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- <3,11に思うこと> — その1 —(宮崎学オフィシャルサイト)
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投稿者 七転八起 日時 2011 年 7 月 18 日 14:19:22: FjY83HydhgNT2
http://miyazakimanabu.com/2011/07/18/1084/
3,11に遭遇して、私は完全な思考停止に陥った。「3,11」という現実をどう捉えるのか、久しぶりに人様の書く文章をずいぶん読み漁りもしたが、イマイチ胸にストンと落ちるものは無かった。
そして、私的には「まず行動」という生来のあり方で、何か掴めるんじゃないかと考え、なんだかんだやってみたものの、今回ばかりは「まず行動」という「私の鉄則」は有効では無かった。
この思考停止傾向は今も尾を引いている。
こうした暗中模索、試行錯誤の中で、ほんの少しではあるが、そしてぼんやりではあるが見えてきたと思われることがある。
その「ぼんやり」について今回は書くこととした。
まず、「科学的であること」についての懐疑である。私は青春時代「資本主義から社会主義へと世界が移行するのは『科学』なんだ。」と某左翼前衛党の先輩から説明され、「なるほど」と思い込んだことがあった。その当時このように考えたのは私だけではなかったらしく、こんなこともあった。1960年代の後半、当時の東京教育大学(現在の筑波大学)の体育系のサークルが「根性」とか「努力」という部のモットーを「科学的練習、民主的運営」に変えたことがあったと記憶している。
つまり、科学的であったり、民主々義的であるという価値観が旧来の思考に取って代わるべきものだという信仰が、私の青春期の発想の原点になっていた。
さて、そこで原発問題を考えてみると、原発そのものは、科学的な技術の枠によってつくられ運営されてきた。そして、例えばその「説明」も科学的であるから「安全」なものだとされてきた。つまり科学的な装いがあるが故に、問題の本質に対する鋭角的な思考が鈍らされてしまったとは言えないだろうか。
そして今、私は、こんなことを考えるに至っている。人類がこの世界に誕生して以来、劇的にその有り様が変化した最初の出来事は、「火」を手にした時である。
「火」はなるほど便利なものであった。しかし、それは当時としては、否、今もなお、とんでもなく危険なものなのである。火をコントロールする宿命は、火を発見した人類が、その後背負うのである。
自らが切り開いた「もの」で、自らが苦しむことになる。この皮肉なサイクルを人類は永々と繰り返してきたのではないだろうか。
これは人類の「業」とでも言うべきものなのではないだろうか、まず、そんなことが見えて来た。
次に考えたことは「解体不可能なものをつくる」ということの持つ無機質な不気味さのことである。
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