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あらためて、ヘッドフォンで「ジュールズ倶楽部」のコーエンを聴いてみた・・・
私は、以前も、「ジュールズ倶楽部」で放送されたレナード・コーエンの筆舌に尽くしがたいパフォーマンスを紹介したが、同じものを、私は、ブルーレイ・レコーダーに録画してあるので、それを、今度は、じっくり、ヘッドフォンで聴いてみた・・・。結果として驚くべきことがいくつかわかったので、それを以下に記す。
まず、女性バックコーラス二人、向かって右側の女性の声は右側のスピーカーから、向かって左側の女性の声は左側のスピーカーにきっちり振り分けられて放送(録音)されていた。
通常、女性バックコーラスはおおむね、人数に関わらず、それぞれの声をミックスして、それを、悲しいかな、モノラルにして、どちらかといえば、遠鳴り状態で、放送(録音)されることが多い。(簡単に言えば、内山田ひろしとクールファイヴのような1本のマイクで数人が唄う感じにちかい)このような、興ざめするような、ことをするには、いくつか理由がある。その理由をいくつか以下に記す。
@ 女性バックコーラス自体が、そもそも飾り物的にバンド内に存在している場合(これは、バンドリーダーの嗜好が反映されることが多い)
A ミキサーが女性バックコーラスの重要性を理解していない場合
B ミキサーが複数の女性バックコーラスの声をそれぞれのVoチャンネルごとに、ボリューム調整したり、イコライザー調整したりして、何度も、サウンドチェックを行い、それぞれの声をバランスよく左右に振るのが面倒であることと、そのようなサウンドチェックの物理的時間がない場合
C リードVoが女性バックコーラスの本来あるべき姿を理解していないし、それを究めようとしていない場合
D その他
レナードの場合は、上記@〜Dどれにも当てはまらない音楽家であり、シンガーである。従って、二人の女性バックコーラスの意味合いや価値を十分に理解し、有機的に活用しようとするが為、二人の女性コーラスの声をL,Rに振りその有機的効果を狙うので、それぞれの歌声の輪郭や音像をはっきりとらえることができる。結果的に我々、聴き手が歌い手(女性コーラス二人)の完璧なチェックができる。これは歌もの愛好家にはこの上ない喜びである。ちなみに、小柄な女性が低音パートで、その三度上の高音パートは大柄な女性が担当している。二人とも素晴らしい女性シンガーであるが、高音担当の方が、高音を担当している有利さもあるが、声量と声の通りで若干のアドバンテージ(声が目立っている)があるようである。
そして、当たり前だが、レナードの声が真ん中から聞こえる。レナードの場合、完全なる女性バックコーラスとの有機的なハーモニーを意識し、聴き手にもその有機的な音像(右から女性A、中央からレナード、左から女性B)が臨場感をもって体験できるような音づくりを意識しているようである。極端に言えば、聴衆の目の前で、マイクを使わずに唄った場合の状態の延長線上のパフォーマンスとして感じることができる。そのレナードの音楽哲学の反映は、女性バックコーラスのステージ上の物理的配置についても現れている。
それは、通常のバンドの場合の、女性バックコーラスの位置が、バンドの後方の高台に配置されていることが多いが、レナードの場合、この法則(定石、スタンダード)がまったく当てはまらず、女性バックコーラスは、レナードの真横に配置されていることとも深く密接に関係しているようである。
レナードは決して背が高い方ではない、ジュールズのこのライブの時も、高音担当の女性より、あきらかに背が低い・・こんなことは、彼にとってどうでもいいことで・・我々も、そう、言われればそうだったな・・的な感覚しか残っていないが、いずれにせよ、音楽重視、音楽の完成度を求める彼には、自分と、視覚的にも、物理的にも同列の女性バックコーラスを思い描いているようである。
話は、三声(レナード、女性コーラス二人)のステレオ録音状態の話に戻るが、レナードは若いころより、自分の声と自分の歌唱力、自分の歌の技術に関する劣等感にさいなまれ続けていて、それを、解消する方法として、女性バックコーラスに自分の欠点をオブラートのように包んでもらいたいという願望があったようである。私は彼の声や歌唱力や歌の技術に関して、まったく彼が言う劣等感にさいなまれるようなものは、全く感じていないが・・結果的に、彼は女性バックコーラスを重要視し、独自の音楽世界、唯一無二の完成された音楽観を構築したのである。次に各論を以下に記す。
Leonard Cohen Democracy Live 1993
http://www.youtube.com/watch?v=-JwmIBSMzSM
この曲は、度肝を抜く、女性バックコーラスの「セールオン!、セールオン!」という叫びから始まる。ここで、聴衆は、度肝を抜かれ、秒殺される・・。そして、ドラムのバックビートではなくマーチングバンドのようなロール的なアプローチで、物語が開始する。この女性バックコーラス冒頭の部分で、想像力の働く人は、ヘッドフォンなしでも、どっちが、高音担当か、低音担当か、わかる。実は、このバンド、この女性バックコーラス以外に、ベース奏者とサックス奏者もバックコーラスに参加しているが、こちらは残念ながら、遠鳴りで、ミックスされ、モノラル処理されている。これはレナードの意向だと私は思っている。あくまでも、このバンドは、この当時は、レナード、女性Vo(高音)、女性Vo(低音)のトロイカ体制がメインなのである。
この曲のリズムでのポイントは、ドラムのロール的な奏法とベースラインである。リズムギターでカッティング的なバッキングはほとんどない。キーボードの、歌のバッキングは、ほとんどコード弾き(右手コード、左手ベース音)の全音符奏法的なアプローチがメインである。
レナードの今回のジュールズでのライブでは、一般的なロックミュージックでは様式化しているいわゆる歪んだギターサウンドは皆無である。しかし、強烈なロックスピリットを感じるのは、私だけだろうか?(歪んだギターを曲の最初から最後まで多用しても、まったくロックスピリットを感じないバンドや曲もあるが・・・私は、こういった内容のないロックバンドは大嫌いである)
最初の女性二人の「セールオン!」「セールオン!」だけでも、度肝を抜かれ圧倒されるのであるが、これにあの圧巻のレナードの「セールオン!」が重なるのであるから・・言葉もない・・ただただ、圧倒されひれ伏すだけであるが・・これ以上の高みを経験できるロックミュージックは、そうない。まさに、圧巻である。
Leonard cohen - the future. Jools Holland
http://www.youtube.com/watch?v=_drEFOaPaK8
この曲は、ジュールズの紹介とともに、レナードが凄みのある声で、「フューチャー(未来よ!)、ブラザー(兄弟よ!)、マダー(殺人者よ!)」と唸り、それを無視するかのようにドラマーがスティックでカウント開始して、なだれ込むように曲が始まる。
曲調はアップテンポのエイトビートで、ドラマーはひたすら、エイトビートをリズムマシーンのように刻む。ベースラインも絶妙である。キーボード類は、まさに歌もののバッキングの手本のように目立たず黒子に徹して、バックを支えている。
歌詞をみてみたが、ヒロシマなる固有名詞がでてきたり(give me Hiroshima )、私は子どもが好きではないとか、アナルセックスがどうしたとか(Give me crack and anal sex )・・殺人者がどうしたとか・・シャロン・テートを惨殺した殺人鬼の名前が出てきたり、スターリンがでてきたり・・まあ、「ハレルヤ」も十分難解で、意味不明だが、これは、究極の意味不明な歌詞である。
話は変わるが、1975年にブライアン・イーノが「アナザー・グリーン・ワールド」という、歴史に残る名盤を出した時にロック評論家の渋谷陽一がイーノに電話インタビューを試みたが、この、レナードの意味不明な歌詞をみていて、その時のイーノのコメントをふと、思い出した。それは具体的には、イーノの作詞についての質問だったが、イーノいわく「私は、ディランのような詞に何か意味を持たせるような作詞家ではないし、そのような意味に重点を置いた歌詞は書かない、私の場合、歌詞は、歌にしたときにそのことばが、メロディーやリズムに歌詞をのせた場合、その歌詞がサウンドとして耳触りがいいような言葉を選んでいる」とコメントしていたのを思い出したのである。レナードの曲も、イーノ同様、彼の発する歌詞がやたらと耳触りがよく、かっこいいのである。具体的には、代表的なものを挙げるが、この曲でのrepent(後悔する)の掛け合いなどは、絶妙である。デモクラシーでは例の「セールオン」「ユー・エス・エイ」等、日本人の英語がまるっきりだめな私でも、最初から聞き取れる。
彼も、作詞に関してイーノのようなアプローチをしていると私は確信を持っている。彼は、我々(聴き手)にハイレベルな罠にかけているのである。(文学家、詩人、小説家の書く詞である、深い意味があると素人は安易に邪推する、その裏をかくのがレナードのすごいところであり、レナードたるゆえんである)その証拠に、彼は、むかし、催眠術にハマったという。女を口説きたい、他人を操りたい、他人を騙したい、他人に罠を掛けたい・・その手の衝動が強い人物と思われる。たとえば、ジュールズとのインタビューでも、通常、司会者であり、番組レギュラーのジュールズがインタビューの主導権を握るのが、普通だが、ジュールズの質問がレナードや聴き手の興味をひかないとみるやいなや、速攻で「俺のこの話、つまらないかな?」なんて、ジュールズに対し強烈な牽制球を投げる。ジュールズはその牽制球で瞬く間に動揺し、イニシャチブをレナードにあっさり奪われる。レナード、この男は一筋縄ではいかない男である。この男、来日した時に、自身のレコードを出しているレコード会社に自ら電話して、お宅の会社からレコード出している「レナード・コーエン」っていう人間だが、インタビューとか、ある?」なんて、インタビューしてもらうため、自らがセールスマンになり、インタヴューを仕掛ける。なんかすごいですな・・。
話を元に戻そう、そして、今度は渋谷陽一がデヴィッド・ボウイーに電話インタビューしたときのボウイーのコメントを紹介する、これも大いにレナードの歌詞に関連すると思われる「私の歌詞は、ウイリアム・バローズに影響を受けている。彼のカット・アップ手法を取り入れている。カット・アップ手法とは、紙に何か言葉(単語)を書きこんでいちまいのカードにして、そのカードをたくさん作り、ランダムにそのカードを拾い集めて歌詞をつくる、(トランプのカードをシャッフルするようなことをカードで行いランダムにカードを取り出し、歌詞をつなぎ合わせ、一曲の歌詞を創造する方法)それがバロウズのカット・アップ手法だ、私は、この方法を用いて、アルバム「ダイヤモンド・ドッグス」あたりからこの方法で歌詞を作っている」とのボウイーのコメントも思い出した。
レナードが「イーノ的な作詞をしている」とか?「バロウズ的な手法(カット・アップ手法)を取り入れている」とか、我々は確認の術もないが、前にも書いたが、「ハレルヤ」の歌詞も、結局、我々は何もわからなくて、結局、我々が先入観なしで、感じたことを、素直に感じることが最良だ・・なるコメントをしたが、このフューチャーの歌詞をみて、その考えが間違っていないと思うことに私は確信が持てた。レナードの歌詞・・彼は、文人だとか小説家だとか詩人だとか言われるから、我々凡人は、彼の詞に何か深い深い意味を見つけようとするが、私は、逆だと思っている。レナードの歌詞は、むしろイーノやボウイーやバロウズに近いような気がする。意味がありそうでない・・我々を、騙して(言葉は悪いが・・)楽しんでいるのでは・・?と思う今日この頃である。
この曲の、キモも女性コーラスとの有機的なコラボレーションである。注意深く聞くことをお勧めする。そうすれば、1曲が万華鏡のような表情を醸し出し、永遠の芸術品となるのは必至であります。そして、韻を踏む・・そのような歌詞が目白押しである(この曲に限らないが・・)
"Dance Me To The End of Love" Leonard Cohen
http://www.youtube.com/watch?v=Ki9xcDs9jRk
この曲は、紹介済みの2曲とは色彩が異なる。あきらかに、悲しい曲、メランコリーな曲である。秋、落葉の季節に似合う曲である。ドラムもブラシ・・ギターもアコギになり、物悲しいヴァイオリンのメロディがさらに哀愁を呼ぶ。レナードの歌詞にもヴァイオリンなる言葉が登場する。
まず、レナードが独唱。そしてこの曲のキモ(女性バックコーラスはレナードの曲ではいつもキモではあるが・・)である、二人の女性コーラスの登場。それぞれ、前半は、大柄な女性とレナードがデュエット、中盤は小柄な女性とレナードがデュエット、それぞれ、ハモリではない、ユニゾンである(ユニゾンといってもオクターブ違うので、ハモリと言えばそうかもしれないが・・)。そして後半は3人でユニゾンで唄う。どんな内容かは、わからないが、誰しも男と女の悲しい物語の歌であることがわかるような曲である。・・こういった曲は、、ある程度、年食わないと、その良さがわからないかもしれない・・。若いころの自分なら、通りすがりの1曲になってしまうような曲かもしれない・・。この曲が出た当時、私は、ピーター・バラカンのホッパーズMTVで以下のビデオを観ていたが、スルーしていた。たぶん、1980年代前半であろう。
"Dance Me To The End of Love" Leonard Cohen
http://www.youtube.com/watch?v=7pA5UhNaYw0
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