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角栄、小沢、CIA(1)
(日本の資源を確保する為に世界を駆け巡り、米国を敵に回した角栄氏)
2010年2月1日
宇佐美 保
私は、先々週の土曜日(1月23日)でしたか?ノンフィクション作家の山岡淳一郎氏を迎えての、朝日ニュースターの『週刊鉄学』を見て、びっくりし、大感激しました。
山岡淳一郎氏は昨年の11月2日、椛錘v社から『田中角栄 封じられた資源戦略』を上梓されておりました。
番組の冒頭で、この著作に対して、司会の武田鉄矢氏は
“松原先生(毎週出席されておられる松原隆一郎氏(東京大学大学院教授))絶賛なんですよ、興奮してうめくように面白いよ〜!とか……。
私は正月歯を食いしばって読みましたが、「金脈田中角栄に対するフィルターがかかってしまっており、山岡氏からグラグラ揺らされるんだが、その意見は聞きたくない!とこの本を遠くへ放り投げ、“立花氏は立派な人だ、「金脈」を書いたんだぞ!ジャーナリストの鑑なんだぞ!”との自分の持っている角栄像と、角栄の身を切るような外交に於ける立場の苦しさとに余りにも大きなギャップがあり、読むのが苦しかった。
なかなかの衝撃の書でした”
と語りました。
そして、次のように続けられました。
私達は、田中角栄さん金脈、黒いイメージ、闇将軍のイメージがありこの人のあり口に反発もあったが、山岡さんは「資源戦略の人であった」との見方を、この本『田中角栄 封じられた資源戦略』でしておりギックとしましたので紹介します。
日本列島改造論、土建型政治、ロッキード事件など数々のイメージがありますが、1970年代、自ら世界を駆け回って「資源外交」を大々的に展開したことは、あまり知られていません。
アメリカの傘の下を離れて、独自に石油やウランなどの資源供給ルートを確保する為に、奔走しすぎた結果失脚したとも言われています。
その後の日本の資源戦略は企業任せで、政治のメイン戦略から外れていった感があります。
今政権交代により新しい日米関係の枠組みが議論されている中で、資源を巡る競争を検証し未来の資源戦略はどうあるべきかを検証して行きたい。
松原氏の発言。
小泉さんは田中さんの大掃除を、田中派を追い出すと言うのが彼の構造改革であり、小泉さんの目的だった。
そして、ここで田中角栄的なものがなくなったので日本は世界に出ると言うのが、普通、世の中で言われている公式のストーリーなんですが、本当にそうだったんだろうか?
松原氏は次のようにも発言されています。
米国は、他国の資源とか軍事戦略とかをコントロールできないとなると内政干渉して他国の総理大臣の首も挿げ替えること、反国家権力側の勢力にお金をつぎ込むことも、いくつかの国(日本とは言いませんが)で、やっていた。
更に、民社党も、日本テレビも反共勢力として(米国からの援助で)作られたことも、米国の公文書公開制度から明らかになっている。
この他にも、びっくりするような発言が沢山ありましたので、早速、山岡氏の著作を購入して、番組中のお話しを補いつつ以下に続けたく存じます。
尚、山岡氏は著作のプロローグには、次のように記されておられます。
田中の金権支配や闇将軍ぶりを持ち上げるつもりは毛頭ないが、かれが総理大臣としてとった行動は後世に語り継がれるべき重みをもつ。その結果がどうであれ、刑事被告人のまま世を去った田中の落ちた偶像のイメージですべてを塗りつぶすのは史実を歪めることになりはしないか。人間は失敗を通してこそ経験知を高められる。
そもそも戦時中に全国五〇社に入る土建会社の社長だった田中が、政界に飛び込み、住宅政策を足がかりに出世の階段を駆け上がり、資源へと突っ走ったのは、なぜか。
「わたしが総理のときには、資源外交に最大の力を入れたよ」と角栄は述懐している。資源を目指した深い動機とは、いったい何だったのか。……
先ず、山岡氏の著作を読みますと、田中角栄氏が、理化学研究所の第3代所長大河内正敏氏から多大な影響を受けていたことが分かります。
そして、その大河内氏とは?
理化学研究所は、田中が生まれる前年、財界人の支援で創設された本邦初の物理、化学の総合研究所である。資金難と内紛を抱え込んだが、造兵学者で東京帝国大教授の大河内正敏が第3代所長に就任し、経営は上向いた。
……
大河内は、「基礎研究」と「起業」を経営の両輪に据える。大正リベラリズムを追い風にベンチャー魂をいかんなく発揮した。「理研をくわせる」ためには商売をためらわなかった。研究員がタラの肝油からビタミンを抽出に成功すると、直ちに量産化を命じた。わずか四ヶ月で工業化を実現する。
「理研ビタミン」は大当たり。大河内は研究者に年額一〇万円以上の報奨金を与えた。大正末期、総理大臣の年俸が一万二〇〇〇円だから、一〇万円はこんにちの数億円に相当するだろうか。成功者には惜しみなく「分け前」が与えられた。
理研は、合成酒、アルマイト、陽画感光紙といったヒット製品を次々と世に送り出し、傘下に事業会社を抱えた。やがて六三社、一二一工場を有する一大コンツェルンヘと成長していく。大河内は、コンツェルンの拠点を銀座の美松ビルに置いた。
田中が上京したころ、大河内は、エンジンの性能を高めるピストンリングの工場を柏崎に建設したところだった。大河内の「新潟好き」は「狂」の字がつくほどだ。柏崎周辺の広大な工業地では、食塩のニガリでマグネシウムをつくる開発や、ロータリーキルンによる鉄鉱の還元、礬土頁岩を原料にしたアルミニウム製造などが結実しつつあった。研究開発のテーマは、資源小国日本の弱点の克服であった。
この理研の大河内理事長を慕って上京した角栄は、理事長のお屋敷を訪ねますが“お屋敷ではどなたにもお会いになりません”と門前払いされます。
しかし、……
「腰かけ」に千駄木の個人建築事務所に勤め始めて、転機が訪れた。その建築事務所が、たまたま理研の下請け仕事をしていたのだ。田中は美松ビル五階の理化学工業の企画設計課に足繁く通うようになった。企画設計課は、新工場を建設する「心臓部」だった。
ある日の朝十時過ぎ、美松ビル一階で田中は理研の社員たちとエレベーターを待っていた。せっかちな角栄はエレベーターの扉が開くと、そそくさと乗り込む。おやっ? ほかの社員は……と見る間に面長で中高な顔に丸めがねをかけた老紳士が入ってきた。
「先生だッ」と気づいた瞬間、エレベーターは動きだした。角栄の心臓は破裂しそうなほど早鐘を打つた。初めてみる大河内正敏である。御大の出勤時に社員は遠慮してエレベーターを譲るのが理研流だった。覚悟を決めた角栄は「五階ッ!」と緊張のあまりボーイを怒鳴りつけてしまった。大河内の会長室は六階だ。ごつごつした精気を放つ青年の姿が、大河内の目にとまった。……
その一週間後、またも大河内とエレベーターの前で出くわした。今度は同乗を控えていると「きみも乗りたまえ」と大河内は微笑みながら声をかけてきた。田中は、会長室に招かれる。
……上京の経緯と近況を洗いざらい喋った。ニコニコ聞いていた大河内が最後に言った。
「柏崎は農村工業の発祥地で一番好きなところだ。理研にもこれから全国的に工場が生まれるが、きみはいまでも理研に入りたいか」
唐突に訊かれ、田中は狼狽した。建築事務所での立場を説明し、「考えがまとまりしだい、ご指示をいただきにまいります」と応えた。間もなく、勤めていた建築事務所は主人の応召で解散した。中央工学校を卒業した田中は、十九歳で神田錦町に「共栄建築事務所」を開く。ひとり立ちした田中は、大河内から「理研関係会社に籍をおかなくともよいから、建設計画について勉強しなさい」と声をかけられ、理研の工場建設の第一線に立つようになつた。
……
田中は、昭和十二(一九三七)年から十三年にかけて、水槽鉄塔の設計を皮切りにガーネット(柘榴石/研磨剤)工場、るつぼ工場、アルミ工場の建設を手がけていく。設計は、もっぱら配下の技術者に任せ、営業や各方面との折衝に飛び回った。
大河内は田中の頭の回転の速さと行動力を見込んで、群馬県沼田のコランダム(鋼玉/天然のアルミナ)工場の買収を命じている。二十歳前後とは思えぬ口八丁手八丁で田中は工場を買収した。
大河内は野人タイプの部下を好んで使った。しかし、そこは殿様、気に食わなければ、社員の首をバッサリ斬った。わずかな金で国に縛られるのは嫌だと政府の補助金も断っている。大河内の財閥嫌いは有名だった。満州に勢力を張っていた商工省の官僚、岸信介とは激しく対立した。束縛されるのを徹底的に嫌った。
この大河内氏の姿勢は、角栄氏の
「企業献金で束縛されるより、独力で(土地ころがし?)で政治資金を調達」に引き継がれたのかもしれません。
更に、「岸信介とは激しく対立した」も角栄氏は引き継いだと見られます。
そして、更なる大河内の影響力は次のようです。
大河内の産業膨張策にはふたつの特徴がある。第一に軍需を背景にした資源の確保だ。「日満マグネシウム」という会社の設立も、そのひとつだった。大河内は、毛嫌いしていた満鉄の提案をのみ、住友、三菱、古河の財閥とともに山口県宇部に大規模な工場を建てた。生産開始一年後には日中戦争が本格化し、航空機の生産が緊急の課題となるが、この大河内の英断もあって、ジュラルミン機体の原材料であるマグネシウムは太平洋戟争が終わるまで不自由しなかったといわれる。
田中は日満マグネシウムの工場建設にもかかわった。後年、こうふり返っている。
「あらゆる工場の事業計画と工場設置計画に参画させてもらったので、今でもそれらの工場の中に配置された主要機械の配置まで覚えている。この時代は私の頭脳もはっきりしていたし、知識欲も旺盛であったので、なにもかもが、珍しくおもしろく、そして貴重なものであった」(『私の履歴書』)
田中のなかで資源への関心が養われていった。
ただ理研も手を出せない分野があった。エネルギー資源の開発である。
日本は石油のほぼ九割、屑鉄の八五パーセントをアメリカ合衆国に依存していた。これを技術力で転換するのは不可能にちかい。米国から工作機械や石油、屑鉄などを輸入しながら中国と戦争をしているありさまだった。
……
原子力の研究は、まだ始まったばかりだ。仁科芳雄は、宇宙線をとらえる実験や、素粒子加速装置の一種であるサイクロトロンの建設などに関心を向けており、「原子核分裂」がもたらす、途方もないエネルギーは視界の外にあった。
……
原子力の産業利用など、夢のまた夢であった。
戦中、エネルギー資源といえば、石炭と石油だった。艦船や飛行機、自動車の燃料となる石油は、アメリカ頼みだ。もしも日米間の石油の供給路が断たれたら……。
第一次大戦でドイツの猛攻を受けたフランスのクレマンソー首相は、「石油の一滴は血の一滴に値する」と記した電報を米国の大紋領ウィルソンに送り、石油の提供を求めた。日本の状況もほとんどそれと変わらなかった。
この「石油の一滴は血の一滴」に関しては、角栄氏はノモンハン事件でも実感し、次のようにも書かれています。
資源外交の戦略会議で、訪問国での打ち合わせで、角栄はたびたび「石油の一滴は、血の一滴だ」と、周りを鼓舞した。
又、大河内氏の件に戻ります
大河内の産業政策のもうひとつの柱は「農村の機械工業化」だ。農家は農閑期に仕事がない。農家にはパンを与えるよりも仕事を与えよ。その勤勉性を農村機械工業にふりむけよ。それには誰でも使いこなせる単純機械が向いている、と説いた。
田中は「農村の機械工業化」を進める小千谷、宮内、柏崎、柿崎と新潟県下の生産拠点をくまなく歩いた。柏崎で雪の日も工場へ出勤する工員たちを眺め、「出稼ぎ」から解放されるありがたさを目の当たりにした。不況で東北や北信越の村々には、間引きや二軍心中の悲哀が立ち込めていたが、柏崎の「理研通り」はひときわ賑わっていた。長く近代化の陰に置かれてきた越後人にとって、柏崎の理研工場は成功のシンボルとなった。
「工場をつくれば、みんなが食える」。「農村の横械工業化」は、若い田中に強烈なインパクトを与えた。「日本列島改造論」に連なる原体験が、ここにあった。
が、しかし……泥沼化してゆく戦争が実業界に躍りでた田中をのみこんでいく。
この大河内氏の思想を受け継がれた角栄氏の「日本列島改造論」を「土地ころがしのため」と解釈するのは思い過ごしと言うことでしょう。
一九三九(昭和十四)年春、新兵の田中角栄は、黒竜江と松花江の合流点、同江の分遣隊に入った。
前年の暮れに徴兵され、盛岡騎兵第三旅団に入った田中は、広島から貨物船で北朝鮮の羅津港へ送られた。汽車で満鮮国境を越え、佳木斯(チャムス)からはトラックに揺られて富錦。さらに北へ二十里、ソ満国境の田舎町にやってきた。
……
軍隊生活は二年続いた。その間に日本軍は、満蒙国境のノモンハンでソ連軍と二度衝突した。「ノモンハン事件」である。装備が古い日本軍はソ連軍の優勢な火力と掌の攻撃で苦警強いられた。
田中は営内の日用品販売所である酒保や糧秣の勤務が続き、運のいいことに最前線には送られなかった。動員された古兵の戦死公報が次々と舞い込み、ただごとではないと感づいた。ソ連軍が大規模で迅速な自動車輸送で補給をしたのに対し、日本軍の輸送体制は貧弱で、大敗を喫した。燃料の輸送も劣悪だった。陸軍は敗北を隠そうと、兵士に緘口令を敷いた。
「石油の一滴は血の一滴」。一兵卒の田中は胸に刻み込んだ。戦後、ことあるごとに田中はこのフレーズを口にするようになる。
……
冬の満州は山河が凍った。あまりの寒さに野営の軍馬が内臓を壊して死ぬほどだった。 ”
一九四〇年十一月末、クルップス肺炎に罹った田中は、営内の庭でぶっ倒れて内地に送還された。
……
田中が肺炎で生死の境をさまよっていたころ、アメリカ、イギリス、中国、オランダの「ABCD包囲網」で貿易を制限された日本は、石油を求めて南部仏印(ベトナム南部)へ進駐した。アメリカは即座に在米日本資産を凍結し、石油輸出を全面的に禁止する。太平洋戦争の幕が切って落とされた。
エネルギー資源の補給路を断たれた日本は、GNPで約13倍、石油換算で721倍の経済力を持つアメリカに戦争を仕掛けたのであった。
……
田中は、傷痍軍人となって鉄挙制裁から解放された。……
四三年一月、「田中土建工業株式会社」が設立された。田中土建は、社長の営業力で年間施工実績全国五〇社入りをはたす。飯田橋周辺に一〇か所以上の事務所を設け、住宅や寮、アパートを所有した。理研との関係も復活する。翌年、田中は東京王子の従業員一〇〇〇人のピストンリングの軍需工場を朝鮮の大田に移転する仕事を請け負った。ピストンの胴にはめる金属製のリングは、内燃機関の気密性を保ったり、油をかきだしたりするのに不可欠な軍需品だ。朝鮮へ運ぶ機械は二〇〇台、幹部要員の熟練工とその家族を含めて二〇〇人を朝鮮に連れて行くことになる。
工場移転を命令したのは、東条英機内閣の商工大臣、岸信介だった。大河内正敏は、尊大で本心を明かさない岸とソリが合わなかった。大河内は工場の統合、移転を迫られても、なかなか首を縦に振らない。だが軍をバックにつけた岸は執拗に移転を求めてくる。ついに大河内は経営の第一線を追われ、研究室にこもる。本土空襲が激しくなり、王子工場の移転を押し切られたのだった。
大河内を父のように慕う田中は、岸との衝突をどう眺めていただろうか……。
岸信介氏に関連して、次のようにも記述されています。
敗色が濃く、国民は窮乏していたころに軍部から膨大な資金が民間企業に流れていた。その調節弁は、商工省と企画院を統合した軍需省の軍需次官となつた岸が握っている。財政支出の八五・三パーセントを軍事費が占めていた時代、軍需省は「日本最大の発注者」だった。
戦争末期、総軍事費のうち陸軍管理の八〇パーセント、海軍の七五パーセントが民間の軍需工場に流入したといわれる。物資は欠乏し、労働力も不足していた。企業の生産力の落ち込みを無視して、大量の発注が行われ、公費は「つかみ取り」の状態だつたという。
終戦前夜に会計検査院が発表した「臨時軍事費決算検査報告書」によれば、軍需品の価格査定や前渡し金の支払い、納入での法令違反は五十三件。五億二六〇〇万円(現在の約四〇〇〇億円)にのぼっている。理研の工場移転も庶民からは見えにくい資金の流れに乗っていた。
さらに敗戦後の混乱期、納入されなかった軍需品に総額五〇〇億円もの「軍需補償」が支払われた。
いまなら数十兆円の資金が軍から民へ渡ったことになる。その一部は、間をおかず、政党結成の元手に変わり、政界へ還流されていった。
この場面で暗躍するのは、「昭和の妖怪」その人ということなのでしょうか!?
更に、皆様もご存知とは存じますが、次のようにも記述されています。
アメリカとの裏取引
岸−佐藤ラインには、多くの疑惑がつきまとった。それがあとに続く田中角栄に与えた影響は小さくない。岸−佐藤兄弟の権力中枢での行動は、その後の内政、外交にさまざまなカセをはめた。それは現代にもくびきとして残っている。政権交代して誕生した民主党政権がその業病を引き継ぐかどうかを見極めるためにも、岸−佐藤兄弟が何をしたのか、自民党支配の根を洗っておく必要があるだろう。しばらく、おつきあい願いたい。
岸−佐藤の疑惑のひとつはアメリカとの「裏取引」である。さまざまな陰謀説が飛び交ったが、二〇〇六年七月、ついに米国務省は、五八〜六八年にかけて、CIAが日本政界の要人に工作をしたと公式声明を発表した。毎日新聞〇六年七月十九日付夕刊は、こう報じている。
「米中央情報局(CIA)が一九五〇年代から六〇年代半ばにかけ、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るために、当時の岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作を実施、旧社会党の分裂を狙って五九年以降、同党右派を財政支援し、旧民社党結党を促していたことが十八日、分かった。
国務省が編さん、同日刊行した外交史料集に記された。編さんに携わった国務省担当者は共同通信に対し『日本政界への秘密資金工作を米政府として公式に認めるのは初めてだ』と語った」
ブッシュ政権と蜜月を保った小泉内閣の終盤、次の総裁選に岸信介の孫、安倍晋三の出馬が取り沙汰されていたときに米国務省は、CIAの対日工作を公表している。国務省は、オバマの出現を待たずに時代の区切りをつけようとしたのだろうか。CIAの工作は「陰謀」から「正史」に変わったともいえる。国務省は、こう声明した。
「アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与える四件の秘密計画を承認した。左翼政治勢力による選挙を通じての成功が、日本の中立主義を強化し最終的には日本に左翼政権が誕生することを懸念したのである。アイゼンハワー政権は一九五八年五月の衆議院選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。
援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた」(ティム・ワーナー『CIA秘録』上巻)
四件の工作に岸への支援が含まれているのはほぼ間違いない。
第二次岸内閣で大蔵大臣に就いた佐藤が米国に「金の無心」をした事実も、米公文書館で機密解除された文書から明らかになっている。
角栄氏は大河内氏との悲しい別れを迎えます。
日本の針路を憂いながら、大河内は五二年八月二十九日、脳軟化症で七十三年の生涯を閉じる。棺の前には奇妙な位牌が置かれた。「勲 等」と数字の部分が抜けている。弟子たちは「勲一等」が贈られるのを待っていたのだが、政府が与えたのは貴族院議員としての「勲二等」 のまま。やるせなくて数字を書きこめなかった。
吉田茂首相の下で政治家の地歩を固めていた田中角栄は、こう詫びた。
「どうしても吉田さんがウンといわないんだ。まことに申しわけない」
田中は大河内の恩に報いようと尽くした。田中が本心から「先生」と呼んだのは大河内正敏だけだ
った。義理人情というモラルを「掟」にして、田中は政界へ転身した。
政界へ転身した角栄氏はどうだったのでしょうか?
飢えた日本人がうごめく焼け跡、闇市とは別の華やいだ占領地域が形成されていった。その間、民主化を推進するGHQは、日本人の「住」には冷淡だった。四五〇万戸もの住宅が不足し、大勢の人間が壕や橋の下で暮らしていたが、GHQが建築政策を強くプッシュした形跡はない。田中は、国土計画委員会で吠えた。
「……一家団らん所であり、魂の安息所であり、思想の温床である住宅が、三十年間も戦前に戻れない状態であったならば、えらいことになる。家を与えずして何が民主主義か」
四八年の暮れ、田中は「炭鉱管理法案」をめぐる収賄容疑で起訴され、収監される。小菅拘置所のなかで総選挙への立候補を表明した(高裁で無罪)。
四九年一月の総選挙で当選し、第三次吉田内閣の建設常任委員に任命される。以後、「建築士法」を手始めに「公営住宅法」「金融公庫法」……と、建築関連法規の議員立法に没頭した。
……
三十一歳の田中は、建設委員会の「地方総合開発小委員会」 の委員長に選ばれた。内務省が解体されて発足した建設省は、この小委員会に将来の国土開発を進める法案の骨格づくりを託した。
田中委員長は、二週間弱の間に四回も小委員会を招集している。土木開発や資源エネルギーのエキスパートを集め、活発な討論を導いた。議論は、焼け跡の再建にとどまらず、全国的な産業復興の要である電源ダム開発、農村の工業化、行政区域の変更にまで及んだ。田中は「生活とモノ」という河口から、上流の国土開発、資源へと一気にさかのぼろうとした。その「復興」へ突き進もうとする姿が、GHQという虎の尾を踏んだ。
田中は、GHQに代表される「アメリカの秩序」と初めてぶつかった。
GHQの将校は「緊縮財政を組むよう日本政府に命じているにもかかわらず、莫大な資金が必要な国土開発論議にうつつを抜かすとは反逆にも等しい」と激昂した。日本人は耐乏生活を送り、輸出に励め。食べ物はなくても工場で糸を紡げ、といわんばかりだった。
……
田中角栄は生涯に四六本の法案を議員立法で提案し、三三本を成立させた。三十一歳から三十六歳の「下積み時代」に二六件もの法案を出している。党幹部、閣僚の立場で深く係わった法案も含めれ
ば、田中の力で月の目を見た法律は一二〇本を超える。他の政治家が足元にも及ばない数である。
国土開発から資源開発へ
住宅建設に端を発して国土開発、それを実現する産業の血液=電力の確保、と田中の活動は部分から全体へと広がっていった。と、ともに社会活動の根幹を握るエネルギー資源への関心も高まった。
五〇年代に入ると中東やアフリカで大油田の発見が相次ぎ、エネルギーの主役が石炭から石油へと替わり始める。
水力発電用のダム立地は、電源開発でほぼ埋まった。経済成長で急増するエネルギー需要は火力発電で対応するしかない。石炭だけでなく、石油も燃やさねばなるまい。質のいい石油をどのようにして安く手に入れるか……田中は、想を練る。
が、しかし、エネルギー革命のかなめである石油は、その供給ルートを「メジャー(国際石油資本)」に完壁に押さえられていた。メジャーは世紀をまたいだ興亡の果てに微動だにしない支配体制を築き上げていたのだ。
アメリカの対日石油政策は、関連施設の無力化からスタートしている。
かくして、角栄氏は資源外交に踏み切ってゆくのですが、ここまで余り長くなりましたので、ひとまず中断して、「わたしが総理のときには、資源外交に最大の力を入れたよ」と角栄は述懐している。との資源外交に関しては、次の拙文《角栄、小沢、CIA(2)(角栄氏の石油、ウラン獲得外交)》に続けさせて頂きます。
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