抗争 - 第三次角福戦争 - ハプニング解散


1980年代:
田中支配と
戦後政治の総決算 80年 - 鈴木善幸 増税なき財政再建

82年 - 中曽根康弘 新保守主義 - 国鉄分割民営化 - 二階堂擁立構想 - 死んだふり解散 - 創政会 - 皇民党事件 - ニューリーダーと中曽根裁定

87年 - 竹下登 消費税導入 - 昭和天皇崩御 - 竹下派七奉行 - ネオ・ニューリーダーの台頭 - リクルート事件


1990年代:
野党転落と
経世会支配 89年 - 宇野宗佑 参院選惨敗 - 自民一党支配の終焉

89年 - 海部俊樹 バブル景気 - 自衛隊初の海外派遣 - YKK結成 - 一龍戦争 - 一六戦争 - 安倍派四天王分裂と三六戦争 - 海部おろし

91年 - 宮澤喜一 バブル崩壊 - 佐川急便事件 - ゼネコン汚職 - KK戦争 - 経世会(金竹小)分裂 - 嘘つき解散

93年 - 河野洋平 小選挙区比例代表並立制導入に合意 - 自社さ連立政権で政権復帰

95年 - 橋本龍太郎 失われた10年 - 六大改革と中央省庁再編の決定 - 保保連合構想

98年 - 小渕恵三 金融国会 - ITバブル - ブッチホン


2000年代:
清和会支配と
2次野党転落 00年 - 森喜朗 自公連立 - 五人組 - KSD事件 - 加藤の乱 - 神の国解散

01年 - 小泉純一郎 聖域なき構造改革 - 金融再生プログラム - 郵政民営化(郵政国会 - 郵政解散) - 年金未納問題 - 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 - 日歯連事件(日歯連闇献金事件) - 中二階と麻垣康三

06年 - 安倍晋三 美しい国 - 再チャレンジ - 憲法改正論議 - 年金記録問題 - フールファイブ - 大宏池会構想 - 参院選惨敗、第一党より転落

07年 - 福田康夫 麻生包囲網 - 中宏池会 - 大連立構想

08年 - 麻生太郎 麻生おろし - 民主党との激突と野党転落

09年 - 谷垣禎一




自由民主党の派閥(※は派閥離脱、太字は現在への系譜、括弧内矢印は派閥継承)

保守本流 平成研究会

周山会(佐藤派)→周山クラブ(保利系→福田派に合流×)※七日会(田中派)→木曜クラブ(田中派)→木曜クラブ(二階堂系→×)※経世会(竹下派→)、※改革フォーラム21(羽田系→×新生党)、平成研究会(小渕派→橋本派→津島派→額賀派)

宏池会、為公会

宏池会(池田派→前尾派→大平派→鈴木派→宮澤派→)、※大勇会(河野系→為公会(麻生派))、宏池会(加藤派)→(分裂)宏池会・古賀派(堀内派→丹羽・古賀派→古賀派)、宏池会・谷垣派(加藤派→小里派→谷垣派)→(両派合流)宏池会(古賀派)

水曜会

(緒方派→石井派→×)

白政会 - 睦政会

(大野派)→(村上派→水田派→×)と(船田派→×)に分裂


保守傍流 清和政策研究会

十日会(岸派)→(分裂)愛正会(藤山派→×)、(南条・平井系→福田派に合流×)、交友クラブ(川島派→椎名派→×)、党風刷新連盟(福田派)→紀尾井会(福田派)→八日会(福田派)→清和会(福田派→安倍派→)、※政眞会(加藤系→×新生党)、清和会(三塚派→)、※日本再生会議(亀井系→旧渡辺派と合併×)、清和会(森派)→清和政策研究会(森派→町村派)

志帥会、近未来政治研究会

春秋会(河野派)→(分裂)春秋会(森派→園田派→福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派)→政策科学研究所(中曽根派→渡辺派→)、※近未来政治研究会(山崎派)、志帥会(村上・亀井派→江藤・亀井派→亀井派→伊吹派)

番町政策研究所

政策研究会 - 政策同志会 - 政策懇談会(三木・松村派→)(※松村系→×)→番町政策研究所(三木派→)(※早川系→×)→新政策研究会(河本派)→番町政策研究所(高村派)

二日会

火曜会(石橋派)→二日会(石田派→三木派に合流×)


その他 自由革新同友会

青嵐会→自由革新同友会(中川派→石原派→福田派に合流×)

新しい波

保守新党→(二階派→伊吹派に合流×)

新しい風(武部グループ) - 83会(小泉チルドレン系) - 伝統と創造の会(小泉チルドレンの勉強会)

自由民主党国会議員一覧




制度・組織

制度 自由民主党総裁選挙

執行部 自由民主党総裁 - 副総裁
シャドウキャビネット- 党三役(幹事長 - 総務会長 - 政務調査会長)
国会対策委員長 - 参議院議員団 - 青年局
政治教育機関:自由民主党中央政治大学院、自由民主党かながわ政治大学校、きょうと青年政治大学校、TOKYO自民党政経塾
党友組織:自由国民会議、政治資金団体:国民政治協会



国対政治

自公民路線 - 自社さ連立政権 - 保保連合構想 - 自公連立 - 大連立構想


 

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コメント
 
01. 2011年2月17日 16:54:03: suTTFOUbRQ
何やよう分らんけど、長いなぁー。
表題だけで十分理解できます。

02. 2011年2月17日 17:00:05: beQiOMZZVw
「1年坊主の乱」などという茶化したような表現はやめてください。

16人の厳しくも真摯な決意は、09年夏に民主党に投票した小生にとっては

本当に、本当に救いなのです。長い暗闇の向こうに見えた灯火なのです。

09マニフェストを国民との約束と話すこの16人こそが真の民主党議員です。

一介の爺ではりますが、この16人を全身全霊で応援します。


03. 2011年2月17日 18:06:05: J6GR7fESKw
党首討論。
09マニフェストに関して谷垣総裁に質問されると、10マニフェストで答弁する管総理。
10マニフェストは参議院選で否決されたのが理解できていない。
国民の信任は09マニフェストですから倒閣運動は当然の帰結でしょう。
1年生議員は純粋なのだ。

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