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今日は私が巻き込まれた冤罪事件について記述する。
悲劇の発端は1998年1月30日に起きた。私はこの日の夕刻、東海道線上り電車内の4人掛けボックス席の通路側の座席に腰をかけた。向かいには女性が二人腰をかけていた。向かいの女性は眠っている様子だった。当時私は足の付け根に湿疹があり、暖房の温かさによってかゆみを感じ、ズボンの上から患部を掻いた。
このことが誤解されたらしく、車掌が通り過ぎる時に、向かいに座っていた女性が車掌に声をかけた。
当然、犯罪でも何でもない。ところが、警察に連行され、大声で恫喝され、認めなければ逮捕だと騒がれた。このときの私の対応が誤りであったことは、のちに判明するが、警察の恫喝と利益誘導に応じて、上申書を書いた。本来、直ちに弁護士を呼び、適正な対応を取るべきであったが、こうした問題への無知が災いした。
当時は橋本政権の時代であった。私は消費税増税反対の先鋒として活動し、当時の新進党に重用された。97年2月に衆議院予算委員会では新進党推薦で公聴会での参考人意見陳述をした。何らの問題もないことが刑事事件とされた背景に、当時の橋本政権との激しい確執があったのだと推察される。
2001年に小泉政権が発足し、私は小泉政権批判の先頭に立った。小泉政権が私を敵対視したのは当然のことであった。このなかで彼らは98年事件の存在を掴み、これを表面化させようと画策したものと思われる。テレビ番組への出演のなかで、何度もその感触を経験した。
2004年品川事件はこのなかで発生した。横浜から神奈川県警の警察官が品川まで私を尾行し、品川駅改札で私を見失った後も執拗に私を探し出そうとしたことは異常としか考えられない。
私が完全無罪である動かぬ証拠は品川駅高輪口エスカレーター上下4台の防犯カメラが完全に捉えていたはずである。私は一貫してこの防犯カメラ映像の解析を求め続けたが、警察は10日以上も要請を拒絶し、あげくの果てに「映像が消えてなくなった」とした。警察による証拠隠滅であった。
2006年9月事件では、私の無罪を完全に立証する目撃証人が名乗り出てくれて、法廷で私の無罪を完全に立証した。検察側も目撃証人を出廷させたが、この証人の証言は重大な矛盾に満ちたものであった。
あげくの果てに、この証人が警察への出頭日について、完全な偽証を行ったことも明らかになった。この証人の証言はねつ造されたものであると思われる。
私の無実は法廷で完全に証明されたが、不当に歪められた国策裁判が展開された。
基本的人権擁護の観点に立てば、刑事司法における最大の要請は冤罪の防止にある。
「10人の真犯人を逃しても一人の無辜を処罰してはならない」
この「無辜の不処罰」こそ、基本的人権擁護の基本中の基本である。
明治の時代に、この視点を誰よりも重視したのが初代司法卿江藤新平であった。これに対して、国権の強化のためには人権圧殺もありうべしのスタンスをとったのが大久保利通である。大久保は不正な方法で江藤新平を抹殺した。ここから、人権軽視・人権無視の日本警察・司法の歴史が定着していった。
冤罪被害者がどのような理不尽、不条理、苦しみに直面するのかは、経験をした者にしか分からないと思う。
それでも私は真実を述べ、真実を訴えて、今日まで闘ってきている。ありがたいことに、多くの同胞が私の言葉に信頼を寄せて、私の言葉を信じてくれている。そのことに深く感謝を表したい。
真実を直接知る者は本人しかいない。天と地、そして汝と我。この四者だけが真実を知る。これを「四知」という。
その場にいなかった人は、結局、誰の言葉を信じるかによって、判断が変わる。
私は、事件の詳細を書物にも記述した。私が知る真実のすべてをありのままに示してきた。そのうえで、天地神明に誓い、無実であることを訴え、再審開始に向けて、いまなお名誉回復の闘いを続けている。
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