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新井将敬 - 腐りきった東京地検
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誰もが知っている事実、新井将敬は多弁なために、消された。
新井将敬あんなことで死ななければならないのだろうか?在日韓国人の子で、東大卒の超エリート。 おそらく今まで誰にも負けたことがないぐらいの人だったのでしょう。 そんな気位の高い方が刑務所にはいるわけにはいかなかったのでしょう。 でも、佐川急便の時にはあんなに政治腐敗を糾弾していたあの方が、利益供与を強要したのでしょうか。
利益供与のつもりではなくても、政治家が直接一流証券会社へ口座を作れば、本人はそのつもりなくても、証券会社側としては損をさせるわけにはいかないと思うのは当たり前の話です。 当然利益供与が一般化されている社会のようですから、新井議員にその気がなくても、結果そうなるのは当然と言えば、当然のような気がします。
もし株を買うのであれば、自分の名前は出ないようにするのが、政治家の常識ではないのでしょうか。 アメリカと日本では風土が違うのですから。 尊敬する小泉先生はどう思われますでしょうか?
在日朝鮮人の家庭に生まれる(朝鮮名 朴景在)。 1966年に朝鮮籍から日本国に帰化。 「朝鮮籍」とは北朝鮮籍のことではない。 大阪府立北野高等学校から東京大学理科I類に入学するが、翌年東京大学文科I類に入学しなおす。 東京大学経済学部卒業後、一時、新日本製鐵に勤務。 その後、大蔵省に入る。
官僚としての経歴は、銀行局課長補佐を一時期務めた他は精彩に欠けるものであったが、当時、勢力の拡大を目指し若手官僚を取り込んでいた渡辺美智雄の目にとまり、1981年渡辺美智雄が大蔵大臣に就任すると、その秘書官に抜擢され活躍することになる。
この活躍の代表的なものが、証券界が渇望していた小口預金的商品「中期国債ファンド」の導入であり、銀行界及び銀行シンパの大蔵省同僚からの強い抵抗を押し切り、これに成功した。 このときの証券業界の幹事が日興証券(のちの日興コーディアル証券)であり、それ以来、両者の深い関係が始まり、後の事件へとつながる。
1983年の衆議院議員総選挙に東京2区から初出馬。 この時、対立候補だった石原慎太郎の公設第一秘書によって「北朝鮮から帰化」と誹謗中傷するシールを貼られ、選挙妨害で石原を告訴している(後に告訴取り下げ)。 1986年の衆議院議員総選挙で初当選。 以後4回当選する。
1990年代に政治改革が政局の焦点になると、改革派の若手論客としてテレビに出演し、脚光を浴びるようになる。 1993年(平成5年)の自由民主党の分裂では自民党に残るが、細川護煕の後継をめぐる渡辺美智雄擁立劇では、先行離党し、柿沢弘治、太田誠一らと自由党を結成する。 その後、新進党に合流するが、離党し、自民党に復党した。
一連の証券スキャンダルでの借名口座による株取引が問題化。 更に日興証券に利益要求していたと言う疑惑も浮かび上がる。 衆議院本会議で逮捕許諾が議決される直前に、真相が解明されないまま都内のホテルで首を吊って自ら命を断った。 部屋にはウイスキーの空き瓶が沢山落ちていた。 ただ自殺には諸説あり、他殺の可能性もないとはいえない。 山口節生は「新井将敬を殺したのは、他の政治家たちだ」と主張した。
1998年2月24日(火曜日) 21時59分 新井将敬の死の不可解
1998年2月19日午後12時過ぎに、日興證券とのあいだの不正取引で、その日逮捕の予定であった新井将敬代議士が「自殺」した。 「自殺」とカッコの中に書いたのは、きわめて不可解な点がいくつもあるからだ。
新聞の報道によると、新井氏の自殺の発見者は、新井夫人ということになっている。 外出して、午後1時5分にホテルの部屋に帰ってくると、通気口から浴衣の帯を使って首をつっていたという。 なんで、逮捕予定の日に限ってホテルなのか。 問題は、発見から2時間15分も警察に連絡がなされず(警察への連絡は3時20分)、現場の保全も行われなかったということである。 あれだけ多弁な人が、遺書を残さなかったということからも、この空白の時間に疑問が残る。
なぜそんなに時間が必要だったのか?
彼の死は病死でも事故死でもないから、可能性は他殺と自殺にある。 他殺の場合、証拠を隠滅する必要があるから、結構な時間が必要であろう。 空白の2時間15分も納得できる。 一方、自殺の場合、本来ならば即座に警察に連絡してもよさそうなものだ。 もし時間を空ける必要があるとすれば、現場に、警察に見られてはまずいものがあった、あるいは、ある可能性があったと考えるのが普通だろう。 この「みられてまずいもの」とは何か?それは、他の議員の不正を糾弾する文書であろう。
あれだけ多弁な人が、自殺という覚悟の死(前日の記者会見で「最後の」を連発していた)を選んだとすれば、遺書をまったく残さないというのはほとんど考えられない。 と、すれば、その遺書は始末されたか、あるいは、彼は死ぬ気はなかったのに消されたかのどちらかと考えるのが至極自然なように思える。
新井将敬は道半ばにして死んだ。 これで、この件についての捜査はほとんど終了すると言われている。 しかし、それはその死を無駄にすることに他ならない。 徹底した捜査が望まれるところである。
この事件での自殺者 - 何かおかしいと思わない方が不自然
宮崎 邦次 元第一勧業銀行 会長 1997年6月29日 東京の自宅 首吊り自殺
大月 洋一 大蔵省銀行局 金融取引管理官 1998年1月28日 東京の官舎 首吊り自殺
吉田 一雄 道路施設サービス 社長 1998年1月30日 首吊り自殺
新井 将敬 衆議院議員 1998年2月19日 東京・品川のホテル 首吊り自殺
杉山 吉男 大蔵省銀行局中小金融課 課長補佐 1998年3月12〜14日 自宅 首吊り自殺
鴨志田 孝之 日本銀行 理事 1998年5月1日 東京・板橋の分譲団地(実家) 首吊り自殺
おしまい
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