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民主党のイデオローグ(そんなものがいるとして)の言動から推測するに、彼らは主に対米従属リバタリアン一派と、国民生活重視コミュニタリアン一派に分かれていると見られる。小沢一郎を支持するグループは、基本的に後者である。旧社会党系労働組合につながる仙石”左翼ネオコン”一派が前者であるのもはっきりしている。
”左翼ネオコン”連中が何を考えるかなど、手に取るようにわかるので、それは問題ない。問題は、国民生活派が大局の見通しをきちんと確立していないということだ。
国民生活派は、景気回復優先・増税延期・TPP慎重論である。これは正しい。景気循環スケールの範囲では、それで問題がない。だが、本当の問題は、その先の長期の戦略である。デフレを何とかすればよいというような認識では、彼らの政治戦略は、いずれ立ちゆかなくなるだろう。
その意味で最大の問題は、彼らが、長期にわたって経済的な基準において国民の総体としての生活水準を向上させうると考えていることだ。残念ながら現実には、今後人口が減少する以上、GDPが増大し続ける理由はない。今の時点で現実的なシナリオとしては、数回に分けて段階的に経済の縮小が起こるという予測が最も確からしい。恐らく、決定的な破局なしに、数十年という長い時間をかけて日本経済は翳っていくことになる。これを覆す方法は、戦争による破壊という手段を除けば、存在しない。
なぜならば、技術の発展による生産性の向上には限界があるからだ。また、生産性の向上は同時に、技術について行けない底辺労働者とその失業を必ず生み出す。そして、それは教育や訓練ではまったく解決できない。農業などの第一次産業を振興することは正しいが、それらの分野で吸収できる失業者はごくわずかにすぎにない。また、生産性向上に伴う現代の農業技術の進歩は、熟練労働者になる資質がないような下層労働者層を容易に農民に再転化させることを、もはや許さない。その一方で、旧植民地諸国の教育水準の向上と産業化は、高い工業製品を売りつけて、安い原材料を買いたたくという利潤の獲得方法を不可能にしていく。今後、先進国の資本主義は、「儲からない資本主義」になっていく必然性を持っている。
従って、資本主義下の議会制民主主義という前提においては、いかにして国家的な経済力の低下を国民に承認して貰うかということになる。ある意味で、”左翼ネオコン”が消費税を急ぐのは、それを予測しているからでもあるのだろう。そして、対米従属の元で、すこしでも没落の開始までの時間を稼ごうという戦術をとっているのだろう。その意味で、対米従属派の連中には、ある種の小賢しい判断力があるともいえる。
しかし、それは所詮は小悪党の智慧でしかない。いくら対米従属で時間を稼いでも、長期的には沈む泥舟に這いずりあがっただけのことだからだ。これに対して、国民生活派は、断固として対米従属を拒否し、自主独立・反戦・国民生活擁護を主張する必要がある。古臭い旗印だが、その意味は現代的になっている。そうすることによって、たとえ短期的には対米関係を悪化させることになり、場合によっては米国発の経済危機を加速したとしても、そして結果的に日本経済に打撃を与えることになったとしても、ぜひともそうしなければならないのである。
日本経済の没落を加速することは、国民生活の擁護に反するように見えるかも知れない。しかしそうではない、日本は米国の支配から逃れることができれば、外貨の蓄積を有効に活用できるので、経済の縮小を軟着陸させられる可能性があり、そうなれば、いまより少し貧乏くさい程度の経済、言い換えれば、毎日腹一杯白い飯が食える経済を維持することができるだろう。最低限の衣食住と医療が供給されている社会では、幸福は経済的な贅沢さに比例しない。ならば、われわれは、民主党のように「最小不幸」などと不吉なことを言わずに、”貧乏くさいけど幸福な社会”をスローガンにすべきだ。
戦争さえなければ、われわれは嫌でもそいういう社会に到達するだろう。ある意味では、それは時間の問題に過ぎない。ただひとつの困難な問題は、その全経過において、国民が、政府がではなく国民が、戦争を容認することを絶対的に阻止し続けることのみだ。ここで重要なのは、戦争という選択肢が不合理だからではないということ、全く合理的であるが故に、それを阻止することが決定的に重要であり、かつ困難であるということだ。効果的に大規模な戦争を起こすことさえできれば、生産力を徹底的に破壊し、国民に貧困状態を承認させ、政府と資本家に巨大な富の集中をもたらすことができる。そうすれば、資本主義は何度でも薄汚い不死鳥として甦ることができる。だから、絶対に戦争を許してはならない。資本主義経済の死と再生の輪廻を今止めなければならない。
経済が縮小する社会で、国民が幸福に生活するための条件とは、他の何を犠牲にしてでも生存権を保障することである。それは具体的には、最低賃金の保障であり、農家への個別的な経済補償であり、生活保護制度の死守という実に貧乏くさい要求である。しかし、それを断固守る姿勢があって、はじめて国民は縮小均衡の未来を受け入れることができる。そして、賃労働ではない社会への自発的な参加、すなわち、”もうからない仕事”を若者の間で作り出していくこと、お金にならない貧乏くさい相互扶助の社会を作り出すこと、”かっこいい未来”としてそれを表象できるようになることがその条件である。
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