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“腐れマスメディア” がスポットライトをあまり当てない政治的シーンと云うものが、後になって歴史的大転換点であったことに気づくことがある。
2月6日投開票の愛知県知事選と名古屋市長選は、単に4月からの統一地方選の前哨戦と位置づける論調が大勢だが、筆者の考えは違う。意外に、これからの日本の国家のカタチを示唆、乃至は暗示する選挙になるのではないだろうか、予感が働く。
日がな一日“オタク君”のように政治コラムを書いていると、“当たらず雖も遠からず”な先々の眺望と云うものが見えてくることがある。時に外れるが政治評論なんて、そのようなものだがマスメディアの論調よりは確率は上々だと自負している。マスメディアや菅・岡田が、どれほど狂騒的に強弁しようと、流れと云うものには逆らえない気がする。渦中にある人間には、この眺望が殆ど観えないの現実だろう。
石川議員の公判にせよ、小沢一郎の起訴騒動にせよ、あれは何だったのだと云う結末を迎え、特捜検察の解体への動きは早まるだろう。記者クラブで御用商人のような無様な姿を晒してしまった我が国のマスメディアも解体の危機に直面するだろう。既得権擁護派言論人と呼ばれる人々の多くが、メディアと呼ばれる世界から放逐されるか、損害賠償訴訟で裁判の日々を送る姿が目に浮かぶ。
小沢一郎が内閣総理大臣に就任しているかどうか判らないが、彼の政治理念が活かされた政権が誕生する事は、敗戦国日本の戦後の総決算になるだろうし、独立国としての初めの一歩を踏むことになる可能性は大いにある。勿論希望的観測も含まれるが、そのような道筋を示す小さな事実が重なり始めた。こういう現象こそが、時の流れなのではないだろうか。歴史の力と云うものは、過去にのみ存在するものではなく、現在や未来にも影響を及ぼすものだ、とつくづく考えさせられる。
マスメディアの世論調査の数値など、民主、自民の議員連中は気にするだろうし、所謂B層等いう人々は惑わされるに違いない。なにせ、腐れマスメディアの広報活動から未だ抜けださないのだから、暫くは放置するしかないだろう。
しかし、B層という人々を小馬鹿にするのは賢明ではない。日々の生活に追われていて政治に関心がなかったり、腐れマスメディアの隷米プロパガンダに惑わされているだけだ。必ず、ある日気づくのである。気づくまでは邪魔な存在だが、気づけば味方にもなる。厄介だが、常にそういう存在はあるものだ。彼等の常識は、マスメディアのオーム返しであり、生活実感とはかけ離れたもので横並び日本人そのものだ。長い目で見つめるしかないのだが、政治に興味が薄いから馬鹿だとは言い切れないわけで、頭脳明晰なB層も居ることを自覚する必要はある。
最近筆者は、日本の戦後政治は、あらゆる対立軸を隠ぺいする政治だったような気がしてきている。無条件降伏の敗戦のトラウマが日本の戦後の歴史の中で、脈々と流れている感じだ。小沢一郎の政治理念が一定の国民に激しく訴えかけられる源泉も、この無条件降伏と云う敗戦の敗北主義というか、負け犬根性から逃れようとする日本の叫びなのかもしれない。
戦後の自民党を中心とする政治と官僚組織には、戦後復興と云う切羽詰まった目的が存在した。彼等はその目的に邁進し、一定の成果を得たのである。勿論、そこに敗戦国家の国民が有するであろうコンプレックスの爆発を回避する、戦勝国・米英の戦略があったことは事実だ。政治家も官僚も、その不安が故に、国民の怒りが沸点に達しないよう、あらゆる努力を惜しまなかった傾向はある。
その意味で、戦後の政治家は国民の心情に敏感だった。国民も統治されると云うコンプレックスに敏感だった。マスメディアも、それら国民の心情にセンシティブな報道を心がけたに違いない。
大雑把な括りで語ると、そこに復興を超越した経済成長とテレビと云う文化が入り込んできた。この二つがとてつもなく愉快でコンフォタブルだったのが運の尽きである。
昔の社会の教科書ではエンゲル係数という言葉が、金科玉条な言葉として語られた。つまり、国民が衣食住で最低限満足できる国家を復興させようと、働き続けたわけである。ところが、思いもよらぬ急速な経済成長で、あっさりと復興の到着地点を通り越した。
何も考えず、心構えも無しに、日本の文化はエンゲル係数とは異なる生活水準世界に突入していた。 その速度はあらゆる人間に立ち止まり考える余裕を与えず突き進み、国境を超えたグローバルな経済構造にまで達してしまった。
気がついてみると、少子高齢社会が目前に迫り、助けあう日本社会の文化は消え去り、家族単位の幸福とか個人の幸福を絶対視する世間が出来あがってしまったのだろう。 そのような世界が善か悪か、正しいか間違っているか、好きか嫌いか、そのどちらでもないのか。今一定の国民が考えだしたような気がする。
復興と云う時代には、政治的思想信条として「明確な対立軸」を極力避ける政治行政が必要だったに違いない。つまり、明確な対立軸を持たない政治行政がベストの選択だったのだ。 しかし、此処に来て日本と云う国家を取巻く環境はあらゆる面で「明確な対立軸」を見せはじめている。
政治家vs官僚、中央vs地方、年金生活者vs勤労納税者、米国vs中国、既得権益vs新たな権益、既存システムvs新たなシステム等々、明確な対立軸が現出している。おそらく、このような対立軸を「ことなかれ主義」では見逃せない時代に日本は突入したのだと思う。ネットのツールが発達したからだけでは説明できない、市井の言論対立もその証明の一つだろう。反小沢vs親小沢と云う対立軸も、まさに上述のあらゆる対立軸の一つの現象と捉えることが可能だ。
そのような意味で、2月6日に投開票される愛知県知事選、名古屋市長選は単なる地方統一選の前哨戦と位置づけるのは間違いだと考えている。多くの予想を総合的にみて行くと、「既存政党vs新たな政治を主張する政治家」と云う奇妙な対立軸につきあたる。所謂地方の反乱と云うより、既存政党への個人的反乱のようにも見えてくる。
そして、明らかに「新たな政治を主張する政治家」が有利な選挙を戦っているようだ。これをもって、日本の対立軸の先鋭化を証明するつもりはないが、考えさせられる問題を提起している。大阪でも橋下知事を中心に「新たな政治を主張する政治家」の台頭が市民の支持を得ている。
これを、誰それは革新だとか、保守だとか論評するのは間違いだ。既存政党への市民の主張の一種であり、ウッカリすると既存政党を凌ぐ大旋風を巻き起こす可能性すら包含している。個々の政策云々ではない市民の価値観と既存政党の価値観に齟齬が激しく生まれてきている現象を捉える方が自然だ。
このような政治シーンにおいて、みんなの党さえも、既存政党にみられている点も注目に値する。国民的対立軸の先鋭化と愛知や大阪で起きている現象が同一円周上にあるかどうかも不明だが、上記のような目線でこの地方選をみつめる事も必要だと考える。
此処まで来ると、菅直人がどうしたこうしたを論評するのは意味のないことだろう。拙コラムはそう云う意味で、今後菅直人へのバッシングは少なくなる。(笑)もう意味のない政治家への論評はアホくさいし、徒労な作業だ。
幸せに暮らせとエールは贈れないが、伸子夫人と早く政界を引退する事を切に祈っている。ついでのようだが、仙谷・枝野・玄葉にも同じ言葉を贈ろう。筆者は平和主義者なので“死ね!”等と云う粗暴な事は言わない。“去れ!”その一言で充分だ。オヤスミなさい。
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/93470c12602015c54eabd90d387f86ff
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