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みなさまご存知のように、検事が証拠を改ざんして、被疑者を有罪に仕立てあげた村木事件の構図に疑問を投げかけ、スクープしたのは朝日新聞でした。ところが現在、日本のメディアにおける特徴のひとつは、新興のネットメディアが、既存マスメディアの存在を脅かしていることです。
この理由は、日本のマスメディア各社があまりにも画一的な報道を繰り返し、また、いくら各誌を読み比べても、出来事の本質が漠然としていたりするからでしょう。ですが、それ以上の害悪として、冤罪の形成と広報に力点を置いてきたことを指摘せざるをえません。朝日がスクープして激転した村木事件にとどまらず、足利事件の冤罪性が暴露されたのも、日テレの報道陣が他のマスコミとは異なり粘り強く真相を追いかけたからでしたが。
※朝日新聞のスクープ記事はすでに削除。
このブログ記事が、当時の雰囲気のみ伝えています。
1.村木事件、発生当時
2.朝日の村木事件スクープ当時
※足利事件(Wikipedia)
ですが、そのようなマスコミの一部分の活躍が輝いてみえるのは、全体としてマスコミ報道が真実からほど遠いためです。朝日や日テレの活躍にもかかわらず、このマスコミ内部の皮肉までキャンセルできません。また、岩上安身氏やニコ動などのネット報道に関心が集まる本質的な理由は、ネットの普及ではありません。手段は一人歩きできません。すでに存在した欲望に支えられ、その欲望の実現と拡充を保障するから手段は普及するのです。話の前後を間違えてもらっては困ります。その欲望とは、とくに若者(30才の前後?)を中心とした日本人が、既成メディアによって隠蔽されがちな真実を自主的に求めようとする、それ以外ではないはずです。時代が移り変わり、報道全体に関する事態を直視するべきときに至っているのです。ところが既成メディア側から、とくに政治家のネット出演にたいして、
「編集されたり、批判的なコメントを加えられたりすることを嫌がる権力者に都合のよい手法」
との批判が提出されています。なんという知的怠慢でしょう。今日までマスメディアの報道に接してきた日本人が、真実を伝えないメディアにたいしてNO!を突きつけているのに。
最近の例では、「これが国家機密の尖閣映像だ」といって、その映像を垂れ流したテレビが思い出されます。人により評価は異なるでしょうが、国家機密だとすれば、たとえ映像の一部にしても垂れ流しは論理的ではない。真実のために映像の公開を肯定するなら、それをユーチューブに投稿した元・海上保安官を政府に抗して、しっかりと擁護するべきでした。その後に起こった中韓の艦船衝突事件を、韓国政府は自国民に向かって公開しました。中国政府が公式に謝罪したニュースに接して、菅が率いるこの国の政府を恥ずかしく思ったものです。
とまれ、既存メディア側の批判を再批判すれば、
真実に反する内容を、したり顔で報道し、
真実からほど遠い編集をする既存メディアこそ、
都合のいい権力の飼い犬に成り下がったのだ。
となりますか。これは、マスメディアによって流される言論界の言説(通説?)にもいえることです。歴代の自民=公明政権が積み上げてきた国家財政の赤字と国債について、いまになって国家の破綻が近いとわめき立てる既存メディアの経済批評には、真実以外の誘導が隠されているのでしょう。
しかし、この既成メディアの知的な混濁には、それとは別種の、もっと面白い一般的な断層がみられるように思います。いわば知性の歴史分布とでもいうべき局面に生じた断層です。
幾千万の将兵と非戦闘員の犠牲にもかかわらず、壊滅的に迎えざるをえなかった敗戦の直後、日本はアメリカに占領されて、日本の米化が始まりました。過去の軍国主義は民主主義に置き換えられ、すっかり文化はアメリカナイズされました。一部、ゼネストなどがあったものの、その後の日本は、アメリカ文化を取り入れて混乱から急速に立ち直り、繁栄していったのです。朝鮮戦争の勃発は、日本の経済にとって千歳一隅のチャンスでした。
こうした現代史のなかで、軍事的にも経済的にも、日本にとって日米安保は欠かすことのできない生命線と見なされてきたでしょう。軍事的には米国に守られ、経済的にもアメリカを物真似していれば、国土の復興は間違いなしだと多くの日本人には思えたはずです。
したがって当時の政権も右翼も、本土空襲と二発の原爆をアウシェビッツ以上のジェノサイドだとは批判せず、卑屈なまで親米であり、新しい米帝国を批判する左翼は、ソ連など共産圏に接近しました。しかし、当時の日本の右翼・左翼とも、多くの戦争犠牲者と荒廃した国土という敗戦の衝撃的な体験を引きずっていたことだけは確かではないでしょうか。
多くの規制を採り上げ、戦争直後からの日本を国家社会主義だったと評価する人もいますが、戦後の日本がドイツ・ナチス型の国家社会主義であろうはずもなく、ソ連や中国のような、労働者や農民を革命主体とする社会主義でもありませんでした。基本的にはGHQと米政府の指導にしたがった、アメリカ物真似の政権だったのです。
物真似するためには、GHQの指導をふくむアメリカの文脈を読み解き、それを国民に広く知らせて根付かせるための、民主主義的な言説活動が必要です。上からの言説、一種の啓蒙です。これは明治以来、日本にとって得意分野でした。まだ方言のほか、日本の標準語すら知らなかった国民を啓蒙して、なんとか国家を形成してきた経験があったわけですから。
「知識人」、「エリート」、「言論人」などという言葉は、いつごろから日本で使われだしたのかわかりませんが、その起源はかなり古いのではないでしょうか。とにかく敗戦によって、再び日本にはアメリカナイズされた「知識人」、「エリート」、「言論人」などと呼ばれる一群の人々が要求され、マスメディアを通じて活動しはじめました。言論界vs一般国民、といった分離と区分が、当時の原初的社会では明確だったのです。そういえば共産党などの左翼では、「前衛」という言葉も使われました。とある古本屋で『前衛』という古びた雑誌をみかけたこともありますが、いまでも共産党は発行しつづけているのでしょうか。よく知りません。
さて、上にあげたマスコミ側のネット批判を、もう一度眺めてみます。
「編集されたり、批判的なコメントを加えられたりすることを嫌がる権力者に都合のよい手法」
でした。この言葉には、既存メディアや自称・知識人の思想的な背景がクッキリと見られます。「編集する」「批判的なコメントを加える」のが私たちの役割だとする、知識人志向(左翼なら前衛志向)が明確に読み取れます。そうした立場への志向が、「権力者に都合のよい手法」の防壁になるというのです。既存メディアは、どうしようもなく過去の遺物となっています。そうしたメディアと、メディアの正しい姿勢など話し合うことさえ不可能でしょう。必要なのは、ネット・メディアを拡充させ、既存メディアを破壊に追い込むことだけです。
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