http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/863.html
Tweet |
http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-864.html
2011⁄01⁄29(土) 15:40
金銭感覚という言葉があります。国家の実態は官僚(役人)です。国家と社会は出自が違います。官僚機構という外部の共同体は社会から税金を収奪して生活しています。そのかわり国家は社会の安寧を守るという大儀があります。収奪した税金を使って社会を守るのです。この交換関係、ギブアンドテイクの交換様式があるので「まっ、いいか。役人も必要かな」と国民は思うわけです。
ところが、社会が疲弊しているにもかかわらず今の役人は肥えています。役人の報酬(表も裏も)は節約されません。国民への再分配は減らされます。収奪されたお金はどこにあるのでしょうか。
国民はその実態を知りません。税金の使い道を監視する国会議員やジャーナリストが機能不全を起こしているからです。
しかし国民は気づきました。未だ完成していない民主主義ですが、日本は主権在民の民主主義国家です。左翼の言葉で言えば「国民には収奪された税金の実態を知る権利がある」ということです。右翼の言葉に翻訳すれば「金は君民共治の同胞のために使え」ということです。
権力というものは、本来は民に担保されて発動するものだという当たり前のルールを思い出したのです。
所有や私有という意識は別名「既得権」です。いったん手元に入ったお金は自分のものです。この意識は万人共通の資本主義社会での意識です。しかし民間の商売では「お客様のおかげです」という感謝の気持ちがあるので、相互扶助の意識が生まれます。コミュニティの支え合い、国家の収奪を経由した再分配にも寛容でした。
ところが収奪する官僚共同体の意識は違います。搾取ではなく収奪したお金ですから、戦利品です。民間の「お客様のおかげです」という贈与と返礼の交換関係を前提としてお金が動くという感謝の意識は官僚にはありません。
官僚的な意識が社会に蔓延すると何が起きるのか。
今、社会で起きていることが起きるのです。ウソ、ごまかし、情報操作。偽装、隠蔽、居直りです。権力とは居直る力です。そして居直りは密室で起きます。不正は閉ざされた世界で正当化されます。閉塞社会の誕生です。
閉ざされた既得権を守るためなら、毎日1000人が自殺未遂する社会でも居直れる。これが官僚の意識です。外国の問題ではなく国内の同胞に対してこの意識が持てるのです。
国家の主人は官僚だ、という神格化した自意識は民間人には想像を絶する世界です。その実態の一部が検察の村木事件によって明らかになりました。主権在民という意識などさらさらない。無知蒙昧な国民に税金の実態など教える必要はない、という意識ですから「お客様」を「おかげさま」だと畏敬する気持ちは生まれません。国民を使い捨ての商品として扱う蔑視感覚は社会全体に伝播して行きます。
資本主義における搾取の原理を理解する企業経営者は「搾取は労働者のおかげさま」という意識がまだあります。しかし収奪する官僚機構には「おかげさま」という意識は皆無です。税金は「俺のもの」という意識です。
あまりにあたり前の意識は無意識に根付きます。
自明という無意識の行動が一番危険です。相手の気持ちを考える思考が停止するからです。
官僚から見れば「国民の生活が第一。」などと騒ぐ国民は泥棒に見えるのだと思います。周りを見渡せば意識が官僚化した会社の上司を発見することは容易です。官僚を批判する国民、上司の不正を告発する社員などは、権限を持つ側から見れば「俺の戦利品を盗みに来た泥棒」ですから権力でつぶします。官僚意識は社会全般に伝播しています。
不正の隠蔽を権力で正当化するのは、官僚機構の論理としては合理的で正しいのです。だから小沢先生は「国策捜査」のターゲットにされました。システム改革をつぶされたのは小沢先生だけでなく選挙民です。民主主義が否定されたのです。
国民が「国民の生活が第一。」を選択した総選挙以来、一年半も官僚支配システムの改革が停止しています。
この間に死ななくて良い国民が心を病んで死んだことを想起すると、官僚機構は国民の怨念に包まれていると思います。
国民の怨念に包囲されているのは官僚だけではありません。官僚の情報工作を支援した良心のないマスメディアも怨念に囲まれています。
それでも「お金は俺のものだ」「既得権は俺のものだ」という意識が民間の庶民とは桁違いに肥大化している官僚と官報はまだ気づかない。気づいているが行動に移せないという理屈はウソです。知行合一だけが本物の気づきです。行動する気づきだけが本当の発見です。
国民の痛みに気づかないのは金銭感覚が違うからです。「社会を支配するのは我々だ」という収奪の意識が前提になっているので気づかないのです。
統治意識は目を曇らせます。「国民を正しい道にリードするのは我々マスコミの責務だ」などという自惚れには統治意識が前提になっています。統治とは収奪ですから、官僚と同じ前提が無意識に埋め込まれています。
上から目線は国民との対話を否定する態度です。国民から学ぶという姿勢がないから「リード」という勘違いの発想が生まれます。「共に考える」という視点がないのです。国民の批判に対して感謝しないマスメディアは偽者です。
国民は読者に対する対話の姿勢を見てマスメディアの正偽を見抜くのです。気づかないことを国民から学ぶという謙虚さを忘れ、自分が完成されたリーダーだと信じ、知の成長(つまり気づき)が止まっているジャーナリストを看破します。新自由主義社会で目が曇るのは金銭感覚が主因だと思います。
国民は、国民から学び続ける本物のオピニオンリーダーを求めます。官僚の宣撫工作を担う偽りのリーダーを見抜いているのは生きている国民だけではありません。
********** **********
地方公務員は片足を社会の側に置いています。左翼の言う「地域主権」や右翼の言う「社稷」とは、小沢思想の地方分権のことです。地方公務員にはそのことが分っているので「収奪一本槍」ではないのです。
ところが国家公務員の意識は違います。収奪した税金に対する「俺の金だ」という意識は王様の感覚でしょう。国民が死のうが生きようが関係ない。国民のことを使い捨てのコンビニの商品と同じ視線で見ている。国民は商品なので商品が恨みの眼差しで睨み返しても商品に印刷された写真を見る感覚と同じなのでしょう。この不感症は畏ろしい結果を招きました。
国家公務員という官僚機構に対する国民の怨念は寛容の領域を超えていると思います。この一年半に起きた痛みの連鎖を想起すると、国家の「必要悪」としての境界線を越えてしまったと思います。この一年半で自分におきたこと、家族に起きたこと、友人知人に起きた悲劇を見れば、どんなに意識で自制しても集合的無意識が普遍的な逆襲を開始します。歴史の必然です。
こうなると、もう何が起きても不思議ではない。人智を超えた力が動き出します。地上の道徳律では理解出来ないことが起きると思います。西松事件などという虚構のでっち上げがなければ、小沢先生がシステム改革を断行していた。この一年半の間に救われた命はあったと思います。
既得権益者が5パーセントの富を返還すれば社会は劇的に改善する。数字の問題だけでなく感謝が生まれるからです。国民の返礼意識が経済を活性化させるのです。
それでも既得権益者は手放さない。助けて欲しいと言えない人は、人を助けることは出来ません。小さな約束を守れない人は大きな約束も守れません。小さなウソをつく人は必ず大きなウソをつくようになります。そして民主主義が壊されたのです。
歴史は反復します。「官僚とカネ」や「官報とカネ」の問題は金銭「感覚」の問題です。国税庁の調査では雇用労働者の年収平均は四百万円余りです。社会は共同体なので、全体の中で平均の「倍」を越える収入を得ると意識が変わるようです。なぜ二倍という境界線が同胞意識の境界線になるのか分かりませんが、周りを見渡すとそのようになっています。
子供の頃から「偏差値」という他人と比べて自分の位置を確認する心理がすり込まれて来た弊害かもしれません。
ほんとうの安心とは「みんな違ってみんないい」というモナドロジーの思想です。しかし現代人はアトム化されているので均一の基準で相対比較し自分の位置を探そうとするようです。人為的な虚像の基準に依拠して安心を構築しようとしています。
お金が神様の資本主義社会ではなぜか二倍の収入境界線が差別意識を生むラインのようです。二倍の内側で競争しているうちは他人を「同胞のライバル」として見て切磋琢磨しますが、二倍の外側に出てしまうと他人が同じ人間に見えなくなるようです。不正を居直るということが出来るのも相手を同じ人間だと思っていないから開き直ることが出来るのです。沖縄差別と同じ心理で、沖縄は半数どころか1パーセントですから74パーセントの基地を押し付けても政治エリートは居直れるのです。
つまり切磋琢磨のルールが変化してしまうラインがある。何でもありの競争原理に切り替わるラインが、その人が絶対だと思い込んでいる基準の「二倍」にあるようです。人権意識の飛躍は二倍のラインで起きる。
実存と数字は関係ないのに、しっかり食べて行ける人ですら平均と比べた収入という虚像に呪縛されているように見えます。閉塞状況を自ら作り出している。
「官僚とカネ」という視点で見れば、実務権限を握る官僚や官報はみな1000万円超のプレーヤーです。そのうえ、収奪という「当たり前」の前提が潜在意識に埋め込まれています。
官報の情報独占も情報の収奪です。国民の財産である真実、国民の「考える魂」を収奪しています。そのような収奪階級の人々に対して「国民の気持ちになって考える」ことを期待しても無理なのかもしれません。
敵に期待しないで奪われた魂を取り戻すにはどうすればよいのでしょうか。彼我の力関係では圧倒的に国民は弱者です。「国民の生活が第一。」の小沢思想に託した国民の「民主的な手続き」すら通用しない1年半を国民は経験しました。絶望して他界した同胞や怨念をたぎらせる同胞もいます。
二倍の収入が目を曇らせる境界線ならば、我々も目が曇らないように主権の半分を官僚から奪還すればいいと思います。欲張らずに半分を目標にする。残りの半分は潜在主権として認めさせる段階論です。
北方領土交渉のようですが、この思考が一番効果的な戦い方だと思います。
イチかゼロか、全部取り返すという新自由主義の発想では弱肉強食の収奪と同じです。その土俵では弱者は負けます。そうではなく、半分でいいと思います。
「半分の発想」には超越性が存在しています。
二倍とは半分の倍です。半分の一方である敵は、実は味方です。区別されるが分離出来ないパッケージ構造だということです。分離させずに区別して考えれば排他性の裏に相補性があることに気づくということです。つまり敵の心にも味方は宿るということです。昔の人はこの感覚を「人は鬼のように怖くもなるが仏さまのように優しくもなる。だから深呼吸してちょっと待ちなさい」と反転の思想を教えてくれました。
「半分」の思想は境界を越えると差別も生みますが味方も発見できます。味方は敵側の半分に内在する。アンチテーゼ(国民の怒り)はテーゼ(既得権)のおかげ様なのです。
半分の境界線は善悪の境界線なのでどちらにも転化するということです。同じものを見ても「思考の鋳型」を変えればまったく違って見えてくるという六道輪廻の思想です。思考の磁石が現実を作るという「引き寄せの法則」という本が売れているようですが、六道輪廻の話です。六道輪廻は多元性という真理を発見する思想です。多元性は反転する存在の二相です。
ここは「有効な手法は正しい」という功利主義の知恵(方便)を使えば麻痺した感覚を回復できると思います。
二倍という二つに割れる意識が差別の弁証法を生み出してしまうのならば、半分に割った後に自分で判断はせず天に任せる。半分で2つの「場(トポス)」を作れば、後はお天道様がアウフヘーベンしてくれる。考える「場」を作るところまでが血肉を持った人間の仕事だということです。
自分が神様のつもりで判断するのではなく、判断を手放す。「私はこう思いますが神様はどう思いますか」という感覚です。一旦判断をしてから、その判断を手放す。この往還運動が思考することだと思います。自力本願と他力本願は、表裏一体なのです。
********************
先日フリージャーナリストの記者会見の場に小沢先生が臨みましたが、上杉隆氏はこのアウフヘーベンを考えているのだと思います。複数の「場」を作れば複数の視座を発見する。そして最後は国民が判断します。ジャーナリズムのクロスチェックは発見の弁証法です。
国民とは君民共治の社稷(国家)において、天に通じる高天原の民です。つまり「国民が神様だ」というリスペクトです。「おかげさま」という国民への畏敬は天への畏敬です。上杉隆氏は、お天道様の感覚がわかるのだと思います。
官僚や官報は多元性を否定して来ました。人は多元的な生き物なので一元的に管理することは本来出来ません。無理に一元管理しようとすると修正が効かなくなって暴走します。する方もされる方も狂ってしまいます。国全体が密室の取調室のような状態だったのです。
閉塞感とはこの密室状態の「孤独」です。ドメスティックバイオレンスや虐待は、家庭、職場、取調室だけでなく国家全体を覆っていた孤独の病いだったのです。
密室という孤独な状態から人間を解放するために可視化が必要なのです。孤独とは自我の密室に呪縛され、天の感覚から断絶している自惚れの状態です。可視化は監視という冷たいイメージがありますが、実は救済です。閉塞状況の孤独から「つながり」を取り戻す愛情です。つながりとは閉塞の出口であり、天への入口なのです。
助け合いのコミュニティの再生が「可視化」だと思います。
人は見られることで強くなる。見られることで優しくなれる。人に見られ天に見られる。世間様は見ているし、お天道様も見ているから悪いことは出来ない。
考えて見れば当たり前のことですが商品意識が高まると忘れてしまいます。だから見えない魂が逆襲をして我々に気づかせてくれているのです。検察の不正発覚も自殺率の高さも彼岸からのシグナルだと思います。
多元性はバラバラになることではありません。多元的でありながら天に包摂されるということです。それが「おかげさま」という感謝であり、天の感覚です。
国民への感謝が初めからない官僚機構や、おかげさまという天への畏敬を喪失したマスメディアがミスリードして閉塞社会を維持強化しようとしています。彼らの暴走で国家と国民を滅ぼされてしまうより、八百万の神々である国民を信じて進みたい。
天命は国民に宿る。西郷隆盛の「敬天愛人」の思想を小沢先生は体現しています。
天から見れば、血肉を持った神々である人間は不完全であり間違いも犯すでしょう。その過ちも含めて寛容するのが天の感覚だと思います。
敬天愛人とは至誠通天です。弁証法という不思議な天の作用を確信し、国民と小沢の魂に耳を澄ませて行きたいと思います。
小沢先生を見ていると「許す心」が見えてきます。官僚や官報の謀略も許しています。小沢先生は国民と天を確信しているから許せるのだと思います。許しの結果として官僚支配システムが修正されればよいという弁証法の発想です。仕返しや復讐を目的化するのではなく、結果としてアウフヘーベンされれば「正義は勝つ」のです。まさに「半分の思想」です。
もう何が起きてもおかしくない弁証法のステージに入っていると思っています。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK105掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。