http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/615.html
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与謝野馨は東大在学中は野球部に入っていて選手にはなれなかったのだがマネージャーをやっていた。これが大変に忙しかったらしく勉強に時間が割けなかったとのことである。
もともとがスポーツ好きであり体育会系人物であるようだ。
先の参院選の時に新宿で民主党の演説団と彼の立ち上がれ日本の演説団が鉢合わせをした時に彼は殴りかからんばかりの勢いだったと報じられたが体育会系人物であるという事で納得だ。
東大卒業と同時に就職について中曽根康弘の世話になった。
それは母親が中曽根を訪ねるようにアドバイスしたことによる。
母親の人脈に中曽根がいたのである。
そして彼の紹介で日本原子力発電に就職した。
ここでサラリーマンを5年間やったとのことである。
その後中曽根康弘事務所に入って秘書になり中曽根康弘事務所所長にまでなるのであるが、
大卒直後から中曽根の影響下に入っていた訳である。
しかも、仕事は原子力発電の関係についている。
中曽根康弘が日本の原子力発電についてそのはじめから米国との間で関係を築いて深い関係を持ってきた事はよく知られているが与謝野はその中に嵌り込んでいた訳である。
その後、政治家になって現在に至っているという訳だ。
以上の事は、下に詳しく書かれている。詳しき書かれているので読まれた方が良い。
長くて詳しいので投稿には転載しない。
http://www.yosano.gr.jp/profile/keireki.html
与謝野馨のあゆみ
http://www.yosano.gr.jp/myload/03.html
大学卒業、そして就職
彼が祖父母の与謝野鉄幹と晶子そして彼の両親などについて書いたものも大変に参考になる。
http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
与謝野家の人々
(前略)
祖父与謝野鉄幹は、明治6年に京都の寺の息子として生まれました。祖母晶子は、明治11年に堺の町の菓子屋の娘として生まれて育ち、鉄幹が主催する文芸結社東京新詩社に加入し『明星』に登場しました。その後、鉄幹に師事するために上京し、明治34年に結婚しました。鉄幹・晶子が落ち着いた先は北多摩郡渋谷村大和田というところで、今は渋谷の繁華街の中心となっています。妻を捨て、親の反対を押し切っての駆け落ちだったのだと思います。文学を志すものはその時代貧しい生活を強いられていたようですが、鉄幹・晶子も例外ではなく借家を転々としていたようです。
四谷に一番近いところに住んでいたのは千駄ヶ谷です。与謝野晶子は、そこからよく歩いて四谷のまちに買い物に来ていたといわれています。晶子の歌には恋を歌ったものが多いといわれていますが、故郷を想う歌も数多く残されており、商人の町堺を思い起こさせる四谷の街を愛していたのではないでしょうか。与謝野晶子は生涯にわたって十万を超える和歌を詠んでいますから多分探せば四谷にゆかりのある歌を発見できるはずです。全国で、今は150以上の場所に与謝野鉄幹・晶子ゆかりの歌碑が建てられていて、村おこしや観光の名所になっています。伯父の光は長い間四谷の鍼灸学院の学長を務めていました。私は、浪人時代に駿河台予備校で学びました。
ここでは、あまり人に知られていない与謝野という名前の由来を書いてみたいと思います。与謝野鉄幹の父親の礼厳という人は京都府与謝郡与謝村出身の人で、もともとの名前を細見といいます。明治維新の前に故郷を捨て京都の街に出たのですが、身分制度のやかましかった時代でどこにも行き先がなく、結局はお寺に奉職することになりますが、細見という俗名を捨て僧名を名乗っていました。しかし、明治維新がきてすべての人が役場に自分の名前を届けることになり、細見と届ければ自然であったはずですが、自分の故郷の与謝という字を取って、与謝野≠ニしたのです。私も今から15年ほど前に子供たちを連れて与謝郡のルーツを訪ねてきましたが、丹後ちりめんを織っている貧しかった村が想像されました。従って与謝野という名前は古いものではなく、明治維新以降のもので、すべての親戚をたどることが出来ます。
晩年の晶子は、病に臥していましたが、子供たちにこんな言葉を残したそうです。「ごめんなさい、教育しか残せなくて・・・なんにも財産など残すことは出来なかったけど、せめて学校の教育だけはさせたから、それで勘弁して」。
鉄幹・晶子夫婦は、渋谷川(新宿御苑の湧水と玉川上水の余水を水源とし、内藤町・大京町・霞岳町を通り、古川に流れていた)のほとりを散策しながら、苦しい文学者生活の中で子供たちに何か人並みに与えられるものはないかと話し合っていたのかもしれません。
四谷 第52号 2002年3月発行 四谷地域センター運営委員会広報部「四谷編集委員会」
『文化のまち四谷 祖父母を語る/与謝野 馨
(編集委員注訳)
与謝野鉄幹は日本近代浪漫主義運動の中心的存在で、北原白秋・吉井勇・石川啄木ら多くの秀才を育てた。(編集委員 坂部 健)
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与謝野鉄幹(よさの てっかん) 1873〜1935
明治6年2月26日に京都岡崎で生れる。 与謝野礼厳の四男。明治・大正・昭和期の歌人。霊美玉廼舎(くしみたまのや)、鉄雪道人、鉄幹などの号がある。鉄幹の号は明治38年に廃した。
明治25年上京、落合直文門下となる。 そして翌年、落合直文を中心として「あさ香社」をつくり、新派和歌運動をはじめる。 明治27年には、歌論「亡国の音」を発表。明治32年、「新詩社」を創設し、明治33年「明星」を創刊し、妻与謝野晶子とともに浪漫主義運動を華麗に活動する。 北原白秋など多くの俊秀を世に送った。大正8年から昭和7年(1919〜32)まで慶大教授。著に詩歌集「東西南北」(明治29)など多数。
与謝野晶子(よさの あきこ) 1878〜1942
明治11年、堺の甲斐町に、和菓子屋で有名な駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を短歌とともに生きてきた与謝野晶子。 「情熱の歌人」と呼ばれた晶子は、近代文学史上屈指の女性であるとともに、与謝野鉄幹の妻であり、11人の子供たちの母でもありました。 明治34年(1901)に出版された「みだれ髪」は鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌い上げ、当時の若い世代の圧倒的な支持を得て浪漫主義の代表作となりました。 また、生涯を通して「源氏物語」をはじめとする古典文学に傾倒し、その現代語訳に情熱を注ぐ一方、女性の権利に焦点をあてた評論も多く著し、女性教育の分野でも積極的な役割を果しました。 幅広い分野に次々と挑戦し女性の自由と自立を求めて力強く生涯を送った晶子の魅力は尽きることがありません。
与謝野秀(よさの しげる) 1904〜1970
1904(明治37)年、歌人与謝野鉄幹・晶子の次男に生れ、一高・東京大学法科卒、外務省に入る。 1943年〜46年、ヨーロッパ各地に勤務。戦後、外務省情報局長、ベルギー駐在員、エジプト公使・大使、スペイン大使、東京オリンピック事務長を歴任、イタリア大使を最後に退官。 原子力委員在任中に死去。享年66歳。
「一外交官の思い出のヨーロッパ」など著書多数
与謝野道子(よさの みちこ) 1915〜2000
大正4年東京生れ。女子学院卒業後、昭和十年、情熱の歌人、与謝野鉄幹・晶子夫妻の次男、外交官与謝野秀と結婚。 戦後、夫の任地、ベルギー、エジプト、スペインなどに約十年在住。その後、東京オリンピック事務長をつとめた夫のイタリア大使赴任に伴いイタリアに在住。 昭和四十六年、夫死去。長い外交官夫人としての豊富な経験を生かして、エチケット、マナー、交際などの文筆活動、講演などに活躍。 その歯切れのいい言動は好評を博している。二男三女の母であり、著書に「老いては子に従わず」「どっきり花嫁の記」「交際を考える」などがある。
(以上、転載)
与謝野は別のところで次のように語っている。
http://www.yosano.gr.jp/profile/index.html
(前略)
「血統がいいとか、名門とかいうのは犬や馬の世界と決まっている。日本はそんな社会じゃあない。そりゃあ、祖先に学ぶべきものはありますよ。日露戦争の最中に”君、死にたもうことなかれ”なんて、なかなか言えませんよ。それに引き換え、今の政治家は・・・」
(後略)
近代日本黎明期の近代歌人夫婦として時代をリードしたと評される祖父母の孫として生まれたわけであるが、祖父母は貧しかったとのことである。
祖母は子供達に「教育だけは付けさせてやったからゆるしてくれ」と言っていたとの事であるが、息子は外務省に入り外交官として活躍したのであるから一般的な評価としては成功家族と言えるであろう。
ある意味で「成り上がり家族」と評するのは私の意地悪な目であろうか?
その結果が、中曽根康弘の世話になるというコネを得たのである。
この様な家族が近代日本と戦後日本には幾つも出たのではないのか。
ちなみに鉄幹と晶子は共に傑物であった。
二人共になかなかに面白い深い人物である。
そして硬派らしい美男と知的風貌の美女である。
ウィキぺディアの両人の情報が纏まっているので紹介しておくが、どういうわけか両人の写真があまり美しいものを採用していない。
他のところから顔写真を探した方が良いと思う。
鉄幹は日本官憲と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺にも関与したと疑われた事もある人物であり、
一方、晶子は日露戦争時に反戦の歌を発表したと評されるが(厭戦と言うほどのものと考えるが)、昭和の時代に入ってからは日本の軍事行動を肯定する歌を発表している。これは別に強いられて行った事ではない。むしろ一人の人物の心の熟成と捉えるべきものではないのか。
何れにせよ二人とも精神的な幅が広く一概に評価を下しがたい人物である。
与謝野馨に話を戻すと、彼は官僚出身者ではなく所謂理論家ではないようだ。体系的な経済理論を持っているわけではない。
そしてやはりこの経歴を見ると権力への執着に生きているようである。
菅は中曽根に取り込まれているのではないのか。
与謝野は菅と中曽根を繋ぐパイプ役でもあるのではないのか。
菅内閣を与謝野を通じて中曽根が操縦する動きであるのかも。
TPPも消費税アップも今では、
米国→中曽根→与謝野→菅 といったルートで流れが来ているのかも知れない。
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