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2011年02月08日
「推定無罪」はどこに行く(落合 恵子) 2011/2/4
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1727
(以下、引用)
「小沢一郎、強制起訴」。二月一日の多くの朝刊のトップである。
すでにおりこみ済みのことではあるのに、多くメディアが、いまはじめて知ったかのように、この「既定の手続き」を報道してみせる。なんだかヘンだ。
起訴することは法律で決まっていることではないか。それになんだか気持ち悪い。なぜ「小沢一郎」が検察審査会に起訴議決されたのか。「であるに違いない」とか「だと思う」といったレベルではなく、思い込みなしに、正確に、過不足なく答えられるひとがどれほどいるだろう。
元秘書の石川知裕被告は、自白に誘導があった、そのICレコーダーがある、と述べている。わたしたちは彼が録音したものを聞けるわけもなく、真偽の程は全くわからないが、元秘書と呼ばれる彼らとの「共謀」の有無が裁判の争点になるはずだ。
元秘書たちの供述は「具体性・迫真性に欠いている」としながら、検察審査会は「共謀」を認めたのだ。
とにかく、すべてはこれからである。
にもかかわらず、メディアは相変わらずの大騒ぎだ。公職にあるものが一般より厳しい倫理観なるものを求められるのはわかるが、強制起訴イコール有罪という印象を与えるかのような報道のありかたは、明らかに問題だ。それ以前から問題の報道は少なからずあったが。
ここで「推定無罪」の原則をなし崩しにしてしまって本当にいいのか。
恐れるのは、むしろ小沢さんほどの力を持ったものでさえ、メディアによってあるイメージを作られ、そのイメージに沿っての「扱いを受ける」という事実である。
この国において「推定無罪」の意識は、充分に根付いているとはいえない現状である。なにがなんだかわからないまま、強制起訴イコール限りなく有罪という空気がこの件で作られ、立ち止まることなく前のめりに進んでいくとしたら、こんなにおそろしいことはない。
小沢一郎というひとを政治家として評価するか否かの問題以前に、わたしたちはもう一度立ち止まる必要はないか。そして整理する必要はないのか。メディアの動きも含めて、「コレは一体なんなのか。なんだったのか」を。
「反」だの「親」とかいったレベルの問題ではない。
(引用、終り)
このまえ、NHKの昼のトーク番組に出てて、「大切に持っていなければならないのは『怒り』」と語ってた。
「特定の人々だけがいい目をみるような世の中は変えなければいけない」と。
若い頃のレモンちゃんは、可愛い声で魅力的だったけど、一筋、芯の通った賢明さを感じさせるものがあって、やはりその通りだった。
今朝のテレ朝のワイドショーに出ていた落合恵子氏が、日米開戦にただひとり、「反対」の票を入れた、アメリカ初の女性国会議員、ジャネット・ランキンの事例をひき、「全員が一致して同意見」であることの「不健康さ」「不気味さ」を訴えていた。
むろん、検察審査会11人が一致して「起訴相当」とした「きな臭さ」に対してのものである。
マスコミすべてが横並びし、同じ者を持ち上げ、同じ者をたたき、「こういう場合はこう報じるだろう」ということが予めわかるような報道を繰り返している。
その中にあって、泥中の蓮のような、落合氏の賢明な発信は貴重である。
さすが、わが青春時代、文化放送「セイ!ヤング」に於いて爽やかな喋りで癒してくれた「レモンちゃん」だ。数十年を経た今でも、僕らの味方であり続けてくれている。同期のみのもんたとは、天と地ほどの違いだ。
こういうときにこそ、人物の真偽が分かれてくる。それをつくづく感じさせてくれた。
本ブログ2010年4月28日の記事
http://eiji008.blog19.fc2.com/blog-entry-104.html
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