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私はこの顔を現地で見たわけではない。テレビ画面から見ただけである。
この総会での小沢氏の無言と目を閉じたままの有様を見て、私はその顔の表情を窺った。
私の解釈、私の印象では、
小沢一郎氏の顔は怒っていた。 そのように感じた。
それは、映画「座頭市シリーズ」の中で市が人に対して怒りの感情を示す時の顔に似ていたと感じた。
市が人を切る前に、「あんたたちはねえ…」と言いながらギロッと相手に向く時の顔には独特の凄みがあって、俳優勝新太郎の演技力の素晴らしさに唸ってしまってどんなに旨い料理を食べた後よりも優る満腹感を抱いたものだった。
この市の表情は切る時だけではなく、相手が裏切ったり人の道を外したりした時にも相手に対して示されたものだった。
私は映画俳優としては勝新太郎が最も好きな俳優の一人であったし、座頭市シリーズと兵隊やくざシリーズは大好きだった。
この市の表情に小沢一郎の表情は似ていたのだ。
「小沢一郎も怒るんだ」と私は思った。こんな当たり前の事を再確認した自分を不思議にも思ったのであるが、それにはそれなりの理由があったようだ。
日本国民は米国手先のマスコミに騙されてきているから意外に思うであろうが、
小沢一郎は人徳者なのである。鳩山由紀夫も同様である。
だから菅直人なんかの詰まらない男に騙されて裏切られるのだ。
しかし、人徳者でなければ一国の総理・首相は務まらない。
なぜならば、政治は信用であるからだ。
ギャングに政治を詐欺士に政治を婦女暴行魔に首長をやらせてみたら社会がどのようになるか想像してみれば判る事だ。
であるから、米国のように詐欺士暴力グループが支配していてもトップには人徳者然としたオバマを据えているのである。
さて、横道に逸れるが私は菅の様な輩には騙されない。
それは、いく度かいくつものタイプの悪人達と接してきた経験を経てきていることもあるが、私自身が人徳者ではない事による。
亀井静氏であれば菅なんかには騙される事なく、菅なんかに後を頼む事はなかったであろうと推測するが、それは亀井氏は人徳者なのではあるが、彼は警察官僚の出身であり悪人のタイプをよく知っているであろうから菅なんかから被害を被る事はなかったであろうと推測するのである。
しかし、そんな事を言っても仕方がない。
トップは首長は人徳者でなければならず、それは絶対的条件である筈だから小沢氏や鳩山氏に「疑い深い人であれ」と言っても意味がない。
それに、小沢氏や鳩山氏が菅や菅一派のような裏きり者犯罪者売国奴達を排除できない事は日本の置かれた状況に由来する事であるから仕方がない事なのだ。
戦後日本の現状は、例えれば、
大英帝国支配下の独立前のインドと同様である。
圧倒的に軍事的に支配されて、国民は分断統治されていたインド。
それと同様なのが、戦後から現在までの日本なのである。
そこにおいては裏切り者を摘発し実力で排除する力を国民は奪われている。
従って、そのような状況下の抵抗はガンジーの非暴力抵抗運動を始まりとするほかになかったのである。
ガンジーは挙句の果てに暗殺されてしまった訳であるが、さすがに有能で有名な指導者への暗殺は日本国民を目覚めさせる危険性があるので、日本への支配者は躊躇しているようだ。
従って、小沢と鳩山のマスコミ欺瞞報道のロープに縛られた手足は行動を制限するにいたり、実力としての政治力の行使も許されていないインド植民地風支配の中では、
ガンジーのように人徳による「百術は一誠にしかず」の座右の銘による抵抗から国民の政治を立ち上げてゆく他ないのである。
従って、小沢一郎と鳩山由紀夫はガンジー風の抵抗者であると看做す事が出来るのである。
それは日本が大英帝国のインド支配と同様の支配を受けている事に由来するものである。
しかしガンジーにも怒りはあったにちがいない。
ガンジーとインド国民は抵抗の手足を行動力を奪われた。
日本国民は在日米軍の軍事暴力支配を受け、ソフトなロープであるマスコミ欺瞞報道に手足を縛られ、植民地出先機関のような官僚組織に支配されて、インド国民とガンジーのように抵抗力を奪われてしまっているのである。
そうであるからこそ、視力を失くした座頭市のように目を瞑ったまま怒りの表情を浮かべた小沢一郎氏は正しく日本国民の代表者である。
我等も目を奪われ手足を奪われて怒りを表情に表わす他にない被支配者なのである。
私達は市のように仕込み杖の長ドスを振り廻すわけには行かない。
銃も大砲も統治権力も無いのである。
総てを支配者とその手下達が持っている。
我々の抵抗力は意識と判断力だけなのだ。言い換えれば精神力だけなのだ。
精神力が強ければ高ければ勝利できる。それはイスラムの抵抗運動の事例と同じである。
列強帝国主義に全土を支配された事がないチャイナの革命の様にはゆかないだろう。
全土を支配されたインドのような抵抗独立の道を歩むのではないのか。
小沢一郎氏のグループにいる政治家諸氏の議員総会と党大会での発言と態度は立派であった。
小沢氏自身は瞑目して語らずの態度はトップに立つ者として真に重々しく正しい在り方であったと考える。
菅政権の足掻きにより、国民はますます既成政党への期待を捨ててゆくだろう。
あの大人しいインド国民も立ち上がり、魯迅を苦痛へと誘ったチャイナ国民も外国勢力追放の偉業を成し遂げた。
日本国民は明治維新において国民全体の事業として反植民地主義の防衛を成し遂げていたのであろうか?
先鋭的な武士階級の政治運動としての国家国土防衛に終わり大多数の国民である百姓町民の参加する事業としては行われなかった事が日本歴史の必然であったのだが残念な事と総括しなければならない。
それは藤原氏をはじめとする平安貴族達の安定した秩序にもたれ掛かっての国政へ意欲と関心への怠慢により地方実力者である武士達の実力武力支配の台頭を齎し、実力武力支配が鎌倉幕府統治から現在までの我が国政治の統治形態となってきている事による歴史的必然であり、言い換えれば国民自身の政治力は育てられないままに放置されてきたという有様が招いた必然である。
本当は国民には政治能力はある。それは町内会や村会のしっかりした揉める事のない運営が続いてきた事に表れている。
国民には能力がある。
歴史的に歴代の統治者達が政治思想・政治哲学を持ってこなかった事が日本の政治的貧困を齎したのである。
その事が天皇制を形骸へと追いやってきた理由でもある。
神社仏閣を訳も尋ねず訳も判らず尊重して祭り上げて来た事は天皇への対応においても同様の姿を為してきている。
統治者の政治は民を安んずるところであれば、民自らの統治に拠ることが最大の安定を齎す。
鎌倉幕府統治以来の実力武力支配の政治伝統を覆し廃棄して平安藤原氏の怠慢支配以前の安定政治の姿へと戻らなければならない。
少なくとも政治謀略都市と化した奈良の都を捨て去った桓武天皇の平安遷都の時代までは戻る覚悟が必要だろう。
この意味で安藤昌益の政治論は正しく有効であると考える。彼は出自的に見ても古代思想の継承者であったのであり突然変異の共産主義思想家であったわけではない。
鎌倉幕府以後では思想的に断絶されているので奇異な印象で受け止められたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%A0%AD%E5%B8%82
座頭市
http://homepage2.nifty.com/nextgate/side_e_5.htm
桓武天皇 (かんむてんのう 50代 737〜806 在位781〜806)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A/
安藤昌益(あんどうしょうえき)
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