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「小沢無罪見通し」と「強制起訴」を埋める新聞の苦心惨憺
永田町異聞 新 恭ブログ 2011年2月2日
http://ameblo.jp/aratakyo/
「国民は裁判所によって無罪か有罪かを判断してもらう権利がある」
そんな理由で、東京第5検察審査会が起訴議決し、それを受けて準備を進めていた指定弁護士が1月31日、小沢一郎氏を「検審起訴」した。
小沢氏の政界追放に躍起となった東京地検特捜部が不起訴にした案件だけに、まともなジャーナリストの間では、「小沢無罪」が常識である。
どうやらマスメディア各社もそう読んでいるらしく、検審起訴についての解説記事で、どこも有罪立証の難しさを指摘し、扱いも地味だ。
早くも無罪判決のさいに備えているようだが、「裁判長期化は必至」(日経)と、結論先送り願望も透けて見える。
とはいえ、2月1日の紙面では「小沢強制起訴」というおどろおどろしき見出しに対応して大量の字数を確保すべく、政治的、道義的責任や、国会での説明がないことを追及することで、なんとか埋め合わせをつけている。
とくに、日経の「一時代が過ぎ去った」との記事には唖然とした。
一面トップ「小沢元代表を強制起訴」の記事のとなりに、その解説ではなく、西郷隆盛自刃の「もうここらでよか」という言葉を引いて小沢引退を促す宮本明彦政治部長の一文を高々と掲げているのだ。
「時代が、小沢一郎元代表の前を過ぎ去った感がある」という出だし。何かしら深い意味を持つ記述がこのあとに続くのかと期待して読み始めた。
ところが、念願の政権交代も実現したから「ここでまた権力ゲームに興じてみても国の衰退を加速させるだけのコップの中の嵐でしかない」と決めつけるのみである。
筆者は小沢氏が国を憂うことはあっても、権力ゲームに「興じている」とは思わない。
宮本氏は、小沢氏が手兵を集めて会合を重ね忠誠心を測っているとし、こうも書く。
「堀をめぐらし、塀を高くして、裁判の長期化を見越した要塞を築いていたかのようだ。時折、要塞の中から出撃しては、自らの言い分を一方的に発信したのも、焦燥感の表れだろう」
どうやら、権力欲にとらわれた小沢という男が、抹殺されるのを恐れ、兵と要塞をかためて守りに入りつつ、ときおりインターネット番組などに出て、自らの正当性を訴えているのだと言いたいようである。
宮本氏には、自分たちメディアが権力争いの製造装置であり、「国の衰退を加速させている原因のひとつである」という認識はカケラもないようだ。これぞ、「コップの中」の視野狭窄といえる。
報道の自由は民主主義社会になくてはならないものだが、自ら思考の自由を放棄し、やたら自作自演ともいえる世論調査結果に服従して、画一的、横並びのポピュリズム現象を生み出しているのがマスメディアである。
ポピュリズムを詐術的に利用したのが小泉純一郎氏だが、ポピュリズムに流されているのが菅首相であろう。
ポピュリズムの政治家には迎合型と雷同型があるのではないかと、筆者は考えている。
迎合型は、自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせるタイプ。雷同型は、自分の考えを持たず、むやみに他人の説や行動に同調するタイプだ。
菅直人という人物は曲げるほどの信念も持たない「雷同型」の典型で、あえてポリシーらしきものを見つけるとすれば、マスメディアの論調の大勢や、その影響が色濃い世論調査という名の擬似国民投票に逆らわないほうが安全と考えて疑わないところくらいだろう。
そのあげく、財務省主導消費増税の自民党路線へ逆戻りときては、財界御用達の日経新聞はよくても、われわれ国民はたまったもんじゃない。
ところで、世論調査を擬似国民投票のようにしてしまったマスメディアの罪深さは、読売新聞2月1日社説の以下の記述でもくっきりとあらわれている。
「現職の国会議員が法廷に立たされることは重い意味を持つ。刑事被告人が政権党の中で、隠然と影響力を行使することが果たして許されるのか。各種世論調査で、多くの国民は強い疑問を示している」
電話で即時に答える世論調査の数字を過大に重視し、背景や実態に思考をめぐらせることなく、刑事被告人だから政治にタッチしないよう求める主張は、いかにも単眼的である。
もとはといえば、小沢氏周辺への捜査は、官僚支配体制の解体をめざす小沢民主党政権の実現を阻止しようとする東京地検特捜部の暴走からはじまった。
小沢氏の憮然たる表情をとらえた写真とともに「政治とカネ」という呪文を2年近くにわたって繰り返したマスメディアの魔女狩り報道によって、雷同型の菅首相が小沢追い落としの権力ゲームに走ったのである。
日経の宮本政治部長の言う「コップの中の嵐」は、むしろ、みんなで渡れば怖くない記者クラブという「コップ」に安住する人たちがつくりあげた三文芝居のようなものであり、現実ではない。
厳しい自省の念と、カオスのなかで真実を求めてもがき苦しむ心構えが、この国の大手ジャーナリズムの幹部には足りない。
それがあるならば、「もうここらでよか」という西郷隆盛最期の短くも壮絶な言葉を、これから法廷で自らの潔白を証明しようとしている小沢氏に結びつけ、ある種の情感を読者に押しつけるような作文を弄することはないだろう。
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