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【こちら特報部】「あさま山荘事件から40年」2012/02/19(東京新聞)
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11169630112.html
2012/02/19 東京新聞 :平和ボケの産物の大友涼介です。
連合赤軍メンバー5人が女性1人を人質に立て籠もった「あさま山荘事件」の発生から、19日で40年。10日間にわたって繰り広げられた警官隊との攻防を、テレビ中継などで記憶している人も多いに違いない。事件とは直接関係ないものの、メンバーと一緒に運動を続けていた元活動家が、今、連合赤軍事件の全容を後世に伝えようとしている。連合赤軍とは何だったのか・・・。(秦淳哉記者)
■元活動家「死んだ仲間のために」 「全容を」記録積み上げ
「たくさんの仲間が死んだ。記録を残すことが義務だと思って始めた」
こう話すのは「連合赤軍事件の全体像を残す会」のメンバー、雪野健作氏(64)と金廣志氏(60)の二人。
共産党赤軍派と日共革命左派神奈川県委員会が合流して生まれた連合赤軍。雪野氏は革命左派の最大拠点だった横浜国大出身。名古屋市で活動を続け、一九七一年に逮捕される以前は、連合赤軍幹部の故永田洋子元死刑囚(二〇一一年、獄中で病死)と行動を共にしていた。金氏は赤軍派に所属し、やはり連合赤軍幹部の故森恒夫被告(七三年、拘置所内で自殺)らと活動を続けた。
全体像を残す会が発足したのは、あさま山荘事件から十五年後の一九八七年。事件の被告らが控訴審判決を受けた頃だ。雪野氏は「弁護士や支持者と話す中で、これだけの事件の調書や裁判資料が永久に保存されないのはよくないと思うようになった」と振り返る。
資料の収集・保存とともに取り組んだのは、連合赤軍を知る人の証言を集め記録すること。これまで約二十人の当事者に会った。インタビューの録音は、六十分テープで約百本に上る。二〇〇四年からはインタビューをまとめた冊子「証言 連合赤軍」も出版しており、すでに八冊目に達した。九七年には、あさま山荘事件前に、多くの仲間がリンチで死亡した群馬県の事件跡地を巡る「慰霊の旅」も開いた。
事件から年月が経過し、連合赤軍に関与した人の記憶が薄れてしまうことも恐れた。金氏は「事件の全体像を実際に見た人はいない。いたとすれば森か永田だろう。一人一人の立場や見方は異なるが、加工しない生のまま、証言を残したかった。そうしないと死んだ仲間が浮かばれない。死者は語ることができないから」と活動の意義を語る。
当時の週刊誌などが伝えた事件の内容にも抵抗感があった。雪野氏は「乱交と暴力ばかりが強調されていた。確かに一部はその通りかもしれないが、想像で書いたとしか思えないひどい表現もあった。実際の姿が残されていないと感じた」と、実情から乖離したイメージの定着を危ぶんだ。
残す会のインタビューに対して、関係者はどう応じたのか。金氏は「当時の出来事を驚くほど詳細に覚えていた。人のしぐさまで鮮明に記憶している人が多い。それぞれ感情の高まりがあったのだろう」と指摘する。一方で、今も固く口を閉ざす関係者も多いという。
■まだ歴史にはできない
永田死刑囚と森被告はあさま山荘事件の起きる前にいずれも山狩りの警察官に逮捕されており、事件の終結によって、連合赤軍は崩壊した。そして、逮捕後の取り調べで、群馬県の榛名山などの山岳アジトで連合赤軍のメンバー十二人が組織内のリンチで死亡していた「山岳ベース事件」が発覚。ささいなことでメンバーに”総括”と称して自己批判を迫り、顔を殴った上に食事を与えず厳冬の山中に放置して死亡させるなど、凄惨な事件の全容が明らかになり、世間に衝撃を与えた。
雪野氏は当時既に逮捕されていたため、東京拘置所の中であさま山荘事件のニュースを知った。その後、山岳ベースでの出来事も耳に入り、絶望感に包まれたという。
「新聞は一部が黒塗りにされていたが、リアルタイムで立て籠もった十日間の様子を知ることができた。事件を知って、天が崩れてくるような深い衝撃を受けた。拘置所にいた別の仲間も、恋人がリンチの犠牲となったのを知り、顔がげっそりと痩せていた。まさに破局だと感じた」
金氏があさま山荘事件の発生を知ったのは、東京都内の潜伏先で見たテレビ。ほんの少し前まで、警察に追われて群馬県の山岳地帯に逃避行をするメンバーと一緒に行動していた。「なぜ人質を解放しないのかと憤りを感じていた。事件終結の時、連合赤軍は壊滅したと思った」
それから四十年。雪野氏は一九八〇年に刑期を終え、今はIT関連の会社を経営。金氏はカリスマ塾講師として評判を集める。
二〇〇八年には事件の様子を描いた映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が公開され、一〇年には山本直樹氏の漫画「レッド」が文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞した。歴史の一部であるかのように事件に関心を示す若い世代もいる。しかし雪野氏は「世間の捉え方がそうであっても、当事者の私は客観的な歴史にはできない。戦争や原爆を体験した人が事実を歴史と受け止められないのと同じ」と話す。
■「議論尽くすべきだった」 連合赤軍の悲劇「繰り返さないで」
連合赤軍の歴史を知ることは、過去からの教訓を得ることにも繋がる。金氏は「当時は新しいカルチャーをつくり出そうという空気に満ち、左右を問わず論争、議論があった。今はそういう場自体がない。原発問題では、推進派と反対派の意見が噛み合わないまま、感情的な応酬に終始している。”総括”のようなメンタリティーは今の日本にもあると感じる時がある」と警告する。
雪野氏は、爆弾や銃で武装して派出所を襲撃しようとする永田元死刑囚らの計画に当初から反対したが、最後は周囲の意見に押し切られた。「議論が通じず、いずれ活動が壁にぶつかった時を待つしかないと思った」。ところがその機会より前に、仲間は破滅に向かって突き進んでしまった。当時を悔やみ、こう求める。
「例えば、原発がメルトダウンした時、あの時に津波対策をしておけばと思った技術者もいたはずだ。疑問点を最後まで詰めなかったことが、悲劇に繋がる。同様の歴史を繰り返さないためにも、多くの人があさま山荘事件に関心を持って欲しい」
残す会は二十五日午後六時から、東京都千代田区の東京しごとセンターで、今年も「連合赤軍殉難者追悼の会」を開く。
※デスクメモ
「最近、若い人たちと話したら、みなさん生きづらさを感じていた。それが気になっている」と金氏。一方の雪野氏は「あの頃、閉塞感はあったが、空を見上げればまだまだ広く、未来をつくっていけると感じていた」と振り返った。事件から四十年。空は当時より狭くなってはいないだろうか。(木デスク)
※あさま山荘事件
連合赤軍のメンバー5人が群馬県の山岳アジトから逃走中の1972年2月19日、長野県軽井沢にあった保養所のあさま山荘に、管理人の妻を人質にして10日間立て籠もった。包囲した機動隊との銃撃戦の末に人質は無事保護、メンバー5人全員が逮捕されたが、警官2人、民間人1人が射殺され、16人が重軽傷を負った。
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