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20110216衆議院予算委員会 町村信考(自民)1/3
http://www.youtube.com/watch?v=oVPAhKWYz88&feature=related
20110216衆議院予算委員会 町村信考(自民)2/3
http://www.youtube.com/watch?v=J1meIcOTu6Y&feature=mfu_in_order&list=UL
20110216衆議院予算委員会 町村信考(自民)3/3
http://www.youtube.com/watch?v=SjQyApOx5Ew&feature=mfu_in_order&list=UL
町村信孝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E6%9D%91%E4%BF%A1%E5%AD%9D
町村 信孝(まちむら のぶたか、1944年10月17日−)は、日本の政治家、元通産官僚。衆議院議員(当選10回[1])、清和政策研究会(町村派)会長。
北海道江別市出身。文部大臣(第121・125代)、科学技術庁長官(第64代)、文部科学大臣(第1代)、外務大臣(第135・136・139代)、内閣官房長官(第75代)を歴任した
政治家として
福田赳夫の誘いで13年間勤めた通商産業省を辞め、政界入りをめざす。父・金五には大反対され、夫人には3回落選するまで付き合ってほしいと懇願する中[8]で1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選を果たす。以降10期連続当選。1991年(平成3年)春の北海道知事選では現職横路孝弘の圧倒的な強さの前に鳩山由紀夫・舛添要一そして自身も辞退し当時の選挙区でのライバルで落選中の中曽根派佐藤静雄が自民党推薦で出馬した為自身も支援したが惨敗。1995年(平成7年)春の同選挙では、自民党・自由連合推薦、さきがけ支持の伊東秀子を支援したが、日本社会党・新進党・公明・民社協会が推薦する前副知事の堀達也に敗北。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、当初は国政復帰目指す横路が出馬する北海道第1区での擁立が検討されたが、選挙区調整によりまちむら農場のある5区から出馬し、新進党党首小沢一郎の甥小野健太郎に圧勝し小選挙区当選した。
1997年(平成9年)の第2次橋本改造内閣で文部大臣に就任し、初入閣。小渕内閣では大臣経験者ながら高村正彦外務大臣の下、外務政務次官を務める。第1次森内閣では文部大臣・科学技術庁長官を務め、中央省庁再編により初代文部科学大臣となった。
小泉政権では自民党総務局長、幹事長代理を務め、2003年(平成15年)の北海道知事選挙では通産省の後輩である高橋はるみを擁立し、北海道史上初の女性知事誕生に貢献した。
2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣では外務大臣に就任した。町村の外相起用を強く働きかけたのは、同じ派閥の後輩にあたる安倍晋三で、9月22日に安倍が小泉と会談した際に起用が決まったとされる。外相としては対中ODA廃止や尖閣諸島の灯台管理などを行い、第3次小泉内閣まで務めた。政治家の年金未納問題が注目された際には年金の未納が発覚している。また、郵政選挙では町村は再選が厳しいとの見方があったが、最終的に町村は北海道5区において全国4位の17万票を獲得し圧勝、8回目の当選を果たした。
2006年自由民主党総裁選挙では同選挙へ立候補した安倍の選対本部長代理として、安倍の総裁選出に奔走し、発足した政権では要職への就任が有力視されたが実現しなかった。その後、元首相森喜朗に代わり、清和研会長に就任し、森派から町村派となった。代替わり後に最初に加入した新人代議士は福井県第1区選出の稲田朋美。
2007年(平成19年)8月27日、安倍改造内閣で外務大臣に就任。当初は内閣官房長官への就任が確実視されていたが、安倍と麻生太郎の最終的な話し合いで、土壇場で与謝野馨の名が浮上し、町村は2度目の外相就任となった。外相再登板後は、麻生が提起した「北方領土面積二等分論」を論外だと批判。従来の方針通り「4島一括返還論」を主張する立場に回帰した。
安倍の退陣表明を受けて行われた2007年自由民主党総裁選挙で、立候補に意欲を示したが、同派閥の福田康夫の立候補表明を受け福田を支持。自身の立候補は見送った。
2007年(平成19年)9月25日、福田康夫内閣の発足に伴い外相から内閣官房長官に横滑りした。派閥の領袖が官房長官を務めるのは初めてのことである。なお官房長官に就任したため町村は閥務に時間が割けなくなり、町村派は会長職を廃止して町村、中川秀直、谷川秀善の3人を代表世話人とする集団指導体制となった。福田康夫改造内閣でも内閣官房長官に留任した。福田改造内閣発足後初の閣僚記者会見において、会見場に掲揚された国旗に登壇・降壇時共に敬礼したのが町村ただ1人であったため、後に潮匡人が福田首相をはじめ、町村を除く福田改造内閣の閣僚を批判している。
2009年(平成21年)2月5日、森喜朗は、内閣総理大臣麻生太郎に批判的言動を行った中川秀直の派閥内での影響力を削ぐために、町村を会長に復帰させた。森同様に町村自身も、中川との関係は良くないようで、町村派の会合などで「町村派の中には確か広島県選出の議員はいらっしゃらなかった……ああ、中川先生がいらっしゃいましたか」などと皮肉とも取れる言動が見られた。
同年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区で民主党元職の小林千代美に3万票余りの差をつけられ敗北。重複立候補した比例北海道ブロックでは自民党2枠に対し、名簿順1位内の惜敗率で武部勤(北海道12区)に次ぎ2番目となり、復活当選を果たした。10月15日には衆議院予算委員会の筆頭理事に就任。
その後、小林は選対幹部の公職選挙法違反での公訴提起と北海道教職員組合からの不正な政治献金の問題が発覚し2010年(平成22年)6月に議員辞職。これに伴う補選に出馬するため10月に議員辞職し[9]補選では自身の長女の札幌南高校の同級生だった民主党の新人中前茂之に勝利し、10回目の当選を果たした(投票率は過去最低の54.34%で、同選挙区の過去最低だった1996年の60.53%を大きく下回った)。
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