114. 2011年1月25日 23:26:54: w1eKmNlysg
世川さんも応援してる 以下引用
自分が、 「もう、十分に生きた。 この運動の成就のためなら、殺されてもいい」 と決意して、 一面識もない小沢一郎という政治家の救済の戦いに向かった時、 たった一つ、 「いつか、どこかで、 母親の名を掲載しておいてやりたい」 と思った。 そして、先日、 100名を選ぶ時、 「やっぱり、自分と同じ場所に母親の名を刻み込んでおきたいな」 と思い、 職権乱用して、そのとおりにした。 http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke?sess=aec0ab9e375a1b4dd00a9be072ad3b65
<『立ち止まって考えよう国民会議』 ホームページ
http://kokuminkaigi.jp/ 長文〕引用失礼します 僕たちの歴史認識の中では、 1990年前後の、ソ連邦周辺の騒乱と崩壊をもって、 「理念政党」は、その存在意義を失った。 詩人中原中也の詩句を借りるなら、 「喪ったものは返ってこない」。 だから、 『資本論』(=指針)を失ったその後の世界では、 吉本隆明が指摘したとおりに、 「その都度のイエス・ノー」の時代が始まり、 僕たちは、 次代の『資本論』が登場するまでの、 「その都度のイエス・ノーの時代」の旗手は小沢一郎だ、 と認識し、 彼の胆力に期待をかけてきた。 小沢一郎も、その時代認識を共有し、 自分の役割をまっとうすべく意気込んだように、 僕たちには見えた。 しかし、 これもまた、中原中也の詩句を借りるなら、 「なにが哀しいって、これほど哀しいことが、他にあろうか」 と、 「理念政党」の崩壊理由を認めることをせず、 亡き骸にしがみつこうとする者たちも、大勢、いた。 それらの多くは、当然のことながら、 滅びた『資本論』を金科玉条にした世界で生きていた人間たちであり、 彼らは、本来、 『資本論』崩壊後の世界について、あるいは、自分の立ち位置について、 厳しい考察と鍛錬をしなければならなかったのだが、 その過酷さを厭い、 今でも通用しそうな「古い指針の一部分」をつなぎ合わせて、 「市民主義」などと名称を変え、 自分たちの信奉してきた理念が滅んでいない、 と、 自分を欺き、大衆を欺こうと、躍起になった。 そうした場所を生きてきた政治家が、 菅直人であり、仙谷由人であった。 だから、 彼らにとって、 政党とは、「理念政党」でなければ、おさまりがつかない。 では、 同じ時期を、小沢一郎は、どのような政党を目指して生きていたのか? これは、 小沢一郎の数少ない優れた同志である中塚一宏衆院議員、 を取材していて示唆を受けたのだが、 小沢一郎とその優れた同志が目指したのは、 政策政党、 の確立だった。 戦後65年間、 この国に、政策政党が誕生したことは、 ただの一度もない。 自民党も、社会党も、共産党も、公明党も、 一つ残らず、「理念政党」であった。 しかし、 『資本論』(=反資本主義指針)を失った時代においては、 理念の対立は存在しえなくなっていくのだから、 国家が困難に直面したら、 現実的な政策で乗り切るしか、術がなくなるはずだ。 本能的な政治的勘でそれを察知した小沢一郎は、 自由党を興し、民主党へ移り、 本格的な政策政党の確立へとまい進した。 小沢支持者と自称する人々も、 ほとんどが、その一点を見過ごして、ここまで来たが、 本当は、 この一点において、 小沢一郎は、この国における優れた政治家であった。 そういった角度から、現在の民主党内紛劇を見つめたなら、 僕たちは、ある程度、 両者の闘争の熾烈さの意味を、納得することが出来るはずだ。 今回の対立ばかりではない。 1993年以降、 小沢一郎を主軸にした熾烈な対立劇は、 すべて、 存在意義を喪失した「理念政党」に郷愁を覚える者たちと、 「理念政党」を昂然と否定する小沢一郎との、 認識のズレから生じた事件ばかりだった。 事の本質を理解できないマスコミや愚鈍な政治家たちが、 その理由を、 小沢一郎の「性格」に押しつけ、 多くの大衆が、それを鵜呑みにしただけのことだ。 どちらに正当性があるのかは、 そんなことは、今さら、言わずもがなのことだが、 正当性のある側が必ずしも勝利するわけではないことは、 20年近い小沢一郎の軌跡が、僕たちに教えてくれている。 果たして、 毅然とした論理は、怠惰や郷愁や我欲に勝るのか? と、自らに問いかけた時、 何やら気が重くなるのを感じる2011年1月の未明ではある。 |