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起きて半畳(2006.06.29)
「起きて半畳、寝て一畳」という諺には下の句があって、「天下取っても二合半」と続くらしい。これを知って以来、吾輩はすっかり下の句のほうが気に入っている。「二合半」とは、むろん飯の量だ。今の感覚で「一日分だろう」と解釈してはいけない。昔は大飯食らいを「一升飯」と言ったほどだから、当然、一食分である。茶碗で四、五杯だ。
栄華を極めた天下人といえども、死ぬときは体一つと考えれば、モノを所有することなど塵芥(ちり・あくた)、夢幻(ゆめ・まぼろし)に過ぎない。五十代後半に差しかかって、そんな気持ちが強くなり、吾輩はこんな記事を書いた。
家財道具(2003.09.25「偏西風」)
人生を春夏秋冬にたとえれば、そろそろ冬支度をする年齢になった。必要最小限なものだけを残し、簡素な生活をしたいと思う。
そういう目でわが家を見渡せば、不要なものだらけだ。もっとも、家人はそうは考えていないようで、捨てろと言うと、あれこれ抗弁する。
加藤秀俊著『暮らしの世相史』(中公新書)によると、明治時代の庶民の家財道具は百数十点に過ぎなかったという。大きな物といえば、せいぜい和箪笥ぐらいだ。それは昭和初期まで変わらなかった。
「室内に置いたり、あるいは露出している『家財道具』は日本の生活文化のなかでは最低に抑制され、ただ畳の床だけがひろびろと開放されていたのだ」
それが今や、室内は家財道具に占領され、そのすき間で人間が生活する始末。平均的家族が所有する生活財は、10年前のデータで1643品目、と同書は記している。
明治や昭和初期の生活は無理だとしても、電化製品がやっと普及し始めた昭和30年代の暮らしだったら、もう一度、戻ってみたい。それが老後の理想でもある。
で、吾輩が何を捨てたかというと、まず車。「アウディ80クワトロ」というフルタイム四輪駆動車を2001年秋に手放した。この車は、小倉に勤務していた90年に中古で買った。まだ十分に走る状態だったから、知り合いの自動車修理業者に引き取り手を捜してもらったが、うまく見つからなかった。スクラップにされたかと思うと、可哀想ではあった。
それと前後してオートバイ2台。車のなかった87年から90年まで乗り、その後はわが家の倉庫に眠っていた「カワサキZ650」と、鹿児島時代に支局員の知り合いから譲り受けた「BMW K100−RS」だ。通りかかった回収車に引き取ってもらった。どちらも値打ちもののはずなのに、評価はゼロ円。「それならやめた」と言いたいところを、物欲を捨て去るためだ、と我慢した。あとで、下の娘の高校剣道部の先輩だった男子学生が「僕が欲しかった」と惜しがったそうだ。それならダメモトで意思表示ぐらいしておくもんだ。
あとは、最初に買ったIBMのデスクトップ型パソコン。ノートパソコンを持っていたから、場所を取るのが邪魔だった。同年暮れ、PCラックやプリンターともどもパソコンショップに持ち込んだ。
以後、家の中に押し込んであった不用品を次々に捨て、身の回りはずいぶんすっきりした。勢いに任せて、77年にコニカが売り出した世界初のオートフォーカス(自動焦点)カメラ「ジャスピンコニカ」まで捨てたのはいささか悔やまれる。
最後に今年3月、携帯電話を捨てた。2003年春に新聞社が貸与制度をやめるとき「連絡に必要なら、ポケベルをくれ」と抵抗したのだが、「そういう制度はもうありません」と却下され、仕方なく持っていた。退職してからは、月に数回の通話に3900円払うのが馬鹿らしくなった。
と言いながら、いまだに捨てられないのが、書庫いっぱいの本と新聞記事の切り抜きだ。ときどき選別を思い立ってみても、すぐに決意が鈍る。それと、子どものころの漫画雑誌、教科書、ノート、図画など。これは、この歳まで持っていたのだから、今さら捨てられない。
という次第で、「寝て一畳」にはまだまだほど遠い暮らしを続けている。
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