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毎日新聞 2011年6月10日 2時38分(最終更新 6月10日 3時20分)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/archive/news/2011/06/10/20110610k0000m040145000c.html
東日本大震災から3日後の3月14日午前、東京電力福島第1原発3号機原子炉建屋で水素爆発が起きた。菅直人首相ら政府首脳の協議は大激論となった。「避難指示を(半径20キロから)30キロ圏内まで広げるべきです」。内閣府原子力安全委員会側からの提案に、枝野幸男官房長官らは「30キロに拡大するのはいいが、屋内退避にとどめた方がいい」と反論した。
「30キロ避難」は大規模な避難計画の立案が必要になり、混乱する懸念があった。大勢の住民が避難中に再び爆発するリスクも考慮した。首相は枝野長官の主張を受け入れ、15日午前、「20〜30キロ屋内退避」を発表した。
「屋内退避はせいぜい数日で終わる」。だが、政府高官の希望的観測は後に覆される。
「SPEEDIを走らせてはどうか」。16日、福山哲郎官房副長官は内閣官房参与の小佐古敏荘(こさこ・としそう)東大大学院教授から助言を受けた。原発事故などの際、放射性物質の放出量と風向きから拡散地域と累積線量を予測。住民避難の切り札となるシステムだが、停電で初期データが入力されず、役立っていなかった。
原発の状態は悪化の一途をたどる一方、官邸は放射能汚染地域の全容を把握できずにいた。「現在の放射線量から逆算して予測図を出してほしい」。枝野長官はすぐに班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員長に要請したが、報告は震災から約2週間後。官邸に届いた「汚染図」は30キロ圏内の同心円から変形してアメーバ状に広がり、北西には大部分が30キロ圏外の福島県飯舘村のほぼ全域をのみ込んでいた。
飯舘村の放射線量の高さは官邸にも早くから届いていたが、「点から面」に広がった衝撃は大きかった。原発の爆発リスクを否定できないまま、次の一手を打てず、屋内退避はずるずると続いた。
◇自治体に不信感
長期化する屋内退避は予想外の混乱を招いた。避難指示地域も抱える南相馬市では「30キロ圏内も危ない」との風評が広がり、物流が滞り、市民が続々と避難。いったん受け入れた市外の避難者を2次避難させざるを得ない事態に発展した。
そんな中、国際原子力機関(IAEA)が30日、飯舘村の土壌からIAEAの避難基準の2倍の放射性物質を検出したと国際社会に向けて発表。日本政府は対応を迫られた。
飯舘村をどうやって「実質的な避難指示」に持ち込むか。着眼したのが、原発事故で緊急時に許容される被ばく量を「年間20〜100ミリシーベルト」と定める国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告だった。原子力安全委の指針は「50ミリシーベルト以上で避難指示」だが、広い地域が20〜40ミリシーベルトで覆われていた。官邸は国際基準へ切り替え避難指示の対象を最低ラインの「20ミリシーベルト」に引き下げた。
だが、飯舘村には唐突に映った。4月16日、住民説明会で「なぜ20ミリに下げたのか」と問い詰める菅野典雄村長に福山副長官は「原発が安定していない。専門家からの助言で設定した」と答えるのが精いっぱいだった。
政府内からは「経産省などから派遣された中央官僚が地方への対処に失敗した」と、避難をめぐる自治体とのあつれきを責任転嫁する声さえ聞かれた。
が、自治体の批判の矛先は政府に向いていた。飯舘村全域を避難対象とする「計画的避難区域」を正式決定し、屋内退避が解除されたのは22日。ある政府高官は悔やむ。「1カ月以上も屋内退避としたのは非常識だった」
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