28. 2015年4月03日 02:22:38
: vA4YpeHHrA
大天使ミカエルとミカエルの仲間たち http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/folder/1248018.html石井紘基議員刺殺犯伊藤被告はなぜ三幸建設工業と?(メモ) 2015/2/14(土) 午後 2:20 2002・11・29週刊金曜日 石井紘基議員刺殺犯伊藤被告はなぜ三幸建設工業と? http://www.angelfire.com/journal2/esashi/isiikoki09.htm 1932(昭和7)年、昭和維新を掲げて元日銀総裁の井上準之助と三井合名会社理事長の團琢磨を殺害した血盟団事件に連座した四元は、服役中に「組繊には核心があり、会社には社長、国には首相がいる。どんな組織でも、その一人の決断と指導力の出来、不出来で栄えもし、滅びもする」と考え、出獄後、近衛文麿、鈴木貫太郎両首相の秘書をつとめた。戦後も吉田、池田、佐藤各氏ら歴代首相の知遇を得た。 戦後歴代内閣と深く関係し、安岡正篤らとともに元首相・中曽根康弘の陰の指南役とも言われた。中曽根氏は著書で、四元義隆氏(93)という人物を「政治相談役」としている。中曽根氏は首相になる10年余り前から四元氏のもとへ通い、首相在任中は官邸にも招いた。 日比谷で幣原内閣打倒を叫ぶ7万人集会が開かれ、鳩山一郎が右翼の児玉誉士夫と組んで反共演説をぶつという、全土騒乱の時代であった。この時代に、幣原内閣の秘書をつとめていたのが、数々の週刊誌で「東京二信用組合救済計画を仕組んだ男」と噂されてきた右翼の政商・四元義隆であった。 四元は、三幸建設工業を経営する社長として、政財界に隠然たる勢力をもつ大物右翼とされてきたが、鈴木進とは戦前からの知り合いで、鈴木進・紳介親子が経営する安全信用組合の理事にも就任していた。それは、安全信用組合が、創業時から三菱財閥によって経営されてきた金融機関だったからである。つまり、幣原喜重郎の妻は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘であった。 まず三菱財閥の岩崎家があり、その娘ムコ・幣原喜重郎の秘書が、のちの政商・四元義隆であった。そのため、四元が三菱財閥の安全信用組合の理事に就任した。また、幣原喜重郎の息子の姪が、鈴木紳介と結婚したため、鈴木が理事長となって、高橋治則と共に95年に逮捕されることになったのである。 「、、、電力会社は、平岩外四が電事連の会長をつとめた時代に、電気料金の甘い利益だけを吸いあげようとする無責任な企業方針を推進することになった。 平岩外四は、泉井事件では石油公団の顧問やアラビア石油の監査役として暗躍している。また東京二信組破綻事件では、右翼の政商・四元義隆と密談してイ・アイ・イ高橋治則の救済に暗躍したと噂された通り、表の顔とは別に、明らかにいま述べた三菱軍事財閥の小番頭役をつとめ、院政をとりながら日本の裏の世界で動いてきた。、、、」「日本最大の官僚組織・電力会社と軍需工場・三菱重工・広瀬隆著」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 則ちゃんが死んだ。 http://kishida.biz/column/2005/20050721.html
則ちゃんとは、イ・アイ・イの社長で東京協和信用組合の理事長だった高橋治則氏だ。私は面識がないが、「則ちゃん」と気安く呼んでいた人は二人ほど知っている。一人はかつて私と6年間一緒に仕事をしていた人で、もう一人は山口敏夫だ。自家用ジェットを持っている若い実業家にしては、普通に親しみをもって誰からも好かれていた感じだ。二人とも則ちゃんの自家用ジェットに乗った口だが、だからなんだって感じだ。 10年前に背任容疑で逮捕され、2003年に東京高裁から3年6ヶ月の実刑判決を受けたが、上告していた。何の背任かというと、自分が理事長をしていた東京協和信用組合と旧友が理事長をしている安全信用組合に損害を与えたというもの。実体のないゴルフ場に融資したりしたのがいけなかった。 そのいけないのに関わっていたのが山口敏夫元労働大臣だ。山口敏夫のお姉さんはゴルフ場や海外リゾートを造るという会社をやっていて、どうもそちらの方に300億円近いお金が流れたようだ。 東京協和信用組合と安全信用組合の二つの信組は結局潰れてしまったが、その回収不能額は1,600億円といわれ、山口ファミリーに行ったお金だけではとても済まされない額になった。 どこへ消えたかはよく分からないが、オーストラリアを中心に幅広い不動産投資や有名ホテルの買収を行なったので、そちらに消えたか、山口敏夫の親分だった小沢一郎のところにも消えたとの疑惑もある。さらに勘ぐれば、長銀(旧長期信用銀行、現在の新生銀行)が融資したイ・アイ・イに対する貸付金の返済に当てていた可能性もある。 というのも、不動産投資や有名ホテルの買収劇は、長銀の方が主導的だったといわれているからだ。 長銀は、則ちゃんが社長をしていたイ・アイ・イ・インターナショナルにピーク時で3,800億円の融資をしていたといわれている。長銀が則ちゃんの会社と取引を始めたのは1985年。脱重化学工業化が進んだ時代で、長期の融資を担当する長銀としては、ライバルの興銀に追いつくために、新規分野を模索していた時期だった。大型案件のゴルフ場開発やレジャー施設の建設はうってつけだったに違いない。 当時則ちゃんは、まだ39歳だ。この若さで、信用組合の理事長になり、「南太平洋のリゾート王」と呼ばれる道を進んだのはなぜなのか。バブルだからとひとことで片付けるのは簡単だが、当時は誰もバブルだとは思っていなかったのだ。では、どうしてそんな不思議なことが起きたのか。 理由は三つある。 ひとつは投資手法だ。 則ちゃんは慶応の法学部を卒業後日航に勤めるが、10年ほどで会社を辞めた。理由はもっとクリエイティブなことをしたいという事だったが、恐らく嫁さんの方の影響があったのではないかと思う。 則ちゃんは日航時代に「北海道のドン」といわれていた北海道テレビの社長だった岩沢靖氏の娘と結婚した。その岩沢氏に手ほどきを受けて株式投資を始め、さらには銀行から金を借りて不動産を購入し、その値上がり益で次の不動産投資をし、その不動産を担保に再び銀行から金を借りるという手法を勉強したようだ。今なら典型的なバブルの手法だと分るが、当時はそのようなことをしている人は少なかった。則ちゃんは早くからバブルの錬金術を身に付けたのだ。 もうひとつは人脈だ。 「イ・アイ・イ」というのはなんだか分らない名前だが、もともとはコンピューターの関連部品を輸入販売する会社だった。お父さんが始めた会社だといわれている。その、「イ・アイ・イ」に近付いた人がいた。日本IBMの社長室に勤めていた窪田邦夫氏だ。則ちゃんよりひとつ年上のやり手だ。 時代はコンピューター万能時代で、金と人と情報が日本IBMにも集まっていた。そこで、IBMの首脳陣は財界人を相手に私的勉強会を開いていた。その事務局長が窪田氏で、彼は黒皮の手帳並みの政官財あわせて173人のリストを作成していた。大蔵、外務、通産などの各省庁の課長クラスや一流企業の会長社長、芸能人、スポーツ関係者や国立大学の医学部長などのリストだ。 その中に、ゆくゆく則ちゃんの自家用ジェットでオーストラリアのカジノへ行く人たちがいたのだ。大蔵省で重要な立場の主計官とか政治家では中西啓介、山口敏夫などだ。 則ちゃんが海外の物件に詳しくなれたのもそのうちの一人がコンサルタントを引き受けたからだとされている。 政治家の中西啓介や小沢一郎は同時に則ちゃんのお兄さんの学友だったらしい。則ちゃんのお兄さんは電通のスポーツ文化事業局の次長(恐らく現在は電通常務)をしていたらした方で、人脈は深いはず。 三番目の理由は、不思議な因果だ。これが暴走した。 実は、則ちゃんのお母さんの朝子さんは旧姓北田。その朝子さんのお父さんの北田正寅さんのお兄さんのお嫁さんは浜口悌さんという。悌さんのお兄さんは長銀の設立者の一人で、勧銀(今のみずほ銀行)から来た浜口巌根(いわね)氏だった。浜口氏は第二代の長銀の頭取になったが、浜口氏が勧銀から長銀に移るときに引連れてきた杉浦敏介氏が則ちゃんが取引を始めた当時の長銀のドンと言われていた人物だ。 この姻戚関係はただの親戚とは訳が違う。浜口頭取のお父さんは、あのライオン首相の浜口雄幸(おさち)だった。 これが理由で則ちゃんが長銀と取引するようになったとは思えないが、少なくともその姻戚関係が長銀内で分ると則ちゃん関連の融資はすべて杉浦マターになったという。ここらへんは前後関係が分らないが、長銀は則ちゃんが取引を始めたころに東京協和信用組合に50%近くの出資をしていて、則ちゃんが理事長になっている。恐らく、長銀は東京協和信用組合を好きなように操っていたのではないだろうか。 結局、長銀は最後までイ・アイ・イ関連の不良債権が足を引っ張り、ついに国有化され、リップルウッドに買収されていった。 また、破綻した東京協和信用組合と安全信用組合は東京共同銀行という銀行を新しく作って、そこが引き継ぐことになった。岩瀬隆著の「私物国家」(光文社刊)によると東京共同銀行設立には、日銀から200億円、銀行界から200億円出資し、預金保険機構から400億円を資金援助、全国信用協同組合連合会が150億円を低利融資、信組の監督官庁の東京都が1%の超低金利で300億円を融資するという計画だった。 この二信組には越山会(田中角栄の後援会)の佐藤昭子さんなど政界関係者の預金が多かった(小沢一郎は越山会の重要人物の娘と結婚)。これらの預金保護のために東京共同銀行が設立されたとも受取れる。 しかし、事態は意外なお土産をつくりだした。青島都知事の誕生だ。青島幸男は、東京都が破綻した二信組のために300億円もの大金を提供することに反対し、都市博ともども都民の知らないところで勝手なことをやるなと出馬し、見事最高齢の知事だった鈴木知事を破って1995年東京都知事に就任した。 しかし、就任直後にコスモ信組が破綻し、そちらには緊急援助の金を仕向けたため、理屈が合わなくなって、ついには東京共同銀行の設立を認めることになった。その後の青島さんは元気がなく、二期目は出馬しなかった。 いろいろなことがあった則ちゃんだった。くも膜下出血だというが、59歳はあまりにも早い死だ。楽して儲けようとするバブルの気持は誰にでもある。そんな気持をどうやって抑えるか、則ちゃんにはもっといろいろなことを語ってほしかった。日本では、こういう方の貴重な経験を聞く場を設けようとしない。だから、陰で暗躍した人が舞台を変えてまた悪い事をするのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ で。元IBMの窪田邦夫氏が… ↓ http://eopera.cocolog-nifty.com/popsicles/2011/11/2646-8610.html 「ほかにも恭子はアサヒビールの樋口廣太郎や伊藤忠の室伏稔とも親しかったし、あの故・金丸信には「お嬢、お嬢」と呼ばれて可愛がられてたほど。ほかにもイ・アイ・イの高橋治則やその側近である 窪田邦夫なんかとも付き合いがあった」(前出・事情通)
http://ameblo.jp/kotasha-n/entry-11806218039.html ・叶美香は、二信組事件のイ・アイ・イーの高橋治則の側近の窪田邦夫の元愛人。 大蔵省の役人で、逮捕されたドスケベのキャリア役人の愛人をしていた。 ・・恭子と美香は高級コールガールで、外国人VIPや財界等に顧客がいるとのもっぱらの噂。 バック(資金源)は信濃町の宗教団体。姉妹の女衒はT村K一。
>信濃町の宗教団体 これって、創価のこと? で。ちょっと検索してみたら ★彼女達の弁護士がオザワンの顧問弁護士をやっていらっしゃるという ↓ お元気ですか?とってもトランスナショナルな叶姉妹!(w http://tokumei10.blogspot.jp/2011/07/blog-post_28.html ↓ ★弘中 惇一郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E4%B8%AD%E6%83%87%E4%B8%80%E9%83%8E ちなみに匿名党の記事の中にある敬天新聞の 敬天とは、クリスチャン西郷さんの敬天愛人の敬天ですかね? 昨日、見つけたので。ついでに。 ↓ ★敬天愛人 稲森さんww http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/02/post-54c7.html <オマケ>
こういうのもある ABC さんのコメント... >では、その高橋治則と行動を共にした中西啓介は、どこから出てきたのか。 彼は、高橋治則の兄と学友であり、小沢一郎とも学友だったという。 そして中西啓介こそ田中角栄池袋の女 佐藤昭こと佐藤昭子の竿男であった。 佐藤昭は共に田中から預けられていた預金通帳を持って朝賀昭と共に小沢のもとに掛け参じ、70億とも言われる資金はバブルの露と成ったかも。 佐藤昭と共に行動した朝賀昭(自民党職員→ミンス職員)は小沢一郎の利権秘書。 小沢につかなっかた中村喜四郎は埼玉建設談合で小沢に嵌められた。 田中真紀子を中心に据えると猿島郡境町でおきた70年前の駆け落ちにまでつながる話しだ。 小沢さんよ、もういい加減に身を引きなさいよ。 仙谷、菅があなたを追い込んでるのじゃないよ。 錯覚してるね。 2011年1月20日 7:24 匿名 さんのコメント... 2011年1月20日 7:28 匿名 さんのコメント... >田中真紀子を中心に据えると猿島郡境町でおきた70年前の駆け落ちにまでつながる話 どんな話か知りたいです。教えてください。 2011年1月21日 2:19 ABC さんのコメント... > ↑ まず「田中角栄研究」という立花某の本を読む。 「寂しき越山会の女王」こういうのもあった。 その本に書かれていないこと、あるいは一部事実が変更がされていないかという視点を持ちながらよむ。 努力して後、わからない部分を発見できれば、 答えは目の前。 2011年1月21日 8:23 http://tokumei10.blogspot.jp/2011/01/blog-post_20.html
|