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http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/news/20110523-OYT8T01312.htm
「日本一」誓い養殖再開
記者が見た石巻
事務所から漁港を眺める佐々木さん。周囲はまだ多くのがれきが残る。震災時に避難させた船は沖合に停泊している(7日午後、石巻市で)
宮城県石巻市小渕浜西出当の佐々木茂則さん(59)は今月に入り、ワカメの養殖を再開した。3月11日の地震発生直後、船を避難させるため沖に出ている最中に寝たきりだった母を津波で失い、入院中だった父も間もなく母を追いかけるように亡くなった。自責の念は消えない。だが、「両親が船を残してくれた。日本一のワカメとカキをまた作ろう」と漁師の誇りが失意を乗り越えさせてくれた。
沖では漁師仲間と無線で安否確認をし合った。ラジオを積んでいる仲間から「10メートル以上の津波が来る」と聞いた。真っ暗な沖からは、港が火災で真っ赤に燃え上がっているのが見えた。15時間後、漁港に戻ると母の自宅も漁場もなくなっていた。
近所の人から、巳代子さんがかめのさんを避難させようと車いすを用意している時、倒れた家具が出入り口をふさぎ、その直後に津波が来たことを聞いた。身長が1メートル60以上ある巳代子さんの目の上まで泥水があふれた。
巳代子さんは、引き潮で足がぶつかり、割れた窓ガラスの隙間から、近隣住民に助け出されたという。かめのさんは既に息を引き取っていたが、その後の津波で流され、遺体はまだ見つかっていない。
その10日後、高台の病院に入院していた父の久喜さん(83)も容体が急変し亡くなった。「ばあさんはさみしがり屋だから、じいさんを連れてったんだべ」。そう思うと涙があふれた。船を守って両親を助けなかった自分を責める日が続いた。変わり果てた漁場を見て、漁師を辞めることも考えた。
だが、時間がたつにつれ、船を失った仲間が意気消沈しているのを見て、海で生きる者にとって船がないことは命を取られるのと同じだと思った。「漁師を続けろ」と両親が遺言を残してくれた気がした。
佐々木さんは5月に入ってから毎日、午前8時から午後3時頃まで、海のがれきを撤去したり、ブイなど使える資材を回収したりと海の清掃活動をし、その合間を縫って、ワカメの苗造りに必要なメカブの採取も始めた。
久喜さんの骨はまだ納骨していない。かめのさんの遺体があがったら、一緒に納骨するつもりだ。「その時はワカメをお供え出来たらいいべなあ」。佐々木さんはそう話した。
「海から上がった漁師は何者でもねえ。時間かかっても漁再開すっぺ」
小渕浜地域でワカメを養殖する漁師約35人が集まった際、最年長の佐々木さんは、漁師を辞めようかと嘆く若い漁師に酒をつぎながらそう励ました。
同地域は、ワカメやカキの養殖が盛んな漁師の町だったが、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた。収穫最盛期を目前に漁場が被災し、ワカメやカキはすべて津波に流された。
地震発生直後、佐々木さんは船を避難させようと沖に向かった。
妻の巳代子さん(58)に寝たきりの母かめのさん(89)を任せ、カキ養殖用の7・2トンの漁船に乗り、ワカメ養殖用の3・5トンの小舟を4隻つないで出港した。
石巻市内で5月14日まで約9日間、取材した。身内を亡くし、避難所から通勤するタクシー運転手や市役所職員、水産加工会社員。彼らは口をそろえて「仕事をしている間は、悲しい気持ちを忘れられる」と語った。被災者の生活再建、そして心を前に進めてもらうためにも仕事の場の確保は重要だ。被災地から離れた場所でも、東北地方の特産品を購入するなどで雇用確保に少しでも貢献できるはず。息の長い支援を続けたい。(佐藤友紀)
(2011年5月24日 読売新聞)
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