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プチ農業のすすめ
源氏と平家は百済系と新羅系の争い??
<< 作成日時 : 2010/02/06 14:45 >>
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源氏一門と平氏一門の戦いとして知られる「源平合戦」であるが
なぜか合戦絵巻の華麗さがばかりが残像として残っているのだが、どうも単純ではないらしい。
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治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、
平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。
、、、、、、、
しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。
この乱には熊野勢力や興福寺、園城寺などの寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、内乱前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に挙兵[1])や九州の在地豪族など源平という氏族に無縁の勢力も数多く蜂起している。
また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。
更に、平氏政権も頼朝政権も共に「院政の克服」という歴史的課題を背負い、その中から生じた政権であることなどから、歴史学上はこの呼称は適切とは言えず、年号を付して呼ぶ方が妥当であるとされる。
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、、、、などとされています。
それより遡り、第50代の桓武天皇(736-806)についてですが、、、、、、。
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白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済武寧王を祖とする渡来人末裔和氏(やまとうじ)の高野新笠である。当初は官僚として勤め、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された
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とあるように、「百済系の天皇」であることは理解できる。
※2010.02.07
この件ではアラディア さんのコメント欄も参照ください。
そして
桓武天皇の子孫から「桓武平氏」ができる。
その6代後の清和天皇のころには「清和源氏」がでてくる。
いずれも、皇子が関東地方に居住する朝鮮系の人を「武士団」として結集し、その棟梁となった。
そのときに、平氏は百済系が結集し、源氏は新羅系が結集した。
平氏も百済人も赤をシンボルとしている。
源氏も新羅も白色を愛している。
源氏の中には新羅三郎と言う名もみられる。
新羅系の人は、百済系人を「百済なる人=クダラナイ奴」といい、、。
百済系の人は、新羅系人を「シラジラしい、シラばくれる」、、、、。
などお互いに警戒していたといいます。
ここで、源平合戦は「百済系と新羅系」の戦いといえるのだ。
言ってしまえば、「クダラナイ奴とシラジラシイ奴」の戦いなんですが、そこまで言うと
不真面目になってしまうので注意しましょう。
※ただし、関東地方では、埼玉県には高麗郡という地名があったし、高麗川という地名で高麗神社がある。
飯能市の由来は「ハンナラ」、神奈川大磯の高来神社は「高句麗神社」であった。
群馬県の小暮さんは「コグリョ:高句麗」といわれているそうです、、、、。
新羅と高句麗の歴史は後に調べたい。
一方、大阪市生田区はかって百済郡と呼ばれ、平野川は百済川といわれていた。
枚方市には百済寺跡があり、百済王神社がある。
ここでは、「ある」というだけの情報にしたい。
その後、源氏に勝った北条氏は平氏
それを打倒した新田、足利は源氏
織田、豊臣は平氏
徳川は源氏
を名乗っていますから、、「クダラナイ奴とシラジラシイ奴」の戦いは続いたわけです。
、、、あ、また出てしまった。覚え易いフレーズってありますよね、、、、。注意!
この順番からすると次は「平氏」となりますが、、、、、、、、、、、。
ただそのころ、百済も新羅も滅びて、919年に北方の高麗王朝が
成立する。さらにモンゴルの「元帝国」の支配下に墜ちる。
1392年には、ようやくイソングにより独立ともいえる国号を「朝鮮」としています。
1592年には豊臣秀吉(平家)は、朝鮮出兵をしています。
軍の隊長には、浮田秀家、小西行長など先祖が朝鮮系が選ばれている、、、、。
韓国の歴史書では、源平から徳川までを百済系と新羅系の争いと見ているそうですが、、、、。
※2010.02.07追記 寺社に関するトラブルから推測、、、、、。
源平合戦のもと、清盛に関連して興味深い内容がある。
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平清盛(1118-1181)は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに安芸国厳島への社参を行った。
しかしこれは、代替わりに石清水八幡宮・賀茂神社へ社参するという慣例に反するものであり、園城寺・興福寺などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、治承4年(1180年)4月には以仁王(後白河の第2皇子)が平氏追討の令旨を発し、源頼政と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平氏軍は以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は平氏にとって地勢的に不利な京都からの遷都を目指して福原行幸を決行した。
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トラブルの原因となった宮島への参拝であるが
★石清水八幡宮は、15代応神天皇(ホムタワケノスメラミコト)270-310を祭っている。
源氏の氏神
★安芸国巌島(宮島)は33代推古天皇(トヨミケカシキヤヒメノスラメミコト)593-628の時代に建造された。
※38代天智天皇(中大兄皇子)の子の大友皇子、その子の大友与太王が「園城寺」を建立発願した。
※大友皇子は天武天皇(大海神皇子)との戦いに敗れて自害している。
これは
重要な意味合いをもつように思います、、、、、、、。
推古天皇は29代欽明天皇の皇女です。
※欽明天皇は、応神王朝の血筋、、、蘇我氏が擁立した、、、
欽明天皇(アメクニオシハルキヒロニハノスメラミコト)545-571は、一説に(新羅本紀)によると、金官加羅の王族であったとされる。
※欽明天皇が実質的な任那の末王であると断定する説がある。
欽明天皇の宮号の「金刺宮」については、その読みは「カナサシノミヤ」ではなく「カシハラ」と読む
金=kasi(カシ) 宮=palli(ハル) 駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである。
26代の継体天皇の後、27代安閑天皇は在位2年、宣化天皇が4年で崩御、そして29代が欽明天皇である。
そして、この時代に「仏教伝来」となるのである。
一説には、欽明天皇は駕洛国(加羅国)の仇衡王と同一人物であるという。
欽明天皇の和号は「天国排開広庭 アマクニオシハラキヒロニワ」らしい、、、、
これは、amekini-osi-para-ki-piro-ni-wa は、加羅国支配層の言語「ドラヴィダ語」では
天国(亀国)が敗れた首露王の城の大王 となる。
応神天皇は、
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実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われるが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。その年代は、『古事記』の干支崩年に従えば、4世紀後半となる。『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神天皇は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説がある。この実在の不確かさもあり、大王の実像をめぐっては諸説が出されてきた。応神天皇の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、三王朝交代説における征服王朝の創始者とする説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。また、日本国外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳天皇や履中天皇を比定する説もある)、「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。
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また、こんなことも
応神系の皇統は生まれながらに白髪であった。白髪別(シラガワケ)
応神王朝を支えた豪族達は、蘇我、葛城、羽田(波多)、平群、巨(許)、勢、紀などの氏族
これら豪族の連合、合体名が、武内宿禰(タケノウチスクネ)で244年間生きたことになっている。
といいます。
★応神天皇の時代は未だ仏教は伝来していない。
★欽明天皇の時代に仏教が伝来する。
※ホトケは552に百済から、、、、。
物部氏(日輪信仰、ヤマト地方の豪族で新羅系と推測される)と
蘇我氏(百済系といわれている)はご存知、仏教を巡り推進派と廃仏派で敵対関係である。
そうすると、ここでは、
物部氏=新羅 × 蘇我氏=百済の敵対関係となる。
中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害し、政権を樹立するのは、645年
661年には、百済を攻める新羅征伐のために天智天皇は出兵をしているが「白村江で大敗」する。
そして※663年:百済滅亡
※2010.02.08追記
★東アジア(紅白)大戦争★
白村江(ハクソンコウ)の戦い(唐、新羅連合 x 倭、百済連合)
-----Wikipedia-------------------
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と陸の会戦のことである。
この戦いは、唐・新羅連合軍の大勝利に終わった。大陸に超大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。この敗戦により領土こそ取られなかったものの、倭国の国防体制・政治体制の変革が起きた。この結果、倭国から日本に脱皮するようになるなどの、大きな影響を日本にもたらした。
戦力
唐軍 7,000人
唐船舶 170余隻
新羅軍 5,000人
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倭国軍 42,000人
倭国船舶 800余隻
百済軍 5,000人
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損害
新羅連合
不明(倭国・百済連合軍の被害よりは小規模)
百済連合
船舶 400隻、兵 10,000人、馬 1,000頭
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無理な作戦を強行しての大敗北である。
このことからも百済と倭の大王とが親密な関係であることは理解できる。
つまり、国内の百済系と新羅系の戦いは、、、半島でも百済と新羅の戦いとなっている。
※一説に蝦夷捕虜を兵士にしたてた計画的な敗戦という説がある。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-43.html
終戦後に唐の軍事高官が、博多沖に派遣されてくる。(マッカーサー?)
直後に天智天皇が崩御する。
朝廷はこの高官「郭務ソウ」に鎧、甲、弓矢を贈るとともに、ふとぎぬ1673匹、布2852端、綿666斤を贈っている。
「もう-ごめんなさい」、、、、、、なんでしょうか?
当時の敗戦処理が見える
なにがあったのか?
※参考
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c126-1.html
※歴史のウラウラ
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub.html
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