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★★★★★★★★★★…・も・く・じ…・★★★★★★★★★★
1.発行者挨拶 『 ペルーへの日本移民!』
2.更新内容
3.西語のことわざ『 Pensar desapacio ,Obrar rapido 』
4.終わりの挨拶 『 無念!!風邪に倒れる 』
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□ 1 発行者挨拶 『 ペルーへの日本移民!! 』
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みなさん。こんにちは。
「 南米情報ムーチャスエルテ 」
http://www.mucha-suerte.com
の管理人の坂本英則です。
今回は日本人のペルーの移民の話をしていきたいと思います。
ペルーに日本の移民が多いことは
フジモリ氏がペルーの大統領になったことで
知られています。
アメリカのような新しい国なら
インディアン以外はみんな移民なので
移民が大統領になるのは当たり前ですが、
ペルーのような文明の始まりが
紀元前1000年以上前の国で
1899年の日本からの移民を皮切りに
100年も歴史を持たない移民の日系人が
大統領になったという事実に非常に
私は驚きます。
しかも、フジモリ大統領は買収のスキャンダルで
2001年に失脚しましたが、
ペルー内での人気は非常に高いです。
それは私が日本人だから、
人気が高いように感じてしまうのかもしれません。
また、人間というのは政治というのを
他人のせいにしてしまうところがあるので、
現在のトレード政権不人気のために
フジモリ氏をもう一度ペルーの
大統領にという声が聞かれるのかもしれません。
ということで、今回は大統領まで
出した日本のペルー移民について
話していこうと思います。
話の内容はペルーのリマにある
平岡千代照日本人移民史料館のものを
まとめたものです。
平岡さんは史料館の受付によると
もうかなりの高齢だそうです。
そしてリマ市内に輸入電化製品のお店を
三店舗持っているとのことでした。
私はその店舗のひとつで
PRO TREKというCASIOの時計を買いました。
やはり文化事業にがんばっている方には
好感を持つので、何かしら貢献できて良かったと思います。
時計一個では貢献になっていないというのが事実でしょうが(笑)
まず日本とペルーが交流を持つ
きっかけとなったのは大航海時代の新大陸の発見です。
1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見
1521年にはエルナン・コルテスのメキシコのアステカ征服
1532年にはフランシスコ・ピサロが
ペルーのインカを征服しました。
1543年に日本への航路を開いたのはモタという人です。
世界の航路を発見したスペイン人は
16世紀後半にフィリピンのマニラと
メキシコのアカプルコに定期船を開きました。
日本はマニラと貿易をしていたので
マニラを経由して、メキシコのアカプルコや
ペルーのカジャオと接触を持ちました。
そのことから16世紀、17世紀の昔に
ペルーに行って生活をした日本人の
史料が見つかっているそうです。
・・・ 【 16世紀後半のスペインの航路 】・・・
(長崎)
| |
| |
(マカオ) | 《太平洋》
| | →→→→→→→→
| (マニラ) ←←←←←←←(アカプルコ) 《メキシコ》
| 《フィリピン》 |
| |
←(インド洋航路=ゴアへ) (パナマ) →【スペインへ】→
| |
| |
|(グアヤキル)
《エクアドル》
| |
| |
(カジャオ) 《ペルー》
|
|
(バルパライソ) 《チリ》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かなりひどい略図ですが、太平洋に
スペイン人が航路を持っていたことがわかると思います。
スペイン人は左回りではパナマ、
右回りではインドのゴアを通る世界航路を持っていました。
日本の長崎からフィリピンのマニラ、
そして、メキシコのアカプルコを通って
ペルーのカジャオに航路が開かれていたわけです。
ペルーについての日本人の記述は
1708年のJOKEN NISHIKAWAという
いう人のものが残っています
・・・・・・・・
ペルウ國
太國ニテ熱國ナリ人間ノ風俗賤し土地肥饒ニシテ
草木五穀テ上品ナリ鳥獣ノ毛ナル甚だ多シ
土地金銀多シトゾ此・・・・・・
・・・・・・・
このような感じで続きます。
日本語で書かれていたのですが、、
昔の日本語なので
読みづらくてしょうがありませんでした(笑)
意味はなんとなく分かるのですが、
まるで中国語を読んでいるようなかんじだったので
横のスペイン語を日本語に訳しました。
スペイン語や英語は何百年も変化がなかったのでしょうが、
日本語の変化は甚だしいです。
江戸時代の人と私は話しができるのでしょうか(笑)
・・・・・日本語訳・・・・・・・
この国は熱帯の広大な土地である
人々は大変不安定な生活をしている。
土地は肥沃で品質の良い野菜や豆が大量になる。
動物は非常にエキゾティックで
美しい羽を持った鳥が生息している。
またこの国には金銀が豊富にある。
雨が全くといっていいほど降らない地域があり
そこでは、地下水を利用している。
海岸では石油が自然に湧き出し
それを火に使っている。
バルサムと呼ばれる木の樹脂があり
それは非常に香りがよく、
切り傷に非常に良く、また死体に塗ると
1000年以上保存が効くという。
またこの国では薪を地下から採っている。
アンデスの平原でよく採れるとのことである。
また地震が非常に多く、地滑りがよく起こり、
洪水が起こる。
したがって、高い建物は作ることはできない。
王の宮殿は金銀で覆われており、
非常に美しい。
この国は文字を持たず、情報を記入するのに
縄の結び目を利用している。
彼らは非常に誠実で欲というものを持たない。
毒蛇が多いことから、人々はハンモックで寝る。
鉄を知らないことから、武器は石を削ったり、木を
焼いたりして作る。
この国の言葉はまるで中国語に似ている。
アクセントがあり、リズムがあるからだ。
・・・・・・・・・・
このようなかんじで書かれていましたが
1700年前半のものなのに
インカ帝国の話になっているではないかと
私は思いました(笑)
この人が新聞にこのようなものを書いたのか
紀行文にして売り出したのか、
殿様に献上する話として書いたのかは
知りませんが、事実を確かめる方法はないので
昔の人の驚くようなことを書いているのでしょう。
または、昔の日本語をスペイン語に
時制を間違えて書いたのかもしれません。
一番の問題は昔の言葉を私が読む気がしないところに
あります。
とにかく、ペルーとすでに何かしらの交流があったことが
明らかです。
また1612年の4月28日付のフワン・デル・コラルという方の
の遺書にリマ市の石の橋の建設において、四人の中国人インディオと
ひとりの日本人が働いていたこととあります。
その名はフェリペ・マタ、ディエゴ・チョア、アンドレス・ヤゴタン、
バルトロメ・ギダル、アロンソ・レアル。
日本人ミゲル・デ・シルバ。
移民という形ではないですが
すでにペルーに渡っていた日本人が400年前に
いたことになります。
ペルーは1821年のスペインからの独立で
外の世界に目を開きます。日本は江戸時代鎖国状態でしたが、
大政奉還の後、1868年に開国します。
ペルー大統領MANUEL PADROは
1872年の6月に起きたマリア・ルス号事件の
解決のために特命全権公使アウレリオ・ガルシア・イ・ガルシアを
東京に送ります。
ガルシア公使は明治天皇に謁見し、
日本外務省と交渉を重ねて、
1873年にペルーは日本政府と修好通商航海仮条約を結びます。
こうして、ペルーはラテンアメリカの中で
日本と初めて外交関係を持つ国となりました。
これが正式に日本人移民をペルーに受け入れる
きっかけになりました。
1867年に日本人移民がハワイに渡っています。
これが日本人初の移民ではないかと思います。
【 19世紀後半の日本とペルー 】
1868年に明治政府が成立し、日本は急速に
近代化の道を歩みました。
民族資本が形成され、産業化が進みましたが、
経済発展のかげでは
農村地帯に貧困や不況の問題が起こりました。
同じころ、ペルーではチリとの戦争の直後
イギリス資本の投入が始まり、
鉱山の開発や海岸地方の大農園に対する投資が
盛んになりました。
それに伴い綿・砂糖などの世界市場むけの作物を作るそれらの農園では
新しい効率的な労働力が必要となりました。
1890年代になって
主に海岸の砂糖製造の大農園が
日本人の優秀な労働者の導入に関心を示しはじめたました。
日本の移住斡旋会社森岡商会は、
代理人田中貞吉をペルーに送って、
同国製糖業者組合代表フェルナンド・ソリアと
契約を結ばせ、同商会のあっせんで
790人の日本人が、第一回ペルー移民として
1899年に佐倉丸でカジャオ港に到着しました。
1920年までに67回の航海が行われ
15000人を超える日本人がペルーに渡りました。
田中貞吉とフェルナンド・ソリアの
契約者の一部にこのようなものがあります。
・移民の年齢は20歳から45歳までとする
・移民の契約期間は4ヵ年とする
・農園での労働に対する給料は1月2ポンド10シリング(約25円)
・農園主は労働者一人につき英貨10ポンドを支払うこと。
この額は移民の募集費、船賃、種痘料、航海中の医薬その他
いっさいのためのものである。
100年前の25円か、現在のいくらに相当するかは
私には分かりません。
しかし、出稼ぎにいきたくなるくらいの
お金の単位であったのでしょう。
移民という形でペルーに渡りますが、
はじめは出稼ぎという気持ちで
ペルーに渡航したのではないかと思います。
しかし、実態は奴隷のような扱いであったのでは
ないかと思います。
1899年から1914年まで約7800人の移民が
ペルーに渡りました、九州、山陰、沖縄出身の
方が多かったようです。
20世紀初頭は移民たちはリマに集中しました。
【 1907年に日本公使館の設立されました 】
移住がはじまってまもなく、
1907年に日本政府は領事をリマにおきました。
公使は在メキシコ、在チリ公使の兼任でした。
しかし、移住者の数も増えて
日本とペルーの関係も密になってきたので、
1921年の12月22日に公使館が開設され、
初代特命全権公使として清水精三郎が赴任しました。
【 1910年日本人組織の結成 】
在留日本人の数が増えてくるにつれ
相互の補助、親睦のための
組織の必要が感じられはじめ
1910年に日本人同士会
(のち日本人会と改称)や
1912年10月に発足した日本人協会などが
設立されこれに応えました。
さらに1917年になると
様々な日本人組織を包括する
ペルー中央日本人会が設立されました。
【 1918年には邦字新聞が発行されるようになりました 】
1918年には日本語の新聞
アンデス時報が発行されるようになりました。
【 1920年には日本人学校が設立されました 】
日本人移住者の子弟が増えるにしたがって、
教育への関心が高まり
1920年11月にリマ日本人小学校が
開かれ、チャンカイ、バラモンガ、 チンチャ、
イカ、トルヒージョなどにも続々と日本人学校が
建てられました。
1927年には全ペルーの日本人学校を網羅した組織
ペルー教育連盟会が結成されました。
それでは1923年当時移民たちがどのような
仕事についていたかというデータがあったので
それを載せてみます。
【 1923年の移民の仕事 】
全19職種
農業 811
農業労働者 677
鍛冶職 12
飲料品製造 58
理髪業 628
大工・石工 182
製糖工場労働 229
菓子商 164
飲料品販売 100
日用雑貨販売 557
古物商 80
店員・事務員 863
飲食店 434
行商 33
船舶従業者 33
教育関係 4
新聞関係 26
家事使用人 394
都市労働者 60
【 合計 】 5345
3割が農業、
3割が商品販売、
1割が理髪業、
というのが大きく目立つ職種でしょうか。
1930年代には移民は2万人を超えて
6割はリマ・カジャオで商業・サービス業を
営んでいました。
それから都市化の弊害が心配されて
農業回帰の動きが起こりました。
沖縄県人会が組織した太陽農業会社や
中央日本人会が中心となって作った
拓殖組合の経営するプニサス植民地などが
作られました。
【 第二次世界大戦 】
1941年の12月8日のパールハーバー攻撃により
日本とペルーは敵国となり、
移民は数々の苦渋を味わったそうです。
パナマでは日本人、イタリア人、ドイツ人移民の
逮捕命令までが発せられたそうです。
移民たちは本国の影響を免れることはできなかったでしょう。
そこには数々のドラマが存在したと思います。
それでは次回はそのドラマについて紹介していこうと
思います。と終わりたいのですが
そのような取材はしていません(涙)
取材をしっかりすればよかったと今になって
後悔しています。
今回もたいしたことは書けませんでしたが
以上です。
今回はペルーは終了します。
次回からはアルゼンチンです。
次回お楽しみに!!
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□ 2『 ホームページの更新内容 』
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今回のホームページの更新内容です。
★☆★ 何でも南米 ★☆★
【 気合の呼び込み 】
www.mucha-suerte.com/cultura02/yobikomi01.html#top
★☆★ 何でも南米 ★☆★
【 100%ジュース 】
www.mucha-suerte.com/cultura02/jugo01.html#top
★☆★ 南米の文化 ★☆★
【 糸を紡ぐ女性 】
www.mucha-suerte.com/cultura/tejido01.html#top
★☆★ 南米の文化 ★☆★
【 聖者への願い 】
www.mucha-suerte.com/cultura/pedida01.html#top
★☆★ 南米の文化 ★☆★
【 アレキパの踊り 】
www.mucha-suerte.com/cultura/baila_arequipa01.html#top
★☆★ 南米の文化 ★☆★
【 織物の伝統 】
www.mucha-suerte.com/cultura/tejido02.html#top
★☆★ 南米の文化 ★☆★
【 アンデスの踊り 】
www.mucha-suerte.com/cultura/baila_andes01.html#top
★☆★ 南米旅の写真館 ★☆★
【 クンベマヨ1 】
www.mucha-suerte.com/photo/cumbemayo01.html#top
【 クンベマヨ2 】
www.mucha-suerte.com/photo/cumbemayo02.html#top
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□ 3 西語のことわざ『 Pensar desapacio ,Obrar rapido 』
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これを直訳すると
「 考えるのはゆっくりと、行動は迅速に 」
となります。
このことは実体験的に思います。
ホームーページ作成でいつも思います。
私のホームページはほとんどフレームという
のを使っていません。フレームというのは
1ページに2ページ以上を同時に見せる方法です。
【 普通のホームページ 】
1ページに一枚
ページA
・・・・・・・・
・ ・
・ 0 ・
・ ・
・ ・
・・・・・・・・
【 フレーム機能を使ったホームページ 】
1ページに二枚
ページB
・・・・・・・・
・ 1 ・
・・・・・・・・
・ ・
・ 2 ・
・・・・・・・・
ページC
・・・・・・・・
・ 1 ・
・・・・・・・・
・ ・
・ 3 ・
・・・・・・・・
1は同じもの
フレームを使うことによって、
複数ページにわたって同じ箇所を訂正する必要があるものが
1ページを直すことによって、すべてのページに
訂正を加えることができます。
1を訂正することで、BとCの両方の
ページを訂正したことになります。
私はデザインを優先してフレームをほとんど使っていないのため
フレーム機能を使えば簡単な作業を
かなりの時間をかけてやっています。
今考えるとデザインも大切だけれど
時間もかなり貴重ですから
フレームを使って一番綺麗に見えるデザインを考えたら
よかったのではないかと思うときもあります。
はじめにどのようにでも対応できる
ページ作りとういのを考えるべきであったと
思うことがよくあります。
やはりゆっくりと考えることも重要だと思います。
もちろんこのことわざの大切なこともありますが、
よく考えて、準備をしておくことが大切かもしれません。
行動は迅速にとあるように
チャンスはほんの一瞬であることが多いように感じます。
もちろんチャンスと思ったら、それがチャンスではなく
落とし穴だったことも経験的によくあります。
ただ、リスクがなくしてリターンはないですから
いつでも準備は必要です。
また考えるのも重要ですが、
いろいろ考えると頭が混乱するので
ひとつひとつ片付けていくことも重要かもしれません。
私もよくやらなくてはいけないことが
大量になり訳のわからなくなることがあります。
そういう時はどうするか?
寝るに限ります(笑)
まあ、これは嘘で、寝ていると仕事が益々増えていってしまうので
優先順位でどうしてもというものから優先的にやるようにしています。
また簡単にできることをどんどんこなしていくようにしています。
やらなくていけないことが減ると肩の力が抜けてか
仕事が順調に進みます。
また私は仕事が一番調子がよく感じるのはおきた後です。
起きたあとの2時間、3時間が一番頭が冴えているように感じます。
( 冴えない頭の限界点までですけど )
宇宙誕生から200億年
地球誕生から46億年
生命の誕生から40億年
人間が誕生してから50万年
( 期間についてはだいたいということでご了承ください )
私たち人間にとって電気の光が一般的に
使われるようになって
100年も経過したでしょうか。
きっとわれわれの祖先は
日が登る前に起き、基本的には
農作業を始めていたと思います。
そして、日が沈むと眠るといった生活でしょうか。
人工的な光というものを使うようになってから100年と
考えても、人間の誕生してから50万年と仮定すると
100年は人類の歴史のたったの、5000分の1でしかありません。
25才間隔で一代子孫が生まれたと仮定すると
100年間で4世代です。
50万年というと、2万世代遡ることができます。
きっとDNAの影響もあるでしょうから、
今までの働いていた時間帯に
DNAは力を出そうとするでしょう。
独りよがりの理屈ですが、
私はこのような理由から起き立てに
仕事をやると進むという実感があります。
創作などはまた違う時間でもよいと思っています。
それでは、話は完全に脱線しましたが
以上です。
次回お楽しみに!!
それでは、失礼します。
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□ 4 終わりの挨拶 『 無念!!風邪に倒れる 』
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みなさま。こんにちは。
坂本英則です。
日本時間でも4月7日、ブラジルのサンパウロでも4月7日、
私がいる現地時間の午前11時ごろであった。
私は三度目の正直ならず、四度目の正直で
なんとか、ネットカフェでメールマガジンと
ホームページの更新を終わらせた。
ブラジル、なぜこんなにネットカフェが少ないのだ。
日本人のように
皆がパソコンを持っているのだろうか。
よくわからない。
40台近くパソコンはあるのに、なぜかCD-ROMが使える
パソコンが1台しかないネットカフェの
その一台に座るのには根気が必要だった。
夜に行くと、従業員が銃で人を殺し合うゲームを
その貴重な一台でネットカフェ内の他の
仲間とやっているため、
客にはその席は回ってこない ( なんでやねん!! )
ブラジルの若者たち悲鳴が閑散としたネットカフェに響く。
そんな若者たちの悲鳴を聞いていると
俺はなんのために、こんな夜遅くに危険も省みず
15分も歩いてこんなところまできたのだろうと
無力感に襲われる。
世の中は自分中心には回っていないので
まあ、このくらいでくじけはしないが
士気の低下は避けられない。
朝か昼にいったら、いったで
何かしら書類を作る作業を
やっている人がいたりしてなかなか席が空くことがない。
ちなみに、フロッピーディスクはすべてのパソコンについてはいるもの
ほとんどのフロッピーディスクの挿入口にテープがしてあり
4台しかフロッピーディスクを使えるところはない。
セキュリティーとか、耐久性とか考えているのだろうが
あまり客のことを考えていないネットカフェではあるが、
他のネットカフェまで行くには地下鉄に乗って
30分以上かかるので
面倒くさい。
そのような悪環境でのアップが
成功して私は嬉しさを感じるはずであったが、
すでに出来上がっているページを次回来た時に
貴重な一台が空いており、
アップできるかどうか不安に感じていた。
インターネットという世界をつなぐツールを
部屋に持っていないというのは
非常に不便なことだ。
インターネットさえ部屋にあれば!!
もっとこうできると・・・
いつも思うのだが、インターネットの力を買い被っているいるだけだろう。
まあ、とにかくネット屋は地下にあるから
すでに地下からタバコに火を点けた。
ネットカフェに来る前から部屋で煙が上っていない時間は
ないから、すでに惰性で火を点けているだけで
仕事後のおいしさなど全くしない。
金が入ってくるわけではないから仕事でないし(笑)
煩雑に溜まりに溜まっているアップしなくてはならない
量を考えると気が重くなった。
まあ、とにかく部屋に戻って
浸けていた洗濯物をゆすいで
窓に干した。
洗濯物がよく乾くようにと
窓を開けたまま生まれたままの一糸まとわぬ姿で(笑)
ベットの上に横たわっていた。
ふと目が覚ますと日はすでに暮れていた。
いつの間にか裸のまま寝てしまったらしい。
ベットから起き上がろうと思ったが
右腕のひじの近くの関節が痛む。
のどが渇ききり、咳が連続して
出て、のどをいじめる。
しかも、頭がくらくらする。
額と胸を触るといつもは冷やかに感じる
皮膚が燃えるように熱い。
トイレに行くためになんとか立ち上がったが
歩くのもままならむ状態だった。
体は熱いがなぜかひどい寒気を感じる。
汗が流れてとまらない。
とにかく、寒いのでタートルネックの
シャツを着てジーンズを穿いて
ベッドに横になった。
何もできず、2日間汗をかいたら
シャツを交換するという作業だけをしていた。
ラッキーだったのは、このホテルは
朝食尽きで従業員が朝食を部屋に持ってきてくれることだった。
朝食のバナナは現在では安くなりすぎて
価値がないように感じるバナナの
本来の力を私に感じさせた。
一緒にくるコーヒーなどは口にできなかった。
水分は買い置きの水を飲んでいた。
汗をこれだけかけばよくなっていくに違いないと
思いきやなかなかよくならなかった。
ベットの中から見る部屋の壁の塗装は
いつもは手形や、水分の滴りのような
染みが目立つ綺麗とはいえないものであったが、
病気中にベットから見る壁は
真っ白く優雅に見え、雲の上の城の一室にいるように感じた。
3日目の朝にはかなり調子が良くなった。
といっても、大量に噴出すように汗がでなくなっただけで
体は非常にだるく、熱があり、
のどの痛みは咳とともに私を
苦しめた。
薬局にいって、注射を打ってもらうことにした。
風邪薬とペニシリンともう一本何かを
入れた3本ミックスの推定長さ10センチ、直径3センチの
極太の注射器を、日系人のおばちゃんが
「 は〜い。腕には大きすぎるのでお尻に打ちますね。 」
と淡々と話を進めている。
白髪でどこを見ているか分からない目つき
やはりかなりのベテランである。
注射器の針から、天に向かって
注射液がピュ・ピュッと飛沫を上げている。
汚いお尻を見せたくてはないと思ったが
「 マイッチング 」と訳のわからないことを
心の中でつぶやいた。
ジーンズとトランクスを
同時にずり下ろし、俗にいう半ケツ状態で
極太注射が俺の二つに割れた
桃ちゃんに入ってくるのを待った。
「 やさしくて〜 」と
目を閉じながら言おうと思う直前であった。
「 痛いですよ〜 」と
分かりきったことをおばちゃんはつぶやき
俺の桃ちゃんにぶっといのを入れてきた。
「 う・う・う〜ん 」 ・・・悶絶・・・
首がキリンになるんじゃないかと思うくらい
頭が前にでた。
目は片方が四角、もう片方が丸と
クンツルワシ遺跡の石像状態になっていた。
「 ジーザス!! 昇天 」
といったか、いわないかと
定かではないが、
口をポカーンと開きながら
声にならない言葉を発しながら
天井に向かって体が伸びていくのがわかった。
「 はい。行きます。」
とおばさんは淡々とつぶやき、
注射器の液をエイヤーと勢いよく
桃ちゃんの中に放った。
「 宇宙が!! 」
「 世界が!! 」
「 ケツが!!!!!! 」
とにかく痛かった。
「 終わりました。 」
おばちゃんはつぶやき
桃ちゃんに小さいバンドエイドのようなものを
貼ってくれた。
「 ケツいてえ 」
と第一声を言いかけたが
さすがに20代後半の日本人男児
「 ありがとうございました。 」
ウサギのように赤くなった
目をキラキラとさせて
おばちゃんに礼をいうのだった。
「 夕方にはだいぶよくなりますよ。」
「 明日もまた同じ注射打ちますからまたきてください。
今流行っている風邪は大変悪いもので、すぐぶり返すので
完全に治しますから。」
ということで、次の日は
もう片方の桃ちゃんが極太の犠牲になりました。
注射のおかげか、風邪をひいてから5日たった今は
鼻がちょっとグシュグシュするくらいで
完全回復までもう一歩というところです。
しかし、風邪の治りとともに
新しい痛みが生まれました。
桃ちゃんが両方とも局部的に硬くなってしまって
痛むのです( ティリリー )
とにかく、何年かぶりに風邪をひきました。
ここまで強力な風邪は
初めてかもしれません。
これはかなり悪性のインフルエンザだと思います。
とにかく人生で最悪の誕生日でした(笑)
健康体からいきなり風邪に倒れました。
健康だからと油断してはいけないと
今回は思いました。
ブラジルのサンパウロは標高が700メートルあるので
昼と夜の温度差が激しいのです。
そのことを忘れていました。
今回の長旅で初めて病気にかかって
健康の大切さをちょっと再認識しました。
みなさんも健康には十分留意してください。
ところで、私が今回書きたかったのは
日本だと病院で医師が注射を打つのが
普通ですが、
こちらの場合は、薬局に行くと
薬局の人が注射を打ってくれます。
症状が簡単なものであれば
いちいち病院に行く必要がないので
私は便利だと思いました。
エクアドルでも薬局で注射を打ってくれます。
また、病院で薬を渡されるということはなくて、
処方箋を病院から渡されるので
それを持って薬局で薬を買うというのが
一般的なスタイルです。
・・・・・追伸・・・・・・
これを書いた後にまた風邪をぶりかえし
2日間、寝たきり状態に舞い戻ってしまいました。
風邪はぶりかえしがきついといいますが
直ったと思い込んだのは薬のせいだったのでしょう。
薬の効用時間がどのくらいだかはわかりませんが、
またまた症状が悪化するのは早かったです。
今回はのどの痛みはあまりなく、
発熱もあるものの、初回ほどの苦しみはありませんでした。
しかし、頭痛がひどく何もできない状態が続きました。
朝食の果物を動物園の動物がエサを食べるように食べる
それだけの生活でした。
生きるのがつらかった。
健康を害すると最低の人生になると
実感しました。
昨日は火曜日だったのですが、
久しぶりに午前中にインターネットカフェに行くために
外を歩きました。
外を歩くことができるという喜びを久しぶりに感じました。
とにかく、頭痛のため歩くのさえもままならぬ状態でしたから。
そして昨日は、朝食に日本人街で売っていたミニ寿司300円くらいもの
( 味も値段レベル = 笑 )と、インスタント味噌汁を
食べました。昼食にはがんばってとんかつを食べました。
食欲はそれほどなかったものの
食べないとよくならないということで気合で食べました。
それから、ちょっとホームページをやって夕方には眠りました。
今日は水曜日なのですが、今日はなんと久しぶりに
空腹を感じました。
ついに食欲が出てきました。
なんというか、人生が楽しくなってきたような気がします。
食欲がでてきただけで、人生が楽しいとは
かなり単純な人生だなと笑ってしまいますね。
前回書いているときにはぶりかえずかもしれないなと
思って書いていましたが、
今回は薬の力に頼らず、自己回復力によるものなので
ぶり返しはないと思っています。
それでは、くだらない話は以上です。
ムーチャスエルテ メールマガジン 《 VAMOS 》
発行者:坂本英則
===========★VAMOS 第69号★==========2004/04/14(月) 発行===========
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