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三上治さんの評論です。
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今、日本の政治に問われているものは何か(壱)
2011年 1月 16日評論・紹介・意見 三上 治
日本の政治に問われているもの
<三上 治(みかみおさむ):社会運動家・評論家>
「真夏日」という言葉ほどの喚起力はないが、「真冬日」という言葉が聞かれる日もある。やはり寒い日が多い。なんとはなしに少年期までを過ごした郷里の鈴鹿降ろしと呼ばれる寒風を想起する。それに身を切られる思いの中を中学へは自転車通学をしていたのだった。これらの季節の中で感受する寒さは自然に属しているものだが、僕らは今、この日本列島の中でもう一つの寒さを感受している。政治や社会に反応するこころ(心的)の動きである。そこでまた、僕らは寒々としたものを感受しているのだ。
民主党政権は新年早々に内閣を改造し強い風当たりを避けようと試みている。だが政府や党への批判的な反応が緩むことはない。大手メディアの御祝儀のような解説は一時的なものだろう。政権交代を支えた人々のこころの動きは冷えて行く一方であり、これは反小沢グループという政府や民主党の面々が権力の中枢を占めている限り変わることはない。選挙公約(マニフェスト)が次々と裏切られて行くに比例して人々の民主党への期待は萎んでいくが、これはその内容の是非如何の以前のことのように思う。それは民主党の面々がマニフェストで示された政治的見識や構想を自らの頭で考え抜いたものであるのかという疑念であり、それこそつけ刃的に整えた作文ではないのかという疑念である。民主党の面々は自らに向けられたこの不信と疑念にこころいたすべきだろうが、政党や政治家の資質への問いかけであることを受け止めるべきだ。政治家として自立しているかという疑念であると言い換えてもいい。民主党のマニフェストの第一ともいうべき「官僚主導の政治主導への脱却」には政治家の自立ということがあったはずだ。政治家の自立とは政治的見識や構想を自分の経験と練磨の中で持ち得ているということである。明治維新以降の国家権力の官僚主導の中で政党や政治家はそれらに育成され、その役割を果たす存在であっても自立した存在たりえた存在は少なかった。だから名目が国民国家であっても官僚主導の国家であり、国民の意思(代表)が主体となる国家ではなかった。政党や政治家が官僚から自立し国家権力を仕切るには現在の権力システムの肥大化の中で何処まで可能かという問いはあるが、この自立は前提である。これは政治家の見識と構想力であり、人々が政治家を代表として認めるのはこの点においてなのである。菅や仙石らの政府あるいは民主党の面々への不信や疑念はかれらの政治的な見識や構想に向けられているのである。どんなデザインを持っているのか、何をやりたいのかという疑念なのだ。これを念頭におくべきだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0299:110116〕
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