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牧口は出口の弟で、戸田は牧口の甥で、創価が在日化したのは、アメリカがケツモチの池田からのようです。
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/553.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 11 月 28 日 16:45:47: 4sIKljvd9SgGs
 

なにゆゑ創價教育學會と大本教は彈壓されたのか 牧口常三郎と出口王仁三郎は腹違ひの兄弟だつた
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/392.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 11 月 27 日 03:26:06: yX4.ILg8Nhnko

(回答先: ~國日本の破壞・解體・乘つ取り工作の最終章  いよいよ一氣に動き出して來たね、女性・女系天皇問題が 投稿者 不動明 日時 2011 年 11 月 27 日 03:00:47)


 
 
 
 
天誅組(尊皇攘夷 壞滅)
 ↓
 ↓
大政奉還江戸幕府から大日本帝國へ
 ↓ ※ 北朝から僞南朝へ祕密裏に國體轉換
 ↓ ※ 朝鮮併合
 ↓
大日本皇道立教會(北朝系天皇再興)
 ↓ ※ 會長に天誅組首謀者・中山忠光の息子中山忠英が就任
 ↓
創價教育學會(戰前・中 北朝系 彈壓)
 ↓ ※ 破壞的佛教集團が國策に暗躍 謀略やテロ等を實行
 ↓ ※ 内鮮一體化政策 半島で喰ひ詰めた奴隷階級の白丁が内地に大量流入
 ↓
創價學會(戰中 北朝系 彈壓)
 ↓ ※ 日本宗教史上最大とも言はれる大本教に對する二度に亙る大彈壓
 ↓
大日本帝國敗戰からGHQ占領政策を經て日本國へ
 ↓ ※ 僞南朝系國體存續
 ↓ ※ 眞南朝系?熊澤天皇排除
 ↓ ※ 在日朝鮮人による日本間接代理統治政策
 ↓
創價學會(戰後 僞南朝系 破壞的佛教集團と朝鮮右翼及び朝鮮人による乘つ取り)
   ※ 學會内で多數派の皇室乘つ取り工作をしてゐる朝鮮系と破壞的佛教集團と
     創設當時からの少數派皇道精~の民族系と
     何にも解らないだだのロボツト集團で現在構成
 
 
 
 
 
 
 
 
  大日本帝國とは一體なんだつたのだらうか?
  有色人種による白色人種からの獨立鬪爭と云ふ面。
  有色人種による民族自決を結果として成し遂げたと云ふ一面は確かに存在した。
  然し、其れと同時に朝鮮併合から内鮮一體化政策によつて内地に朝鮮人を引き込み、
  日本民族を弱體化、破壞すると云ふ、尤も~國日本に仇なす組織として機能した存在
  と云ふ一面もまた、確かに存在した。
  (イスラエル十氏族
   かつての高句麗・新羅・百濟・伽耶が存在した古代の朝鮮半島なら
   いざ知らず、現在の朝鮮半島にゐる朝鮮民族はかつて彼の地にゐた
   民族とは明らかに違うにも拘らず其れをやらうとした
   現在の朝鮮半島の民族はワイ族ともエベンキ族とも云はれてゐる
   日本人とは全く違う人種で大陸や半島に住む人のDNA分布と
   日本列島に住む人のDNA分布を見ても其れは明らかになつてゐる
   寧ろ日本人のDNA分布はチベツト・ネパール・ブータンなど
   崑崙山脈の麓の地域や中近東のDNA分布に近い
   漢字の「日本」とは大いなる日出づる十字の國を表してゐる事と共に
   此れはシユメール人渡來説とイスラエル十氏族渡來説を科學的に補強する)
 
 
 
 
 
 
 
 
創價學會はそもそも北朝系天皇を支持する團體が母體であり戰後に勢力が二分したやうで
其の時にGHQの對日占領政策によつて日本間接代理支配の道具として
日本人の精~支配・洗腦支配の道具として創價學會を破壞的佛教カルトと朝鮮人に乘つ取られせたやうだ。

さうは言つてもデビ婦人の側も
北朝鮮が其の背後に居るは其の北朝鮮と創價學會と統一教會の關係も相當深い。
だうなんだらう、其處の所。
其れとも金正日は日本の特務機關の人間であり
北朝鮮と云ふ國はそもそも日本の傀儡國家だから良いんだと言ふ事でなんだらうか。
其れともまだ素人には窺い知れない更に奧に何か仕掛けがあるのだらうか。

どちらにしろ池田大作の病状とは密接に關はつてゐるだらう、此の一聯の動きは。
最早今後病状が囘復して第一線に立ち以前の影響力を行使する事は無いだらうし
後はただ死ぬのを待つばかりだらうから。
朝鮮人共は其れなりに動搖してゐるのは容易に想像はつく。
影響力の低下はまづ間違ひ無く、其れは即ち自分達の地位を危うくする事に繋がるのだから。

また、此處に石井紘基さん刺殺事件や一聯のオウム眞理教に關する事件も今後絡んで來るだらう。
今迄バラバラだつた個々の事象が一氣に繋がつて誰の目にも明かになつて來る日は近い。
其の過程で色々物騒な事が頻發する事もある程度覺悟しないとゐけないのかも知れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 その後、戦時下の昭和18年(1943年)7月に牧口常三郎は、治安維持法違反、並びに不敬罪容疑で逮捕、投獄され、翌昭和19年11月18日に獄中で死亡している。
 創価学会では牧口常三郎(他計21名も含む)の逮捕は、国家神道を精神的支柱として戦争を遂行しようとする軍部政府による思想統制、さらには皇大神宮の神札をまつるようにとの勧告に対する圧力と考えている。
 
 
 
 
 『大日本皇道立教会』の創設は大正元年(1911年/正式届け出は大正3年)のこと。その初代会長は中山忠英だった。中山忠英とは、天誅組首謀者・中山忠光の忘れ形見である。

 中山忠英が「大日本皇道立教会」の会長になったのは、彼が52歳(53歳説あり)のときだった。そして会長の下に会頭と副会頭を置いている。
 ちなみに初代会頭は土方久元・宮内大臣、83歳。副会頭は千家尊福・出雲大社宮司、73歳。
 ここで疑問が生まれなかったらおかしい。
 日本中の有名人を集合させた「大日本皇道立教会設立発起人」名簿。
 そして、会頭・副会頭として83歳の長老・宮内大臣に73歳の出雲大社宮司。
 彼らを押し退けて、名も地位もない中山忠英が、なぜトップの座に就いたのか?
 しかも「大日本皇道立教会」は、中山忠英以降、中山忠英以外には誰も会長の座に就くことがなかった。「大日本皇道立教会会長」というポストは、中山忠英だけのために用意されたものだったのだ。

この団体が南朝系だったとの説は、正直なところ疑問だらけで、どうしてそんな推測が出来上がったかは不明だ。ただ、もし仮に「大日本皇道立教会」が南朝系だったとして、なぜ「創価教育学会」のメンバーだけが逮捕され、秋月左都夫(皇道立教会副会頭・読売新聞社長)や児玉誉士夫は逮捕されなかったのか?
 ――まあ、正直なところ、推測をすることは自由だし、奇妙な推測がやがてとんでもない正解にたどり着くことだってある。この程度の推測なら、目鯨たてて非難することもないのかもしれない。
 なぜ牧口常三郎以下が逮捕、投獄されたのか。それは軍部政府による思想統制以外の何ものでもなかった。
 
 
 
 
 だがこの2代目・槇玄範には別の名があった。別の名というのもおかしい。本当の名だ。その名を上田吉松という。
 上田吉松のいちばん上の子が上田キ一郎(喜一郎)。の3番目の子が上田キ三郎(上田喜三郎)。キ三郎はその後、出口家に婿養子となり、出口王仁三郎と名乗るようになった人物である。
 上田吉松は大阪で笹川良一をつくった後、青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗ったのである。
 この物語を考えるときに、頭に入れておく必要がある「流れ」がある。京都府亀岡から大阪へ、そして青森県下北郡へと旅をした道筋だ。明確に言うなら、亀岡と東北を結ぶ日本海側ルートの問題である。遥か古代から連綿と、原日本人がもっていた東北と畿内との回路を想起してほしい。そしてもう一つ。上田一族のことだ。

■常三郎とキ三郎
 上田キ一郎、上田キ三郎の父・上田吉松。本紙『謎学の旅』に何度となく登場している皇道神秘主義の巨人。上田吉松は一般的には9人の子をつくったとされる。だがほんとうは9人どころではなかった。――英雄、色を好む。流石に皇道神秘主義の巨人だと感心しても良いのだが、どうやら上田吉松には何らかの目的があったようだ。目的があったからこそ、吉松は一生懸命に子供をつくった。
 また上田吉松は放浪癖があったとされるが、その放浪先は亀岡、京都市、大阪市から金沢、糸魚川、柏崎、新潟、酒田、秋田、青森だった。
 明治4年(1871年)7月12日、京都府亀岡で上田吉松の3男・上田キ三郎が誕生した。これより1カ月以上も前の明治4年6月6日に、新潟県柏崎市(柏崎県刈羽郡荒濱村)で双子の兄弟が誕生している。弟のほうは後の牧口常三郎。創価学会の初代会長だ。常三郎、キ三郎の二人――創価学会の初代会長と大本教の巨人は、腹違いの兄弟だったと考えられるのだ。
 そんなバカな話があるか! と叱られそうだ。この辺りを検討してみよう。
 牧口常三郎の戸籍上の父は渡邊長松。母はイ子(いね)。幼名・長七、後の常三郎は7歳のときに叔母(長松の妹)の嫁ぎ先である牧口善太夫の家に養子に出されている。
 養子に出された理由は、「父親不明のため」。
 ――実は、漁師として漁船に乗ることが多かった父・渡邊長松は、常三郎(長七)が生まれるずっと前から行方不明になっており、常三郎を生んだ直後に、イ子は行方不明の亭主と離婚している。つまり常三郎の本当の父は、戸籍からは把握することができない。
 牧口常三郎の本当の父は上田吉松なのではないかという噂は、初めから存在していた。イ子の亭主は行方不明であり、そのイ子と上田吉松が非常に親しい間柄で、二人でいるところをたびたび目撃されているからだ。――DNA鑑定など行われたわけではない。あくまでも噂でしかない。
 
 
 
 
さらに大正9年(1920年)に東京の西町尋常小学校校長だった当時49歳の常三郎は、20歳だった戸田甚一と出会っている。戸田甚一は常三郎に見込まれて西町尋常小学校の臨時代理教員に採用されたことになっているが、ここに不思議なつながりが見えてくる。
 戸田甚一。後に戸田城外、さらに戸田城聖と名を変え、創価学会第2代目の会長になったこの人物。父の名を逸見十郎太という。
 父・逸見十郎太は、明治4年(1871年)6月6日に、新潟県柏崎市(柏崎県刈羽郡荒濱村)で生まれている。戸籍上の父の名は渡邊長松。母はイ子(いね)。双子の兄として生まれた逸見十郎太は、7歳のときに石川県の逸見家に養子に出されていた。
 牧口常三郎の甥こそが戸田城聖だったのだ。
 

 

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コメント
 
01. 小路口不覺斎 2013年2月28日 09:55:45 : nxBYExswxr.nQ : fLCdm5i0qI
大体正確ですが、誤りがあるので訂正しておきます。
上田吉松は津軽藩主の娘に産ませた鬼一郎を(喜一郎ではない)初代槇玄範の養子に入れて3代目を継がせたのです。二代目は初代の子でしたが、いつの間にか消えています。明治初年に斗南藩士を救済した玄範は初代と三代目です。
上田はアマベですから、鬼の字を姓や名に就けます。九鬼・三鬼・鬼頭・鬼塚などのアマベ系のサンカの姓に鬼がつくのは周知です。
上田鬼三郎は本名ですが、出口ナヲの養子になるとき喜三郎と字を変えながら、音ではオニ三郎と称したのは、言霊信仰のためでしょう。
三代槇玄範の息子では映画監督川島庄三(字は不正確)が知られています。

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