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小沢一郎を知るために、結構様々な努力をしている。色々と事象ごとに筆者の理解の範囲を超える言動に出遭う事もあるが、それは筆者ごときには計り知れない熟慮や深謀があるのだろう、と考えている。小沢一郎が公に、その政治理念や思想、時に個別の政策を語るのを聞いていると、我々が一般的に持っている「政治家像」とは異質なモノも感じる。
ある時は市井の道徳親父のように思えるし、“キリキリ王国”の小学校校長のようでもある。時に偉大な哲学者のようにも思える。それでいて、評価は別にして日本の政治シーンで最も重要な地位を占めている(役職とかのレベルではなく)。菅直人が首相となり、小沢本人に狂気の鉈を振り回そうと泰然自若なのである。
約束を守らないと、怒りが直ぐ顔に出て、誤解を招く(相当に損をしているが、個人的にはその方が好きだ)。 信義誠実に忠実すぎる人格は、現在のような生活主義、自己中心主義な生き方万能の世の中では、煙たい存在でもあるだろう。楽して生きていきたい人々からみれば、嫌われ者になるのも頷ける。
しかし、彼は世間の評価に迎合することなく、自らの信念を貫き、魑魅魍魎の政治の世界で40年生き続けている。その力の源泉は、筆者は小沢一郎が、真の原理原則主義者だと云う部分に行きつく。
このような表現をすると、原理主義者で誉れ高い岡田克也と云う人物が思い浮かばれるが、岡田の原理主義は都合で如何様にも変わってしまう、表層的原理主義だ。小沢の原理原則主義には、入り込む好き間がなさそうな原理原則の中に、縄文の心とか人情とか、人間性の矛盾を許容する自在性を加味しているところが面白く、極めて魅力的なのだ。
小沢一郎が主張している事は単純で、単純すぎるが故に難しい。そこが彼の最大の魅力だ。
彼の日本の真の民主主義実現に向けての熱意。民主主義を補助する形で存在する法治と云う観念(故に悪法でも従う姿勢)。普通の国となり、自由に外交・経済を展開する事。
国民一人ひとりが自主独立の精神を持ち自立すること。自立の意欲は様々な教育を通して得られること。国民の自主独立が自主独立国家の源泉だと常に主張していること。
個別の政策課題や外交課題においても、この理念が根底にあるので“揺らぐ”ことがない。あるとすれば、そこに縄文の心や人間の本質的な身勝手さを若干許容して、原理原則を緩める場面だろう。或る意味で、彼は何処に出ても、誰から聞かれても、この理念を語るのだから、追いかけ回しても、それ程の変化はない。
にも関わらず、小沢のインタビューは鮮度が保たれている。 なぜ同じことを繰り返しているにも関わらず鮮度を保っているのか?筆者の自己分析では、筆者がそもそも単純に小沢一郎を魅力的だと思っているからと云うのがある。次に小沢一郎には、原理原則では律し得ない、常にある人間の不条理を一定の範囲で許容する度量があるからではないかと思っている。
愚直に「お天道様が観ていらっしゃる」なんて言葉を躊躇いなく21世紀の政治家が語る部分が心を打つのだと思う。
小沢が口にしている「民主主義国家像」は至極当然なことを言っている(まるで教科書そのもの)だけなのだが、それが新鮮な言説のように聞こえる。田原や田崎や星が言ってもマヤカシに聞こえる言葉が、小沢の口から出た瞬間に“なにやら輝いて聞こえる”不思議だ。 酷くおかしく、魔術にしてやられているのかと己を疑う事もある。
世界に影響を及ぼす政治家の一人と言われる由縁が、そのサムシングにあるのだろう。筆者を揶揄する人々は「だから、小沢教信者なんだよ!」と笑うだろうが、それはそれで受け入れようではないか。ただ、小沢の言葉は宗教の教えではない。ただの民主主義の基本であり、それが政治理念だ、ここを見逃して貰っては困る。しかし、民主主義の基本が政治理念になる?やはり日本国家は病んでいるのだ。
一昨日の特集2001番組出演において、TPPの参加検討の場面では、小沢の政治家の一面が色濃く出ていた。自由貿易論者であるが、TPPイコール自由貿易かどうかは別だと云う部分である。米国の世界戦略の中のTPPだと云う事を踏まえた議論が必要だ。乗り遅れているわけではない、準備が出来ていないだけだと、真実を論破していた。
財政規律に関しても、小沢は財政再建に無関心な筈がない。細川政権時に斎藤次郎次官(当時)との国民福祉税構想をみるまでもない。財政規律が重要なことは、与謝野の十年来、菅の数年来に比べ、小沢一郎は二十数年前から考えていたことだ。与謝野の「蜂に刺された程度発言」のような寝とぼけた増税論者とは筋金の入り方が違う。
ただ、財政の無駄を省くと言った以上、その無駄を予算作成の仕組みも含め見直さない限り、予算が浮いてくるわけがない、と言っている。今まで同様の霞が関ルーチンワークから、財源が生まれてくれば良いだろう、それでは財務省の役人の理屈が通ってしまう。
だから政治主導の地方への財源移譲が重要なカギを握る。紐なしになった財源を地方に任せることが、予算の歳出を抑えられ、地方の自主独立の精神を育む。財源の移譲により、当然予算配分を通して無駄の温床を作った霞が関改革にも繋がる。
一方で地方の自主と独立が強く問われる。 結構厳しいことを小沢一郎は言っている。個人にも、地方にも、企業にも、霞が関にも、政治家にも。
既得権益を1,2割脅かされる国民階層にとっては不快な政治家だ。しかし、その不快を乗り越えて、自主独立をして、国益を考えるポジションに立たなければ、古臭いが「日本の戦後は終わらない」。謂わば「無条件降伏した敗戦国」の国際的地位から脱却できないのだ。
メチャ苦労しそうだから嫌っ、と云うリアリストも多いだろう。その選択は国民に任されている。 外交防衛に関しても、TPP同様に、米国の言うことさえ聞いていれば、「楽だから」で良いのか、と日本人が眼を覚ます事を促している。
米国の要求が理不尽だと云う話ではない。何処の国でも、独立国であれば必死に自国の国益を考えるのは当然で、米国は国益において主張しているだけである。独立国は、政治家も官僚も緊張の連続を強いられる。だから、国際的信頼も得られるし、主張に耳を傾けて貰えると云う、国際的常識を語っている。まして、世界の超大国米国と交渉する事は尋常な気持では出来ないと言っているのだ。
この自国の国益を主張する事と、米国と喧嘩するとか、仲を悪くしようとか、そういう問題ではない。但し、相当の覚悟が必要なのは事実だよ、と言っている。だから、菅は隷米を選択した。隷米である以上、最低限の安泰が約束されるからだ。それを象徴するのが「最小不幸社会」の造語に繋がる。
そして、霞が関を含めた既得権益層が隷米の方が「楽だから」「得だから」と云う攻防を小沢・鳩山としている。少々短絡的帰着だが見逃して貰おう。
小沢一郎は、我々に厳しさを要求している。おそらく、小沢一郎の考える自立した日本の姿は、緊張の連続になるだろう。外交も防衛も経済も緊張感を要求される。当然、その主権者である我々国民にも、厳しさを求められる。しかし、その厳しさの中からしか、本当の個人の自立、そしてその個人の共生、真の独立国は得られないと言っている。戦後の民主主義は、米国から半ばタナボタ的に得たものである。贈り物に満足する民主主義は、様々な国でも経験されているが、やはり何処か底が浅い。難し挑戦だが、筆者は、そんな小沢一郎の政治的試みを応援しようと思う。
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/3feab554b6157da4c65795de93fd9e73
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