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(回答先: 鳥インフルエンザ生物兵器と大相撲の野球賭博で話題撒いて→カラ菅政権支援 …KARAは名を変えたほうが良い。空では菅と同じ 投稿者 新世紀人 日時 2011 年 1 月 26 日 10:08:56)
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トウキョウローズ
東京ローズ
”東京ローズ”とは第二次大戦中西南太平洋で従軍していたアメリカのGIに対して、日本の対米宣伝放送(英語)に従軍していた女性アナウンサーに付けられたニックネームだった。声だけで実体のない存在であり、実際には一人の女性を指すものではなかった。
終戦と同時に特ダネを血眼になって探している記者たちによって「ただ一人の東京ローズ」だときめつけられてしまったことはアイバ戸栗ダキノにとって不幸な出来事だったというしかない。彼女はカリフォルニア生まれの日系アメリカ人で、アメリカはアイバ戸栗を反逆罪で訴追した。
裁判の結果、彼女は合計八項目に及ぶ訴因中、わずか一項目についてのみ有罪とされ、アメリカの市民権を奪われた。その結果、彼女は六年二ヶ月を刑務所で過ごすことになり、夫とも別れ別れになった。
しかし、釈放後二十一年たってフォード大統領は彼女に対する有罪判決が偽証に基づくものであり、裁判自体にもさまざまな不正があったとしてアイバ戸栗に特赦を与え、彼女の市民権を回復した。
彼女の両親は日本人だが1916年7月4日にロサンジェルスに生まれており、アメリカの建国記念日に生まれたことを誇りにしていた。1941年にアイバの母親の妹が重い病気にかかり、アイバに日本へ行って叔母に会ってきてくれと父親から頼まれた。しかしアイバが帰国する前に第二次世界大戦が始まり、日本で敵性外国人として暮らすことになってしまった。特高から圧力をかけられたにもかかわらず頑としてアメリカの市民権を放棄することを拒んだ。彼女は生活費を稼ぐため英語を生かしたいくつかのパートタイムの仕事を見つけた。そのうちの一つがラジオ東京(NHK海外局)で英語のアナウンスをタイプする仕事だった。ラジオ東京でアイバはオーストラリア人捕虜、カズンズと出会った。彼はアメリカのポピュラー音楽やディスクジョッキーからなる、連合軍向けの宣伝放送に従事するように日本軍から命ぜられていた。GIたちをホームシックにして彼らの士気を低下させるためだった。カズンズはアイバにアナウンサーとしてマイクの前に立ってみないかと持ちかけ、自分が放送原稿を書くからそれを読んだところで彼女のアメリカに対する忠誠はが疑われるようなことはないとアイバに保証した。
これが悲劇の始まりだったがカズンズは裁判で証言する際、アイバの不利になるようなことは述べず、彼女は自分(カズンズ)の書いた原稿を読んだだけであり連合国側に対する忠誠心を欠くような行為をしていたとは思わないと主張した。アイバはカズンズの勇気を忘れなかった。
実際彼女はアメリカ国籍を放棄しなかった。皮肉なことにその忠誠心が悲劇を招いたのである。もし日本国籍を取得していればアメリカで裁判にかけられることにはならなかっただろう。
アイバはサンフランシスコで罪状認否手続きを済ませる直前、七年ぶりに父親と再会した。娘に対してまず口にした言葉は「アイバ、父さんはお前を誇りに思っている。よくがんばって星条旗への忠誠を捨てなかった」というものだった。そして娘を抱きしめ、弁護費用のことは心配しなくてもいいと言った。主任弁護士は人権運動の闘士、ウェイン・M・コリンズ、彼を助けたのはセオドア・タンバとジョージ・オールハウゼンの二人の弁護士。彼らはこの事件を自分たちの信念にかかわる重要な法的問題だと受けとめ、一切の報酬を受取ろうとしなかった。
偽証をしたのはラジオ東京の上司、ジョージ満塩と沖健吉だった。二人ともアメリカで生まれ教育を受けていたが日本の国籍を取得していた。沖はアイバが「太平洋の孤児さんたち、あなたたちは本当の孤児になったのよ」と呼びかけ、「船が沈んでしまったのに、どうやってお国に帰るつもりなの」と放送しているのを聞いたと証言した。二人は口を揃えてアイバがこのような文句を自分用の放送原稿としてタイプしているのを見た、と証言した。
有罪の評決は驚くほど厳しいものだった。しかしアイバはつらいとも悲しいとも決して思うまいと心に決めた。「わたしは、最終的には真実が勝つ、という信念を失いませんでした」と彼女は言う。
1956年1月6日に釈放されるとまた激しくマスコミに追われ、逃げるようにシカゴの父親の家へと急いだ。「父は1972年に亡くなりましたが、刑務所を出てから十六年間、父と一緒に暮らせたのは幸せでした」。しかし幸せなことばかりではなく、つらいことも多かった。釈放の前日ワシントンの移民帰化局が、自ら国外に退去しない限り国外に追放するという命令書を彼女に突きつけた。弁護士がこの命令書を取り下げさせるまでに二年かかっている。
1954年タンバ弁護士は東京ローズ裁判で政府が不正な手段で証人を買収して偽証させたとして、アイゼンハワー大統領に特赦を求めた。1968年にはコリンズ弁護士がジョンソン大統領に行政命令による復権の嘆願書を提出した。しかしいづれも願いは受け入れられなかった。
1974年米国日系市民協会(JACL)が「アイバ戸栗の誤審を正すために、協会のあらゆる指導力、人力と資金を注ぎ、大統領特赦をはじめ法の下で可能なあらゆる救済措置を要求する」という決定を下した。アイバが反逆罪で起訴されたことは、自分たちの忠誠心が疑われたあのつらい経験を再び思い起こさせた。しかし1974年には、日系人は自分たちの地位がずっと安定してきたと感じていたし、仲間の一人に加えられた不正に対する関心もずっと高まっていた。
JACLは「アイバ戸栗 虚構の犠牲者」というパンフレットを出版し配布した。政界や人権運動の多くの指導者たちは支持を表明してくれた。その一人S・I・ハヤカワはアイバの話を全国的なシンジケートを持つコラムで紹介してくれた。
やがて「シカゴ・トリビューン」紙の東京特派員、ロナルド・イェーツが偽証によって有罪を宣告されたというアイバの主張を検証したうえで、二回にわたって特集記事を同紙に発表した。
1976年 S・I・ハヤカワがカリフォルニア代表として上院に当選した。選挙後にフォード大統領と会見したハヤカワはアイバの特赦問題に力を入れていることを大統領に語った。そして1977年1月19日フォード大統領は、大統領の任期の最終日にハヤカワに、アイバの特赦に署名したと伝えた。
アイバにとって最もうれしいことは、彼女が選挙権その他のアメリカ市民としての権利を再び行使できるようになったことである。しかし彼女にとっておなじくらいうれしかったのは家族がずっと彼女の無罪を信じてくれていたことが間違いではなかったことが証明された点である。「家族はわたしの問題でとても苦しんだち違いないのですが、だれも決してそのことを口に出しはしませんでした。でもわたしには、みんなどんなに辛い思いをしていたかということがよくわかっていたのです」。
彼女は汚名挽回の生活を享受する前に、身を切られるような寒い日の朝、シカゴの父の墓前に赤いバラの花束を捧げた。
アイバは自分をしつこく追い回した人々のことをまったく恨んでいない。「あの人たちが偽証したり、わたしを告発したとしても、それはあの人たち自身の問題です。わたしの問題にはしたくありません。わたし自身は嘘をついたことはないのですから」。
これは彼女が「仕方がない」という考えで受け止めたのではない。
「わたしは、自分はなにも悪いことをしていない、という自信がありました。その点について、見方によっては挑戦的とも言えるほど強い自信がありました。一刻たりとも、祖国アメリカに対する忠誠心を失ったことはないという自信がわたしを支えていたのです」。
2006年9月26日シカゴにて死去。
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