07. あっしら 2013年3月15日 18:16:53
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カレー中毒死の原因物質がヒ素という見立て(分析)が誤りだと思っているが、捜査の過程が見える産経新聞の記事を...========================================================================================================= 和歌山毒物カレー(上)刑事の念押しに懊悩して 2011.11.24 10:00[関西事件史] 「福富君、よう見といてや」 1週間前に死刑が確定したばかりの彼女は、透明のアクリル板の向こうで突然、ピンクのジャージーの上着を脱ぎ始めた。続いて、その下に着たTシャツも。隣に座る刑務官もあっけにとられたのか、止めるそぶりがない。 平成21年5月25日、大阪市都島区にある大阪拘置所の11号面会室。面会の相手は、和歌山の毒物カレー事件で死刑判決を受けた林真須美(50)だった。最高裁は4月21日、無罪を主張する彼女の上告を棄却。彼女にとっては最後の手段である判決の訂正申し立ても5月18日に退けられ、「被告人」から「死刑囚」になっていた。 「私はこんなところで国に殺されたくないんよ。犯人やないんやから」。脱いだTシャツの下に重ね着していたTシャツには、人権団体による無実を訴えるメッセージが記されていた。その後も質問のいとまを与えないまま彼女はしゃべり続け、あっという間に面会時間の10分は過ぎた。 死刑が確定すると、面会や手紙のやりとりは原則、弁護士や親族に限られるようになる。それからほどなく彼女も面会が許可されなくなり、11年間取材を続けてきた彼女の肉声を聞いたのは、このときが最後になった。 饒舌が深めた疑念
彼女に初めて会ったときのことは、今も鮮明に覚えている。 入社して3年が経ち、和歌山県警担当となって1週間が過ぎたばかりの10年7月26日。前夜、和歌山市園部の自治会主催の夏祭りで、カレーを食べた参加者が次々と病院に搬送される食中毒騒ぎが起きていた。 それが翌朝までに4人が相次いで死亡し、毒物混入事件として捜査本部が設置されたのだ。県警による最初の記者会見が終わると、夢中で現場へ向かった。 夏祭りの会場に近い家から、1軒1軒インターホンを押す。だが、69世帯の自治会で被害を受けた人は67人に上る。どの家も取材どころではないのか、それとも留守なのか、反応がなかった。 そこで、初めて玄関先に入れてくれたのが林家だった。夫(66)とともに取材に応じた彼女は、自治会内でのトラブルや不審な出来事を次々と口にした。そのときの私にとっては、ありがたい取材相手だった。 しかし、取材が進むにつれ、彼女への疑念は膨らんでいった。夫婦ともに仕事に就いていないのに大きな家に住み、乗り回す車は高級外車。その豪邸には、借金まみれの元会社社長から国会議員の元私設秘書まで、怪しげな人物が足しげく出入りしていた。 不審な保険金の支払いも次々と見つかった。なにより、調理が終わったカレー鍋の見張りをしていた彼女と、カレーに混入されたヒ素との間に接点が浮かびつつあった。 その疑念が確信へと変わったのは、8月22日、ある刑事宅への夜回りだった。いつもなら先方はビール、こちらはお茶なのだが、この日はコーヒー。当たり障りのない世間話をしながら飲み終えると、彼は意を決したように話し始めた。 「あんな、事件の前、林の家に出入りしとった兄ちゃんのことは知ってるやろ。その髪の毛からヒ素が出たんや。しかも、林にたんまり生命保険かけられとった」 カレー事件の前にも、彼女の周辺でヒ素中毒患者が出ていた。しかもカレー事件本件の前に、近々その保険金殺人未遂で逮捕する方針だという。自分が、とんでもなく大きいネタをつかんだことだけは分かった。だが、それには悩ましい念押しもついていた。 「絶対書くなよ。書いたら、この事件は終わりや。身柄を引っ張って、うたわせる(自白させる)ためのネタやからな。先に表に出したら、事件をつぶすことになるで」 急いで和歌山支局へ戻り、聞いたまま洗いざらいを報告した。すっかり気を高ぶらせて報告する一方で、私には書くべきか否か判断がつかなかった。県警担当としての当事者能力を失っていたといっていい。 取材班で話し合った結論は、その日の朝刊への掲載は見送り、裏付け取材を進めつつ逮捕のタイミングを見極めて記事化する、だった。正直なところ、少し安堵した。ネタが記事にならなかった失望よりも、4人の生命が奪われた事件を「つぶす」ことへの畏(おそ)れの方がまさっていた。 だが、事件からちょうど1カ月となる8月25日の朝日新聞朝刊を見て、そんな気分は吹き飛んだ。 「事件前にもヒ素中毒 地区の民家で飲食の2人」 1面に躍る派手な見出し。あの夜聞いた話が、その後の取材で判明した話が、他紙の紙面に記されていた。 志願した“敗戦処理”
そこからしばらくの記憶は、少しぼんやりとしている。彼女にターゲットを絞った猛烈な報道合戦が、テレビのワイドショーも巻き込んで始まった。10月4日早朝の逮捕を機に、それまで「疑惑の住民」と匿名で報じられていた彼女は、「平成の毒婦」として実名で知られるようになった。 捜査が終了しても、次は裁判だった。翌11年5月13日に和歌山地裁で開かれた初公判には、5220人もの傍聴希望者が詰めかけた。私はといえば、目の前に次々と押し寄せてくる仕事を、なんとかこなすだけの毎日だった。 そうした日々が少し落ち着いた11年9月の夜、ふと、あの刑事の自宅を訪ねた。夜回りは久しぶりだったが、あの夜と同じように、出されたのはコーヒーだった。 「なあ、教えてくれへんか。新聞協会賞っていうたら、ブンヤさんにとったら(警察庁)長官賞みたいなもんか」 質問の意図を図りかねながらうなずくと、彼はちゃぶ台に向き直って切り出した。 「朝日がカレー事件で協会賞をとったんやて。悔しいやろなあ。福ちゃんも知っとったのに、わしとの約束を守って書かなんだんやろ。どうせやったら、賞をとるのは福ちゃんやったらよかったんや。すまんかったなあ…」 夜回りを終え、近くに止めた車に戻っても、しばらくエンジンをかけることができなかった。なぜだか自分でもよく分からないまま、涙がこぼれて仕方がなかった。 それから、しばらくしてからのことだと思う。上司に、ずっとカレー事件の取材にかかわらせてほしいと願い出た。判決が確定するまでは10年、20年かかるかもしれない。新聞記者に異動はつきものだ。それでも、事件を途中で放り出すのは無責任に思えた。新聞協会賞の「敗戦処理」でもある。事件を最後まで見届けることが、自分の務めのような気がしていた。 解明されなかった動機
彼女の裁判は和歌山地裁から大阪高裁、最高裁へと審理の場を移しながら、10年間続いた。私は95回の公判が開かれた1審の途中で大阪社会部へ異動になったが、論告や判決など節目節目には和歌山に出張して取材に携わることができた。 控訴審のときは、ちょうど大阪の司法担当だった。上告審では東京にも出向き、判決後、犠牲者の遺族が涙を浮かべ手を握り合う姿に、務めを果たせたような気が少しだけした。 しかし、彼女が実行犯と確定しても、犯行動機は解明されないままだった。それを唯一知るはずの彼女への面会も、手紙すらも届くことはなくなった今、疑問は宙に浮いたままだ。 なぜ、カレーにヒ素を混入したのか。なぜ、4人は死ななくてはならなかったのか。なぜ…。(敬称略) (大阪社会部 福富正大) http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/111124/waf11112410010005-n1.htm
和歌山毒物カレー(下)「虚弱警察」がみせた意地 2011.11.25 10:00[関西事件史]
「2強3弱1虚弱」 プロ野球チームの序列ではない。失礼を承知で書くが、これは十数年前に警察関係者でささやかれていた近畿6府県警の捜査1課の「力」を表す言葉だ。2強は大阪と滋賀、3弱は京都、兵庫、奈良、そして不名誉な1虚弱が和歌山だった。 誰から聞いたかは覚えていないが、平成7〜9年当時に和歌山県警を担当していた記者としてもいい気分がしなかった記憶はある。ただ、それに反論できないほど和歌山県警には未解決事件が山積していた。 古くは昭和63年に和歌山市で新聞配達をしていた女子高生が殺害された事件。平成5年に有田市の書店経営者が預金4000万円を引き出した直後に妻とともに失踪したケースは、「事件」として認定されていないかもしれないが、夫婦はいまだに行方不明のまま。同じ5年の阪和銀行副頭取射殺事件は全国的にも有名だろう。 7年に私が県警本部担当になってからも迷宮入りは続いた。スポーツ店主殺害のほか、翌8年に起きた県立医科大学付属病院のポットに覚醒剤が混入され、乳児4人が中毒になった事件はマスコミに大きく取り上げられたが、犯人は結局捕まらなかった。 中には犯人の目星がついていたものもあった。だが、県警が慎重になりすぎたり、検察庁と折り合わなかったりして解決には至らなかった。これも弱さを示しているのだろう。 だが、和歌山県警は10年、この汚名を返上する。それが7月に和歌山市で起きた毒物カレー事件だ。発生後まもなく林真須美(50)が容疑者として浮上し、簡単に捜査が進んだようにみえるが、その裏には大きな分岐点と伏線があった。 焦る検察、慎重な警察
毒物カレー事件の捜査と報道の局面が大きく変わったのは、発生からちょうど1カ月がたった8月25日。朝日新聞が「事件前にもヒ素中毒 地区の民家で飲食の2人」と報じたことをきっかけに、やや落ち着きつつあった報道合戦が一気に再燃した。 真須美を保険金詐欺容疑で逮捕し、自宅に出入りしていた2人の男性がヒ素中毒になっていることを“突きネタ”にカレー事件の自供に追い込む−。 県警担当の後輩記者が朝日が報じる以前につかんできた情報からは、現場の捜査員がこんなストーリーを描いているのは間違いなかった。産経取材班は捜査への影響を考え、記事化を見送っていたのだ。 それだけに落胆は大きかったが、落ち込んでばかりはいられない。すぐに「疑惑の住人」が保険金詐欺を繰り返していたことを報じ、取材の主眼を一家庭の主婦による前代未聞の連続保険金詐欺事件へと移していった。 一方、真須美の自宅前にはおびただしい数の報道陣が張り付いた。テレビでは連日、顔こそ隠されたが、カメラマンに水をかけたり、夫とともに取材に応じたりする真須美の姿が繰り返し放送された。 事件そのものが劇場化するなか、現場の雰囲気が「逮捕はいつ?」から「逮捕はまだか」に変わるまで時間はかからなかった。 「地検と話が合わんのよー」 捜査幹部からこんな話を聞かされたのはそのころだ。普通なら、早く着手させてほしいと主張する警察に対し、検察が待ったをかけるという構図が思い浮かぶのだが、このときは逆だった。 地検に焦りがあったのかもしれない。保険金詐欺容疑で真須美らを逮捕し、早期に着手するように県警に指示してきたという。 しかし、県警はあくまで「ヒ素」にこだわった。真須美は知人らにヒ素入りの物を食べさせ、入院保険金の詐欺を繰り返しており、カレー事件そのものの解決にはヒ素を使った保険金詐欺の立件が不可欠と判断していたからだ。 これに対し、地検は「ヒ素を使った詐欺は100%起訴できるとはかぎらない」として、これに難色を示していた。 おきて破りの直談判
「万全の準備を整えてから着手したい。何とかなりませんか」 県警本部長の米田壮(現警察庁次長)が相対していたのは大阪高検検事長の逢坂貞夫(現弁護士)。和歌山地検との溝が埋まらないことに危機感を抱いた米田が9月、逢坂に面会を求め、大阪高検を極秘裏に訪問していた。県警の本部長が高検検事長に捜査方針を“直談判”するのは異例中の異例だ。 これを受け、逢坂が検察側の全面指揮に乗り出した。産経取材班がリアルタイムでこの動きを把握していたわけではないが、この後から大阪高検、和歌山地検、県警の3者協議が頻繁に開かれ、捜査方針が着々と固まっていったことは察知できた。 決定した方針は、ヒ素を突きネタに自供を引き出すという従前の筋書きとはかけ離れたものだった。 ヒ素を使った詐欺と100%起訴できる詐欺の2つの事件で逮捕とする▽ヒ素の存在を明らかにするため、自宅などを徹底検証する▽2つの事件を組み合わせた再逮捕を複数回繰り返し、カレー事件に進む−。 捜査スケジュールもさまざまな鑑定などから逆算され、着手日は10月4日に決まった。くしくも私の27回目の誕生日だった。 その後の捜査はおおむね予定通りに粛々と進んだ。衆人環視の中の逮捕劇、一緒に逮捕した夫を被害者にした詐欺の立件、大型放射光施設「スプリング8」でのヒ素の鑑定…。そして平成21年4月、最高裁が真須美の上告を棄却し、死刑が確定した。 もしあのとき、和歌山地検の方針通りにヒ素と関係のない詐欺事件だけで逮捕に踏み切っていたら…。 自宅の徹底検証はできず、ずるずると時間が経過。カレー事件での逮捕には踏み切らざるを得なかっただろうが、時間がたってからの検証では弁護側が証拠能力に疑義を唱えたはずだ。 さらに、取調官が自供を得るために強引な取り調べをして、弁護団に付け入る隙を与えたかもしれない。公判の維持はかなり難しくなっていただろう。 偶然ではなかった最強布陣
1虚弱と揶揄(やゆ)された和歌山県警だったが、カレー事件が起きたときは「他府県にも引けを取らない優秀な捜査幹部がそろっていた」(米田)。ただ、こうした最強布陣で捜査に当たれたのは、決して偶然ではなかった。 相次ぐ未解決事件を受け、県警も多くの改革に乗り出していた。ある意味、刑事経験よりも出世の順番通りになっていた捜査1課長のポストのあり方を見直し、実務能力を優先して捜査指揮に定評のある幹部を1課長に据えるようにした。カレー事件で指揮を執った1課長も、もともとは別のポストにつくはずだったが、捜査経験を買われて任命されたという。 さらに、事件が多い大阪府県境の警察署すべてに刑事出身の署長を並べた。その中でも、カレー事件で捜査本部が置かれた和歌山東署は別格で、最も格の高い“筆頭署”をこれまでの和歌山西署から東署に変えてまで、人選にこだわった。 こうして配置された捜査指揮官たちが、捜査のよりどころとされる「容疑者の自供」をあえて捨て、客観証拠の積み重ねによる立証に一枚岩になったことが、カレー事件を解決に導いたといっても過言ではないだろう。 この事件以降、和歌山県警を「虚弱」と揶揄する人はいなくなった。(敬称略) (東京社会部 楠秀司) ◆和歌山の毒物カレー事件◆
平成10年7月25日、和歌山市園部の自治会主催の夏祭りに出されたカレーにヒ素が混入され、自治会長=当時(64)=ら4人が死亡、63人が急性ヒ素中毒にかかった。和歌山県警は同年10月4日、保険金目的で知人男性にヒ素を飲ませた殺人未遂容疑などで林真須美死刑囚を逮捕。12月9日にカレー事件の殺人、殺人未遂容疑で再逮捕した。 林死刑囚は一貫して無罪を主張。目撃証言などの直接証拠がない中、1審の和歌山地裁は14年12月11日、放射光施設「SPring−8」による鑑定で、カレーに混入されたヒ素と自宅で発見されたヒ素が一致した▽ヒ素混入の機会があった人物は他にいない−ことなどから林死刑囚の犯行と認定し、死刑を言い渡した。 弁護側は控訴したが、大阪高裁は17年6月28日に控訴を棄却。さらに最高裁が21年4月21日に上告を棄却し、判決は確定した。これを不服とする林死刑囚は同年7月22日、再審請求している。 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/111125/waf11112510010004-n1.htm |