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クルト・フォン・シュライヒャー(ウィキペディア)
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投稿者 パルタ 日時 2011 年 5 月 24 日 22:10:20: BeExvDE2jO5d2
 

クルト・フォン・シュライヒャー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%BCより抜粋転載
(貼付開始)
1932年4月13日にブリューニング首相とグレーナー国防相兼内相は、ヒンデンブルク大統領にナチ党の突撃隊と親衛隊を禁止する命令を出させた。しかし効果は薄く、4月23日に各州で行われた地方選挙でナチ党はバイエルン州を除き、全ての州議会で第一党に躍進した[23]。シュライヒャーはブリューニング内閣を見限り、自分を中心とした右翼大連立政権を画策してナチ党に接触し、4月28日と5月8日にナチ党の党首アドルフ・ヒトラーと密会した。両者はブリューニングとグレーナーを失脚させること、突撃隊禁止命令を解除すること、国会を解散すること、国会選挙までは新内閣に寛容をもって臨むことなどで合意した[23][24][25]。ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した[26][27]。ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた[28]。
さらに東プロイセンの地主(ユンカー層が占める)が管理しきれない土地を失業者に分配するというブリューニングの政策にユンカーたちが「農業ボルシェヴィズム」と反発したのを機にシュライヒャーはヒンデンブルクにブリューニング解任を提案した。ヒンデンブルクはこれに同意し、5月29日にブリューニングを呼び出し、「今後は右翼政治を行うべし」「労働組合指導者層とは手を切るべし」「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」と命じた。事実上の辞職要求と感じたブリューニングは翌5月30日に総辞職した[29][30]。
[編集] パーペン内閣国防相
1932年5月26日にはシュライヒャーは次の首相としてフランツ・フォン・パーペンをベルリンに呼び寄せていた[31]。5月30日にブリューニング内閣が瓦解すると、シュライヒャーは、ヒンデンブルクにパーペンを後継の首相に推薦した。シュライヒャーが当時ほとんど無名だったパーペンを首相に推薦したのは、パーペンが無経験で外見ばかり気にする性格だっため、操り人形にし易しと判断したからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという[32]。6月1日にパーペン内閣が成立し、シュライヒャーは退役して名誉階級歩兵大将の階級を与えられるとともに国防相として入閣した[30]。
パーペン内閣は貴族ばかりの内閣として国民の支持が皆無だった。ナチ党を除く全主要政党からパーペン内閣は攻撃に晒された。先のシュライヒャーとの約束によりナチ党のみがパーペン批判を控えていた[33]。シュライヒャーは、早速ナチ党取り込み工作を開始し、6月3日にヒトラーと面会して協力を要請したが、拒絶された[34]。
(中略)
首相に就任したばかりの12月3日のうちにナチ党組織全国指導者グレゴール・シュトラッサーと接近を図り、彼に副首相とプロイセン州首相の地位に就いてほしいと要請した[53][55]。ナチ党の選挙資金は枯渇しており、まともな選挙運動はほとんどできず、12月4日のチューリンゲン州州議会選挙では前回選挙と比べて40%もの得票を失うという大惨敗を喫した[55]。組織全国指導者シュトラッサーの元には離党届が次々と届いていた[56]。こうした情勢に焦っていたシュトラッサーは、12月5日と12月7日のベルリンのカイザーホーフ・ホテルでのナチ党指導者会議ですぐに入閣せねば党が瓦解すると主張した。しかし非妥協的なヒトラーはシュトラッサーを徹底的に非難・罵倒した。結局、シュトラッサーは党の役職を辞することとなり、シュライヒャーのナチ党分断策は失敗した[57]。
一方、パーペンは自分を失脚に追い込んだシュライヒャーへの復讐心に燃えて、ヒトラーと接近していた。1月4日にヒトラーとパーペンはシュライヒャー政権の打倒とそれに代わるヒトラー=パーペン政権の樹立で合意した[58]。その後もヒトラーとパーペンは1月18日と1月22日に会談を行った。1月22日の会談にはシュライヒャーの旧友オスカー・フォン・ヒンデンブルクや銀行家、さらに大統領府長官オットー・マイスナーも加わり、オスカーとマイスナーの説得でヒンデンブルク大統領はヒトラーへの嫌悪を和らげた[59]。さらに1月26日にはパーペンは国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクや鉄兜団団長フランツ・ゼルテと会談し、国家人民党や鉄兜団のヒトラー内閣への参加・協力の約束を取り付けた[60][61]。
ついに1月28日、ヒンデンブルク大統領と会見したシュライヒャーは辞職を申し出て、ヒトラーを後継首相にするようヒンデンブルクに勧めた。ヒンデンブルクは「将軍、祖国に尽くした君の尽力に感謝する。では神のお力でこれからどうなるのか見てみようじゃないか」と答えた。それでもシュライヒャーは憎きパーペンが中枢となって活躍する政権だけは阻止しようと図り、1月29日に陸軍統帥部長クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトをヒトラーの下へ派遣して、パーペンの胡散臭さを吹聴してナチ党のパーペン不信を煽り、またヒトラーに協力したい旨を申し出たが、パーペンと組んで政権を作る気であったヒトラーは曖昧に対応した[64][65]。
(中略)
つづいて翌12月2日の閣議でシュライヒャーは「パーペンの下で政府を作ろうといういかなる試みも国を混乱に陥れるだけ。ナチスが内乱を起こせば国軍にそれを鎮圧することは不可能」としてパーペンに退陣を求めた[49]。閣僚はほとんどシュライヒャーを支持した[50]。パーペンは大統領府へ逃げ込み、ヒンデンブルクの支持を得ようとしたが、「ことここにいたってはシュライヒャーに任せよう」と言われたという[49][51][52]。こうして12月2日にクルト・フォン・シュライヒャーに組閣命令が下った[53]。
(中略)
首相退任後、国防省内にあった住居は、ナチスに近いヴェルナー・フォン・ブロンベルク新国防相からの申し入れにより手放さざるを得なくなった。引退を機にかつての上官で1932年に追い落としたグレーナー元国防相と和解し、夫人と共に長期の国内旅行に出かけた。シュライヒャーは公にヒトラー政権を批判し、友人たちから警告されたこともあった。かつての部下オット少将は危険を察知し、シュライヒャーに対してしばらく自分の赴任先である日本に滞在するよう要請したが、シュライヒャーは「プロイセンの将軍は祖国から逃げたりはしないものだ」と言ってこれを断った。
翌1934年6月30日、シュライヒャーは長いナイフの夜でシュトラッサーらと共に粛清される。彼は現役の陸軍将帥であり、しかも自宅で親衛隊員に殺害されたとき、夫人も巻き添えになっているにもかかわらず、国防軍はナチスに何の抗議もしなかった。捜査はポツダム警察署長ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフの指令により停止された。事件の唯一の目撃者だった家政婦は翌年不審な溺死を遂げ、公式には自殺と発表された。
国防軍に影響力を保持していたシュライヒャーはナチスにとって危険な存在であり、またナチスの分裂を試みた彼をヒトラーは決して許さなかったのである[# 1]。ナチス党機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」は2年後に「1933年1月29日のシュライヒャーによるクーデター計画」という記事を掲載し、シュライヒャー粛清を正当化した。  

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