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大相撲における八百長問題を大騒ぎしているマスコミや評論家たちは、その根本にある大相撲というものの存在が何であるかを理解しているのだろうか。この根本的な問題については「文化と文明」というものの理解が存在していなければならない。
これを端的に表現した言葉は司馬遼太郎の「アメリカ素描」の一節で述べられている次の言葉に凝縮されている。
「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。
ここで、定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で言えば交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。・ ・ ・ 一部省略
以上の事からいうと日本などは精神の安らぎのための不合理な習慣でつまっている。年末だけでも年賀状を書き、お歳暮を送り、忘年会で飲み、紅白歌合戦を見、年越しそばをすすり、除夜の鐘をきき、気の早い人はそのまま初詣に出かける。そういう文化の蓄積とその共有が、自然とクニの形をとったのが、地上のほとんどの国の場合である。日本の場合、そのアンコという文化の上に、マンジュウの皮のように文明という法秩序がある。 ・ ・ ・ 以下省略」
大相撲を野球やゴルフのような、他のスポーツと同じ観点からしか見れない評論家やヤメ検達の意見の白々しさや違和感が耳の中でこだまする。私は単純に処罰だ処罰だという報道には絶対に反対する。
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