http://www.asyura2.com/11/senkyo107/msg/473.html
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http://www.youtube.com/watch?v=Ca0xVATQhQ4
菅政権発足当時の映像である。
ここで菅直人首相について語られた事は結果的には間違った事は一つもない。
すべてその通りになっている。この二人の人物評は実に適確だったことになる。
佐高信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%AB%98%E4%BF%A1
山形県酒田市生まれ。父・兼太郎は茜舟(せんしゅう)の雅号を持つ書道家・教師[1]。山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。呉智英によって学生時代は構造改革派の活動家で自治会選挙に立候補したと宣伝されたが、これは呉の悪質なデマであり、自身が明確に否定している。大学時代の佐高は大人しく、学生集会の片隅に座ったりベ平連のデモに加わる程度で、特定のセクトには所属したことはない。支持政党は一貫して日本社会党(現・社会民主党)である。また陸上競技の選手としても活動した。
1967年に大学を卒業後、郷里・山形県で高校教員となるが、同僚女性(現在の妻)との不倫トラブルを起こし辞職、前妻と離婚し、1972年に再度上京した。佐高の全面協力により書かれた評伝によると、次のような事情があったという。
「昭和四十二年の春、卒業と共に帰郷して庄内農高の社会科教師となる。ここで三年、教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びた、庄内工高に転じて結婚もしたが、同じく“赤軍派教師”のレッテルを貼られる。教育の現場に怒って県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥った。「佐高なんかのツラも見たくない」と反発する教師仲間は、陰湿に白眼視。母・千代は孫娘を抱いて死ぬと言い出し、佐高も自殺を思いつめる。四十七年八月、ついに辞表を出して上京」[1]
上京後は総会屋系経済誌『現代ビジョン』編集部員を経て、編集長に。その後、評論家活動に入る(『現代ビジョン』誌については下の項目も参照)。
日本企業に関する批判的な評論で、『噂の眞相』(休刊に伴い、月刊『創(つくる)』に移行)に連載した「タレント文化人筆刀両断」は連載100回を超える。「佐高信の政経外科」をサンデー毎日に連載中。また『週刊金曜日』のコラム「風速計」も担当。
経済小説や歴史小説にも造詣が深く、池波正太郎、藤沢周平の熱心なファン。『金融腐蝕列島』(角川書店、1997年)など高杉良の著書の解説を多く手がける。
第44回衆議院議員総選挙直前の2005年9月4日放送「サンデープロジェクト」(テレビ朝日)に『社民党応援団』として出演するなど、公然とした社民党支持者である。また、2007年3月まで新社会党の機関紙『週刊新社会』にコラム『毒言毒語』を連載していた。土井たか子らと“憲法行脚の会”を結成、加藤紘一との対談集会を開くなど護憲運動を行なっている。日本共産党には批判的で、九条の会への参加を呼びかけられた時は日本共産党の関係者が加わっていることを理由に拒否している。
小泉内閣・安倍内閣への批判から、「クリーンなタカ派よりはダーティでもハト派の方が良い」と、加藤紘一や野中広務、鈴木宗男ら自民党内の左派や旧竹下派人脈との関係を深め、ロッキード事件で失脚した田中角栄に関しても「ダーティなハト」として相対的に評価している。なお、田中秀征については「クリーンなハト」としており、昔から親しい。
西部邁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E9%82%81
西部 邁(にしべ すすむ、1939年3月15日 - )は日本の評論家、思想家、雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。
1939年3月、北海道山越郡の漁師町・長万部町に生まれる。父は浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校、札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスもレーニンもスターリンも毛沢東も知らぬノンポリであった。1957年、東京大学の受験に落ち、その後一年間浪人生活を送る。
1958年4月、東京大学教養学部に入学、三鷹寮に入る。同年12月に結成されたブント(共産主義者同盟)に加盟する。在学中の1959年から教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙の際、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え共産党員の候補を落選させる[2]。また全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加する。1961年3月、左翼過激派と決別する。1964年3月、東京大学経済学部卒業。このころ西部はやはりブントの活動家であった青木昌彦の勧めで東京大学大学院に進み、経済学を専攻する。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。横浜国立大学経済学部助教授、次いで東京大学教養学部助教授に就任する。経済学をはじめとする社会科学の細分化を一貫して批判する。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では社会学などの方法論を導入して旧来の経済学を批判する。経済行為の象徴的意味の解釈を志向する社会経済学の構築をめざし注目された。その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍。『蜃気楼の中へ』という英米滞在記を発表した。帰国後80年代から大衆社会批判を主軸とした保守論客として活躍をはじめ、各方面で発言を続ける。高度大衆社会・アメリカニズム批判と西欧流保守思想の擁護とを基軸にした評論活動を活発に行う。みずからも受賞したサントリー学芸賞の選考委員を長く委嘱される。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任する。
1988年、中沢新一(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会は通ったが教授会の採決のとき一部の教官たちの妨害により否決される。同年3月、西部はこれに抗議して東京大学を辞任する(東大駒場騒動)。その後は評論家活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、秀明大学教授・学頭を歴任。新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった。西尾幹二が台湾や金美齢を批判したことを巡って西尾との間で論争に発展した。台湾独立派の金美齢は「つくる会」に協力的だった。アメリカニズム、グローバリズム、近代主義への批判は従来から西部の思想の中心を占めていたが、アメリカ同時多発テロ事件以降の日本の親米知識人たちのアメリカ追従姿勢に対する批判は西尾や田久保忠衛らとの対立を招く。
2002年、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。以後「産経新聞」、「正論」、「諸君!」などを中心とする日本の親米保守の知識人たちと一線を画し彼らを批判。アメリカのイラク侵攻に大義はないと主張し彼らと対立した。また女系天皇を容認する皇室典範改正を是としたことから「左に回帰した」との批判を受ける。だが、現在も日本の核武装、徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配などを主張している。
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