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「亀ちゃんファン」さんに先行されてしまったが、少し論点が違うだけで、二重投稿は免れるかどうかは、皆様と管理者のご意見に従います。だって、1時間20分もかけて準備したんだ(泣)。
■TBSは誤報「目撃証言報道」に責任をとったのか?
(山崎行太郎氏の『毒蛇山荘日記』より)
【要約】いわゆる政権交代の直前、TBSは突如、「水谷建設に近い関係者という男性が、石川知裕衆院議員の5000万円授受の瞬間を目撃した…」と報道した。2009年1月27日(水)の、昼と夕方と夜のニュース番組だった。その続報がなく、TBSは報道の検証を怠っているのではないか、と山崎氏は告発する。
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続報はないが、もちろんTBSから視聴者に向けた訂正、お詫びもない。事実に反する自社の報道に対して、ただちに謝罪するのが放送倫理(「万一、誤った表現があった場合、過ちをあらためることを恐れてはならない」)に沿った方向であり、この点に関してTBSは重大な違反を犯している。ひいてはマスコミ全体への信頼を瓦解させる現在のトレンドに、明らかにTBSは加担してさえいるのである。山崎氏が告発するのは当然だろう。
しかし、その一方で、上にあげた山崎氏の論考には問題も感じる。
以下、その点についてメモ的に検討する。
問題を感じる箇所は、
「この一連の事件(小沢事件/投稿者注)において、忘れてはならない問題として、フリージャーナリストを含む『マスコミ報道』の問題がある」
と書き出された、承ないし転の中心部分である。
そこで氏は、
「フリージャーナリストたち…(略)…の歴史的意義は認めないわけではない」
と評価するかたわら、
「フリージャーナリストこそ、実は、『マスコミ』に依存し、『マスコミ』のオコボレを落ち穂拾いしながら、『マスコミ』周辺に巣くう『弱い存在』であるが故に、一番、権力や時代の風潮に流れやすい、言い換えれば『洗脳』されやすく、『付和雷同』しやすい存在である」
と彼らの存在を一律に規定することで、記者クラブを批判して情報の公開を戦い取ろうと工夫するフリージャーナリストたちに批判を向ける。
そして、ついには、
「彼等にとっては、小沢バッシングに荷担することも、小沢擁護論的報道に荷担することも、…(略)…『メシの種』『金蔓』の問題が大きい」
と述べるまでに至るのである
こうしたフリージャーナリスト批判には、氏なりに根拠がある。まず、
「彼等がよく話題にする大手マスコミ主体の『記者クラブ制度』…(略)…はマスコミ問題における諸悪の根源ではない」
とする問題理解の枠組み。
その上に、
「実は、『小沢バッシング報道』の先陣を切っているのもフリージャーナリストたちである」
といった現状の解析結果がある。
山崎氏といえば、ここに見られる辛らつな口調にもかかわらず、その政治哲学は保守本流、保守リベラルと考えられ、その点は投稿者の立ち位置に類似している。にもかかわらず齟齬が生じるのか。
理由のひとつは、上に引用した
「フリージャーナリストこそ、実は、…(略)…『マスコミ』周辺に巣くう『弱い存在』である」
との視点にあるだろう。
投稿者は、「弱い存在」ではないと反論したいのではない。事情はまったく逆であり、フリーたちが「弱い存在」であることを、すなわち山崎氏の指摘を、全面的に認める。
話は、フリーたちが「弱い存在」であることから始めるべきである。
とすれば山崎氏の論考に、フリーたちは弱い存在だから主体性のおぼつかない人種であり、ゆえに彼らも信頼に値しない、と述べる言説の基本構図が見えてくるだろう。もっと簡単にいえば、弱いからダメ、である。もっと強くなければダメダメなのである。これでは、「弱い存在」といった指摘が話のきっかけになっているが、始まりには、主要な論述内容と深刻にリンクした認識にはなっていない。ただ捨てられるだけの「事実」なのである。
強さを求め、強い立場から考察したいと望む山崎氏の立ち位置、願いは理解できなくない。しかし「弱い存在」とは、そんなに軽々と捨て去って済ませられるものだろうか。そうではなく、「弱い存在」にも可能な行動は何かについて、思考のすべてを賭けるべきではないか。そこに深刻な思考が試されているのではないか。こうした点に、第一の疑問を感じる。
もうひとつの疑問は、これも上に引用した
「大手マスコミ主体の『記者クラブ制度』…(略)…はマスコミ問題における諸悪の根源ではない」
とする問題理解の枠組みにある。
氏の論考に、「マスコミ問題における諸悪の根源」について明示的には言及されていない。あるいは小沢氏がネット会談で触れた、国民のメディア・リテラシーかも知れない。とすれば、それは正しい。
しかし、飢えに倒れた者にたいして、政府・自治体の社会保障に欠陥があるからだと指摘するのも正しい。その指摘が正しくないのは、目の前の飢えた者を放置して、死に至らしめるからである。この場合の正しい行為は、新鮮な水や食物を与えるなど可能な救済措置のほかにはない。すなわち理論的には正しいが、行為遂行上は正しくないのである。この点に第二の疑問があるのだが、あとは読者のみなさまにお任せする。もちろん投稿者への筋が通った批判も言論の自由である。
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