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2011/02/01
「起訴は起訴」の底意にある「ひとを罰しようという衝動」(ニーチェ)
2月1日(火)「ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)。
小沢一郎元代表に対して「その時どきで都合のいい理屈」(朝日「社説」)、「居直り会見」(「赤旗」)と紋切り型の言葉遣い。無前提に「ひとを罰しようという衝動」の典型だ。
「市民の判断に意義がある」と「朝日」。一般的「市民」などどこにもいない。ましてやすべて別人の「34・55歳」という、統計的にはありえない審査員=「市民」の実体は疑惑に彩られたままだ。法務委員会で質問しても、検察審査会の視察時に質問しても、そこにいる「市民」は厚いベールで隠されたままである。明らかにしない。
昨夜「ニュース23」を見ていて唖然とした。会見する小沢元代表にキャスターが「起訴は起訴。離党しないんですか」と質問していたからだ。テレビの習性で自番組のキャスターやリポーターが会見で質問すると、たいていが「○○キャスター(リポーター)」と字幕を入れる。匿名性に隠れるよりはマシなのだが、そんな意識ではない。
「うちもやってるぞ」という自意識の発露である。そこで気の利いたあるいは鋭い質問がなされれば「さすが」と思うのだが、「ニュース23」キャスターのものは、きわめて低水準。唖然という言葉では正確ではない。私の眼にはアリバイ質問にしか聞こえなかった。自己存在の証明である。何が問題なのか。結論を先に言えば「詭弁」(外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法)の典型だからである。
冤罪であることが明らかとなった村木事件も足利事件もすべて起訴された。「起訴は起訴」が正しいならば、内容の吟味なしに思考停止のままで断罪だけが待っている。かくて冤罪が生まれたのではなかったか。マスコミ報道もここにおいて「共犯」である。
「強制起訴」の前提として「事件」の内実がある。そこが崩れつつあるのに、外形的(表面的)事実だけでモノを語ることの恐れをいささかも持っていないことに恥はないのか。「起訴」されたことと「離党」することの論理的説明もいっさいなされない。
ここにおいては「強弁」の側面も持っている。ことの本質においてレッテル貼りである。
詩人の川崎洋さんは「気が滅入ったときの唄」でこう書いた。「にこにこやさしいお人はこわい/居丈高なお人は組みしやすい/悧巧(りこう)は死ななきゃ/なおらない」。「悧巧な人」が多すぎる。
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