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日本の倫理観はどのようにして形成されたのか
浄土真宗の善悪観に重ね合わされた鎌倉以降の武家法規2011.07.15(Fri) 伊東 乾 世界の中の日本 Tweet
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石山合戦図(ウィキペディア) この岩山ならぬ「石山」は、さらに外から大きな石が運びこまれ、元来が山の城のようなものであったものが、さらに徹底して武装したことで、「石山本願寺」とは名ばかりの、ほとんど日本最強の「城」となってしまいました。
ここで注意しなければならないのは「本願寺」が奉じる「浄土真宗」は仏教であって、政治的支配の単位ではないということです。
本願寺の門徒は近江の国にも三河の国にも加賀の国にもいる。能登にも尾張にも攝津にも河内にも和泉にもいます。さらに真宗は商業や工業、交易などを奨励します。
これらは産業資本のネットワークを形成し、税という形で取り立てをしなくても、財貨が集中するようになります。
信長が和議を申し込んだ相手とは?
ここにポイントがあります。つまり「政治支配を超えた政治支配」、既存の「国」という統治の単位を超えて浸潤していけるところに、浄土真宗ネットワークの強さの秘密があったわけです。
実はこれは西欧における「キリスト教」の役割と非常によく似ています(これについては次回以降に踏み込むことになります)。
天下の暴れん坊、織田信長はありとあらゆる敵を殺し尽くし焼き尽くしました。比叡山ですら焼き落とす無茶苦茶ぶりでしたが、当然ながらこの「スーパー宗教戦国大名」本願寺とも戦います。
そして、信長の「人生50年」という生涯の中でも、特にその後半では非常に珍しい「和議」を結ばざるを得ない、実質的な「敗戦」を喫することになるのです。
それが、本願寺との戦い、つまり浄土真宗対織田信長という異種格闘技戦の様相を呈した「石山合戦」でした。
石山合戦については次回もう一度お話しするとして、ここで大事なポイントは、信長の相手だった「戦国大名」が「宗教勢力」つまり「道徳」や「倫理」で束ねられた集団だったということです。
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