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依然として政治についての不毛な議論や報道が続いている。ここで政治や政策を論ずるときや経済の問題にも関連する「言葉」についての私見を述べてみたい。
よく「新自由主義」という言葉を聞くと思うのですが、この言葉を調べると驚いたことに自由主義と同じであることが分かるだろう。なぜ新自由主義という言葉が古いものと概念が同じなのに、「新」などと言う単語を使うのだろうか、理解ができない。このようなことが混乱を助長させる原因なのだ。本来の自由主義の原語は「Liberalism」(リベラリズム)であり、ヨーロッパと米国では厳密な意味では多少異なるものの、基本的には政治的自由を実現させた重要な考え方を表したものである。初期の古典的自由主義は「レッセフェール」で知られる「放任される自由」を基本とした個人主義に基づいた自由経済主義、小さな政府(Limited Government)を求める思想であった。
しかしながら経済において何も規制のない状況下では貧富の差が激しくなり、結果として個人の自由が損なわれるという考えが台頭した。その結果、近代以降に、初期の考えを修正した、政府や地域社会が介入して極端な格差を解消する必要がある、としたものが「New Liberalism」や「Social Liberalism」と呼ばれるもので、社会自由主義などと翻訳されているものである。本来はこちらが新自由主義と定義されるべきものだと考える。
これに対して前述した「新自由主義」と一般的に言われているものは「Neo Liberalism」(ネオリベラリズム)のことを指し、「New Liberalism」に対抗した古典的な意味の自由主義に回帰することを目指した思想を言う。その意味ではNeo Liberalismは「回帰自由主義」とでも呼ばれるべき言葉である。市場経済重視の考えから、民営化や規制緩和、福祉の縮小を主張するものであるが、主として経済問題が主体の用語である。小泉・竹中による悪名高い政策のもとの考え方はこれであった。この考えを政治的なものまでに広げたものが「libertarianism」(リバタリアニズム)で「自由原理主義」と呼ばれている言葉である。最終的には「無政府主義」というものを容認する考えにも似た思想であるが、さすがに無政府主義までについては容認していない意見が多数意見となっている。
また「小さな政府」と「大きな政府」という言葉も正確に理解されていない。この言葉は政府機構という物理的なものが大きいとか小さいと言う事を述べたものではない。一見すると「大きな政府」とは組織や人員が多い政府のように理解されがちであるが、本来の意味は「規制や福祉に対する政府の関与の大小」を表すもので、物理的な組織という概念の「効率性」というものは大前提として存在する。不要な組織や非効率な制度、合理性のない人事制度や給与体系などは大きな政府だろうが小さな政府だろうが誰も認めてはいない。
この「新自由主義」という言葉の使い方一つに見られるように、我が国のカタカナ語の不統一や誤訳とも思える日本語への変換はとても重大な問題である。明治時代に知識人たちが諸外国の制度や考え方を導入した時のみごとな日本語への変換と比べて、現代のカタカナ語の氾濫は、知識人たちの責任放棄と言わざるを得ない。官僚や政府の都合の良い言葉の解釈がまかり通るだけでは国民は簡単に世論操作されてしまう危険にさらされる。今の現状を見ると、むしろ混乱させることで、国民の間の実のある議論を意図的に妨げているかのようにさえ思ってしまう。
また、言葉の正確な定義のない世界においては、何かが発展できる可能性はとても低いものになる可能性がある。訳の分からない言葉や矛盾した用語があれば、何かを学ぼうとする人々は混乱し、言葉の理解だけで疲れ果てて本来の意味の学ぶという行為を放棄してしまうだろう。その良い例をIT用語の以下のカタカナ語に記してみよう。
オブジェクト指向、コンパイラ、プロシージャ、アプリケーションソフト、・ ・ ・
これらの言葉を見ただけで何を意味するか分かる人がいるだろうか。プログラムという勉強を始めようとする人々は、本来の意味のプログラミングの前に、これらの複雑な訳の分からない用語を理解することから開始しなくてはならないだ。大多数の人はこの時点で止めたくなってしまうのが頷ける。 ITにおいてわが国が遅れているといわれる原因もここにあるのではないだろうか。
このように正しい日本語に翻訳がなされることはとても重要なのだと分かる。それを放置している現状で科学技術や教育にいくら税金を投入しても効果は非常に薄いものにしかならない。欧米の哲学者はラテン語の理解から始める。それは使用する言語の定義を明確にすることで思想を正しく理解し、又、自分の意見を伝える必要があるからだ。ちょうど契約の中で使用される用語の定義のような感覚である。この意味では、政治において必要な言葉とその背景にある思想についての正確な考え方を国民に広く知らしめる知識人たちの努力がもっと必要だと考える。勿論、国民一人一人の努力を否定するものではなく、学びやすさという観点と、正しい言葉の理解を前提とした実のある討論の必要性からの意見であるが、まあ、どちらにしても今の日本の官僚社会主義形態では、どのような形の政策議論ををやってもうまく機能はしないだろうと悲観的に思ってしまう。皆さんはどのように考えるだろうか?
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