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大東亜戦争とは何だったのか?
カンチャナブリでの日本の戦争の史跡を目にして、ショックを受ける方もいらっしゃる
ようですが、先の戦争に対する日本人としての正しい理解も必要です。ここに私の
私見を掲載しますが、疑問点などがありましたらご指摘を賜りたいと思います。
カンチャナブリの泰緬鉄道から見える日本の近代史
かつて日本は江戸時代に鎖国政策をとったことは教科書に書いてありますのでご存知の方が多いと思います。西欧列強のアジア侵略の激化の前に、日本は鎖国によっていわゆるモンロー主義で日本だけでの繁栄を目指しました。
日本は、世界にも稀な純粋な農耕民族国家で、その農耕民族が治めている同一民族の国家は基本的に平和で、少数の異民族との和も尊び、異民族戦争の悲惨さも経験していません。このため、数千年前からアミニズムの神道を信じており、その中に自然崇拝があり、祖先との輪廻を信じている国民です。
日本は征服民族と非征服民族という区分けを経験していないために、和が重要であるという教えや地縁が大切という教えが定着しました。これは世界的にも日本にしかない現象で、それは日本には天皇家という王家しかないことがそれを証明していると思います。
これは封建主義体制を歴史的に経験したかどうかの差だと思われます。日本は江戸時代には藩制度があり、会社組織を経験しています。韓国や中国は中央集権国家体制であったため、多くの人が他人を動かす経営を経験していません。身内や個人的な信頼で経営するという小さな商店しか経験していないことが、現在の日本との大きな差になったように思われます。
葉隠れ思想なども同様だと思いますが、そのおかげで日本では会社に50年、100年という長きに渡ってのノウハウを貯めるようになっています。中国や米国では個人の能力で勝負していますが、個人の仕事期間はせいぜい30年程度のためにノウハウが30年程度で断絶するようになっています。この仕事に対する文化観が何と言っても日本の企業の強みなのです。
江戸時代は日本国内での経済や文化は藩制度の下で発達し、食料は増産され、色んな制度や研究も進み、日本独自の文化が花開きました。しかし、西欧列強のアジア侵略が進む中で、遅れて参加してきたアメリカの黒船の来航によって強制的に日本は開国を迫られました。そして明治維新が起こったわけです。
日本国内的には、薩長土肥の若い政府指導者たちによって日本が侵略されないように富国強兵・殖産興業が目指されていきました。それまでの鎖国時代の閉鎖経済から拡大する市場経済への経済のシステムの変更が促進され、それまで日本独自に育ってきた文化の上に積極的に海外の文化に学び、欧米列強と太刀打ちできる軍事力や経済力をつけようとする涙ぐましい努力の時が続いていきます。
そして、西南の役に代表されるその後の日本の外交戦略を確定する結果となった内戦を経て、極東の植民地化を狙う対ロシア対策が日本の最大の脅威として認識され、その方向で日本は経済や軍事での小国から大国へとなるための努力が続いていきます。
ロシアの露骨な南下戦略の前で、脅威にさらされた日本は自国の防衛上の必要から朝鮮との連携を強めようとしますが、それが原因で日清戦争に発展し、ついには日露戦争にまで突き進んでいきました。2つの戦争に勝利した日本は、その後、清の最後の皇帝溥儀を要して満州国の建国へと進んでいったわけです。
満州国の建国は5族共和を理想とする石原莞爾(昭和12年当時は関東軍参謀副長の肩書きで少将)の働きが大きかったのですが、その後、理想家である彼は疎んじられ、満州国は実務家の間で日本の生命線としての位置付けが大きくなり、日本の植民地化の傾向に進んでいきました。
そんなときに、1928年(昭和3年)6月4日午前5時30分、張作霖の乗った特別列車が京奉線(北京━奉天)の皇姑屯(こうことん)駅の近くに立体交叉している満鉄線の鉄橋上で爆破されるという事件が起こりました。これが「張作霖爆殺事件」です。
張作霖はもともとは馬賊で、祖父の代に満洲に移り住んだ漢民族です。ならず者で、若くして無学で粗野な強盗団の首領におさまっていましたが、陸軍大将児玉源太郎がみどころがあるとして、悪事を働かぬよう諭した上で、日本軍の協力者として満洲の治安に当たらせていました。というのも、当時の日本にはまだ関東軍はなく、日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部があっただけだからです。
満鉄の線路が延びると、鉄道や日本人を匪賊や馬賊から守らねばならない。1919年(大正8)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立しますが、当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成でした。日本国内では、当時は軍部の台頭を許さぬ原敬が首相でしたから、馬賊でも利用して鉄道や日本人を守るしか方法がなかったわけです。
そういうわけで張作霖を日本軍は満州の治安におおいに利用しますが、思い上がった張作霖は悪政を繰り返して満洲の住民を苦しめ、巨額の富と軍資金を手に入れ、ついには自分がシナ南方まで勢力を広げて「中国統一」を目指すほどになり、国民党の蒋介石軍との戦いに打って出るようになりました。蒋介石軍に反攻に出られたら満洲は戦場となってしまいます。そこで、現状を見かねた関東軍将校らはついに実力行使に出た、というのが張作霖爆殺事件(ソ連の陰謀節もあります)でした。
張作霖の死後、跡を継いだ息子の張学良は日本軍に対する恨みから敵であった国民党の蒋介石と結んで反日運動を起こし、自分たちが満洲でおこなった悪政に対する住民の怨嗟の声を日本側に向けようとしました。
当時の猛威を振るったアジアでの植民地獲得競争、そして迫り来るロシアの脅威を前にして、日清戦争、日露戦争の原因は日本には1点の非もないと私は確信していますが、大東亜戦争に関しましてはいくつかの日本側の問題もあり、その辺は素直に認めて反省しなければならないと思っています。
大東亜戦争に関する日本側のいくつかの問題ですが、これは一方の当事者として反省することであって、相手国や国際事情などから考えると一方的に日本に責任があるとはとても思えません。あくまでも謙虚な気持ちで日本人としての反省というスタンスでの意見です。
そういう意味で当時の日本の状況を振り返ってみますと、1923年に首都東京を中心として関東大震災が発生し、甚大な被害が発生するという出来事がありました。その復興のために大量に震災手形が発行されましたが、その後遺症として日本では1927年には金融恐慌が起こってしまいました。不幸は続くもので、1929年10月にはニューヨークのウォール街での株の大暴落に端を発した世界大恐慌が発生し、またたくまに世界へ不況が広がっていきました。
日本国内の物価は急激に低下し、失業者は増大し、農産物の価格の下落率が特に著しいものとなっていました。そして、日本では1930年には冷害が襲い、1933年には干害となったために、両年とも農作物は大凶作となってしまいました。そんな状況の時に、日本政府は旧平価のままでの金本位制(1930〜1931年)を採用してしまいましたので、日本は円高となってしまい、これがさらに日本の不況の足を引っ張ることになってしまいました。
金本位制採用の結果、国際競争力の弱くなっていた日本製品の輸出がさらに減少し、逆に世界同時不況の中でダンピングされた外国製品が大量に日本国内に流れ込みましたので、多くの優良企業までもが潰れるという日本の歴史上空前の大倒産が始まり、大量の失業者が街に溢れ出すこととなってしまったのです。こうした状況の中で大資本を持つ財閥は中小企業を吸収合併して肥大化していき、一方で政党政治への国民の支持は急速に失われていき、国民の期待を背負って軍部が台頭してくることになりました。
同時に世界同時大不況への対処として、世界貿易面では欧米列強による経済ブロック化が始まりました。アメリカは1930年に高率関税を可能にしたストーム・ホーリー法を制定して、自国の市場確保の為の経済ブロックを形成しました。これに対抗してイギリスも類似な政策を採り、このようにして列国の間では国際経済のブロック化が進展していったために、日本製品は次第に輸出市場を無くしていくこととなりました。
このような背景の中で軍部の暴走の契機となったのは、天皇陛下による軍の統帥権の干犯問題の発生でした。1930年にロンドン海軍軍縮条約が日本政府全権によって結ばれますが、これは政府が天皇陛下の軍に対する統帥権を犯していると、野党が政府への批判を始めたのです。政治の場で、政治家自らが軍の統帥権は天皇陛下にあるという議論を展開したわけで、政党政治はそれによって自己崩壊していくこととなりました。
その結果、政治は軍の暴走を抑えることが困難になったために1936年には内閣内に陸軍大臣と海軍大臣のポストを設けることとなりましたが、これが結果的には軍の力をさらに増大させることになり、政府内での意見対立の際には首相は内閣総辞職しか陸軍や海軍への抵抗力は無くなっていくことになりました。陸軍も海軍もそれぞれが独立した機関であり、政府には軍に対する関与権は無く、さらに陸軍のトップは陸軍参謀総長で陸軍大臣はその部下にあたり、海軍のトップは海軍軍令部長であって海軍大臣はその部下という構造だったのです。
一方、それまで大変自由な思想の下にあった教育勅語は、1935年の改訂版から天皇陛下を神格化する傾向が出始め、その後次第に日本文化の強制というおかしな事態となっていき始めました。
話を戻しますが、大東亜戦争へ至った原因は大小色々とありますが、私は最大の原因は日本政府による南京攻略の決定にあると思っています。
1936年(昭和11)12月12日、中国の古都西安(長安)で国民党主席蒋介石が信頼していた配下の張学良に監禁されるという西安事件が起こりました。一種のクーデターですが、これがその後の伏線となりました。中国の古都西安(長安)で国民党主席蒋介石が張学良に騙されて監禁されたのです。
蒋介石は抗日戦の前に、まず共産軍を掃滅して中国内部を統一するのが先決と考えており、日本との軽率な戦争への突入は自殺行為であることをよく承知していました。そして、全面的な抗日戦争への発展を出来るだけ回避して時間を稼ぎ、その間に産業および軍事力を強化し、日本との戦争が可能な国力を養成するという考えでしたが、無知でお坊ちゃまの張学良にはそんな蒋介石の深謀遠慮の戦略など理解できませんでした。
このようにして張学良は私恨から成安事件を起こしてソ連のスターリンに手を貸すことになってしまい、結果として壊滅寸前まで追い詰められていた中国共産党を救い、その後の国民党との国共合作のお手伝いをする役割を演じさせられてしまったのです。
日本軍に父を殺され、その仇を討ちたいと思うのに蒋介石は満洲事変では「不抵抗」を命令し、自分は命令どおり逃げてきたのに蒋介石は本当に抗日の意思があるのだろうか、いつも共産軍との戦いばかりで、おまけに自分の東北軍20万は共産軍と2度戦ってどちらも大敗し、2個師団が壊滅という惨憺たる結果になったのに、蒋介石は兵員の補充を行わずに消滅した師団を編制から抹消してしまった。もしかしたら蒋介石の意図は、『東北軍の共産党討滅が成功すればそれでよし、失敗しても東北軍を弱体化させることができる』と思っていたのではないか?蒋介石が自分を踏み台にしようとするならこっちにも考えがある。日本軍に勝てるのはソ連だ!スターリンだ。スターリンと手を組み満洲に凱旋したい!
苦労と無縁に育ってきた『お坊ちゃん』の張学良は、自己中心で、国際的な視野も戦略もなく、このような浅はかな考えを持つようになりました。
ソ連の思惑は、台頭するドイツに対しての危機感で、そのためには満洲の関東軍が最大の脅威でした。日本とドイツが東と西から攻めてきたら広いソ連といえども危うい。これを防衛するためには支那本土に共産党を含めた「抗日政権」をつくりあげ、関東軍に誘いをかけ、南下させるように仕向ければ、少なくともソ・満国境が手薄になります。共産党を憎む蒋介石さえ落せば、あとは烏合の衆でどうにでもなると考えていました。
ソ連にとって一番困るのは、蒋介石が死んで支那の国内が混乱し、外国勢力が入り込むことです。そして、しっかりと中国共産党が組織固めをしてからならば蒋介石は不要になりますが、それまでは死んでもらっては困るのです。直前にソ・満国境で日本とソ連の戦闘「ノモンハン事件」というのがありましたが、あれはソ連が日本の現在の軍事力を確認するための事件であったとみられています。
1935(昭和10)年のコミンテルン第7回大会では、各国の国情 に即した戦略戦術を採用することという方針のもとに、中国共産党に対しては、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことを命じ、それに従って中国共産党は8月1日付けで「抗日救国宣言」を発しました。一切の国内闘争を即刻停止して、全面的な抗日闘争を展開しようというのです。
そのためのカモが張学良でした。交渉能力に長けた周恩来が張学良に接近し、張学良に対してあらんかぎりの敬意を払って篭絡させました。周は学良に、西北軍と紅軍が東北軍に合流したあかつきには全軍こぞって学良を西北地域の王に推戴するであろうかのような幻想を抱かせ、学良は周との最初の会談で「見面礼」として2万大洋(当時の1元銀貨)と20万法幣(1935年以後、国民党政府が発行した紙幣)が贈られています。このように、周恩来によって張学良は簡単に篭絡されてしまいました。
蒋介石は西安事件で共産党との合作要求を受諾しますが、智略家で軍人としても優れ、現地に駆けつけた妻である宋美齢夫人も蒋介石とともに西安での死を覚悟して遺言状を書いて来ているくらいですので、蒋介石の意思を動かすだけの何かがこのときにあったようなのですが、これはその後の歴史の謎とされています。
翌年に発生する盧溝橋事件は、このときから用意されていたものと考えられます。関東軍と蒋介石が紛争を起こさずに国力を蓄えていることこそソ連の脅威であるからです。盧溝橋事件はあきらかに共産党の策略で引き起こされたと現在では明らかになっています。しかし、当時の日本の軍人は単純にその挑発に乗ってしまいました。
西安事件の後、蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で国民党副主席の汪兆銘に日本との和平工作を進めさせ、また反共を信じながら、表では容共を説いていました。しかしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と日本軍の攻撃で敗走を続け、重慶にまで追い込まれました。この状況下では、日本側の条件を呑んで和平を選ぶしかないのですが、それをすれば共産軍に蒋介石打倒の口実を与えます。そこで1939(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、汪兆銘は重慶からハノイに脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進め、日本政府の援助のもとに翌1940年、南京に新政府を樹立しました。
蒋介石も汪兆銘も共産党は信じていませんので、日本軍の優勢の前に何れかが生き残れば中国という国家が無くなることは防げるという考えから彼らの分裂は出たことなのでした。そこまで日本軍の攻撃で追い詰められていたわけですし、2人の師である孫文は「日中戦うべからず」との遺訓を残しているくらいですから、日本とは話し合いで解決できる可能性も信じていたのです。
このような時代の流れの中で特に日本側が最大の判断ミスをしたのは、少し事前説明が長すぎましたが1937年の南京攻略であったと私は思っています。
1937年12月7日、ドイツは日本陸軍とのこれまでの深いつながりと「日独防共協定」もあるために日本の戦力消耗は望んでおらず、停戦への和平交渉を引き受けてくれました。トラウトマン和平工作と呼ばれているものです。蒋介石は上海戦に破れて南京危うしという非常事態を迎えて、アメリカ大使ジョンソンを招いてアメリカに助けを求めました。そして、ドイツ駐日大使ディクセンが当時の広田外相に面会して蒋介石の国民政府は和平を望んでいるとの覚書を提出しました。
その少し前の同年7月7日に北支事変が発生したため、北平、天津に居住する邦人1万2千人の保護のために5個師団の派兵を日本陸軍は決めました。その後、上海戦で勝利し、南京もここ数日で攻め落とす勢いに日本軍はあったため、軍部だけではなく政府までも判断を誤り、12月10日には南京総攻撃が開始され、13日には南京は陥落することになりました。7月29日の通州虐殺事件(日本人虐殺事件)での怒りが背景にあったものと思われます。首都南京に危機が迫っているからこそ、蒋介石も恥の上塗りを恐れて日本と妥協できるという「講和の潮時」であり、相手の面子を立ててこそ交渉はうまくいくのに、完膚なきまでに叩き潰されてしまっては恨みと徹底抗戦が残るだけでしかありません。そもそも日本は邦人保護のための威嚇としての軍派兵でしたが、それが本格的な日中戦争へと発展していってしまったのでした。
日本政府は南京攻略後に駐支大使トラウトマンに第2次の調停を行ってもらいましたが、国民党政府には無理難題な条件だったことと交渉のタイミングを失していたこともあって蒋介石がソ連に援助を求めたのは当然のことでした。日本海軍も参謀本部も支那との戦争は終わりにしたいと思っていましたが、蒋介石の明確な回答が得られなかったために当時の日本政府は和平交渉を打ち切ってしまいました。
戦争のプロの集団である軍人が今こそ戦争を止める潮時と考えているのに、当時の近衛首相は「…以後国民政府を対手とせず」と日本政府の声明を発表する事態となり、このように文民である政府が「暴走」してしまったため、以後は停戦の交渉相手が無くなってしまいました。この結果、その後の日本は中国との泥沼の戦争にはまり込んでいってしまいました。
もう少しわかりやすく当時の時代背景を説明しますと、基本的には第1次世界大戦後に日本政府の世界観が欠落している中でアメリカ発の世界大恐慌が起こり、欧米先進諸国は経済のブロック化政策に転向していきます。そこで日本は満州国を日本の経済ブロツクとして建設していきますが、これは先進諸国がこれ以上の植民地化政策を止めて共存を図っていくという国際条約に違反することとなりました。そこでリツトン調査団が派遣されて、その後の国連決議で日本は非難(タイ国は棄権)されますが、その後日本は国連を脱退することになります。
満州国建国は国連決議では非難されましたが、欧米列強の腹づもりでは「滑りこみセーフ」でした。しかし、考え方が実に単純な日本政府は直情的な判断をしてしまいました。脱退はしないで、辛抱強く、是々非々での粘り強い対応をすべきだったのです。ここから日本という国の歯車が狂いだしました。
日英同盟はすでに1922年に破棄されていますので、膨張を続けるソ連の脅威を前にして日本は対ソで利害が一致するドイツと日独防共協定を結ぶことになります。翌年にはイタリアが加わり、日独伊防共協定となりました。国連を脱退して世界の孤児となった日本は、このような同じ境遇にある国と手を結ぶしかソ連の脅威に備えることはできなかったのです。
しかし、この結果としてソ連にとっては東と西に軍事力を分散しなければならず、ソ連は満州国境近くでノモンハン事件を起こして日本の軍事力を確かめますが、その結果として日本を脅威と感じたソ連は中国共産党と組んで日中戦争への道を画策し始めます。
このようにして日本はまんまとスターリンの罠にはまったわけで、ソ連は日本を中国との泥沼の戦争へ引きずりこんで日本を疲弊させ、自分はドイツとの戦争準備のみに専念することに成功したわけなのです。
1939年9月1日に第2次世界大戦が勃発し、1940年9月27日には日独伊三国同盟が締結され、1940年10月にはドイツはルーマニアに侵攻します。そして1941年4月13日には日ソ中立条約が締結され、1941年6月22日に独ソ戦争が開始となっています。この流れから見えるものは、日本の国際戦略のなさだけにしかすぎず、ソ連の罠にはまって当時の指導者が時代に振り回されて大東亜戦争へ至ってしまったことが容易に伺えます。
このような経過を経て、蒋介石政権の求めに応じて英米は大東亜戦争勃発前から大量の兵器や物資の支援を行い、ソ連は中国共産党を指導し、国共合作時には大量の顧問団を送り込むようになりました。そして日本は汪兆銘の南京政府を支援していったわけです。ソ連は日独が手を結んでソ連攻撃するのを極端に恐れていましたので、日中戦争に日本を引きこんで極東(満州)からの日本の軍事的脅威を軽減し、ドイツのみとの戦いに備えたかったのです。この戦略上の流れが、当時の日本政府には見えませんでした。
その後、英米による援蒋ルートの封鎖のために、最初は香港ルートを閉鎖し、続いて日本軍は北部仏印(現在のベトナム)に援蒋ルートの封鎖が目的の平和進駐を図りましたが、軍部の暴走による強行進駐となったためにアメリカは日本に対する屑鉄・石油の輸出を禁止することとなりました。石油が止まって困ったのは海軍で、そこで今度は蘭印(インドネシア)の石油を狙い、昭和16年7月、南部仏印への進駐を図りました。これらの行動がアメリカの逆鱗に触れ、大東亜戦争の勃発が避けられなくなってしまったのです。
日本は米英との戦争は必死な状況に陥りました。ドイツと戦うソ連にとって、日本が満洲国境から攻めてくることほど怖いものはありませんが、米英との戦争は必至な状況となりましたのでドイツ戦に安心して専念できるという、まさにソ連の思い通りの状況に戦局は展開していきました。
軽率な南京攻略(トラウトマン工作の失敗)、そしてむやみに戦局を広げて南進すれば本当の敵に対して備えが手薄になることは軍人の常識ですが、近衛首相や軍の「統制派」の人々の意見によってその常識が覆され、日本は勝てない戦争へとはまりこんでいってしまいました。
何でこんなバカな状況にはまり込んでいったのか、その答の1つと目されているのがゾルゲ事件と呼ばれているものです。日本でスターリンの指示を受けたゾルゲ諜報団の摘発が行われたのは1941年(昭和16)10月18日、そして事件が公表されたのは昭和17年5月16日でした。元朝日新聞の記者だった尾崎秀美(ほつみ)は中国通として近衛首相のブレーンとなり、色んな政策提言をしますが、ソ連のスパイであるゾルゲ諜報団の重要な一員だったのです。
彼らの働きで近衛首相に政治判断を誤らせ、日本軍を「南進」させることに成功した報告をゾルゲから受けてスターリンは狂喜したそうです。
ここからはアメリカ側の目線に移しますと、戦前の日本経済はアメリカ、イギリス、オランダ3国からの軍事必需品の日本への供給が全輸入の85%を占めている状態でした。そして、アメリカは公式的には満州事変と日華事変に反対し、日本への戦争関連物資の輸出規制を徐々に強めていきましたが、実際には原料綿、屑鉄、石油などの輸出は、日華事変以降急増しているのが事実です。
日本は過剰な人口、日本人移民を入れない世界の障壁(黄禍論)、対外貿易への過度の依存、国民に雇用と食糧を保証するための物資輸入、そのために必要な輸出の拡大、という状況の中での欧米諸国による経済のブロック化の中で、日本の生き死ににかかわる問題の渦中にいました。しかし、満州に日本が戦略拠点を確保しますと、日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる日本の経済ブロックが完成し、日本は経済の安全保障の確立の計画が現実のものとなってしまいます。
イギリスとアメリカは日本のこのような政策に反対でした。そのために英米は蒋介石軍を援助し、すでに始まっていたヨーロッパでの第2次世界大戦の目処がたつまで日中戦争を続けさせ、日本が莫大な財政的損失を出してアジアで威信を失うまで日中戦争を続けさせたかったのです。そのために、当初は日中双方に、つまり日本に対しては正常な経済活動としての貿易に応じていたのです。つまりアメリカは、日本が米・英・欄などに資源を依存しているときは脅威と感じていなかったのですが、満州国を建設し、独立した経済圏を日本が確立させる方向に向かい始めたことに脅威を感じて、日中戦争に手を貸すことによって日本の疲弊を狙うと同時にヨーロッパで勃発していた第2次世界大戦の終息までの時間稼ぎもしたかったわけなのです。この時点で、スターリンと利害が完全に一致していました。
ところが、日本は泥沼化する日中戦争解決のために英米から中国の国民党への3本の軍需物資補給路の封鎖を進めていきます。最初に香港ルートを閉鎖し、続いて仏領インドネシア(現在のベトナム)ルートの閉鎖に注力しますが、ここで浅はかな日本軍の一部の暴走により一気にフランスと緊迫し、日本はその約1年前に日独伊3国同盟の締結をしていたために、連合国側はその後、日本に対する経済封鎖と続き、この時点から日中戦争が大東亜戦争へと拡大していく道が敷かれてしまいました。英米にとっては日本の脅威は最高位に達してしまったのです。
この結果、英米にはヨーロッパで起こっていた第2次世界大戦のあとに日本に対する問題に処しようとする余裕を無くさせてしまいました。ソ連にとっては願ってもない方向へと歯車が動き出したわけです。そして、中国共産党にとっては日中戦争時代の第2次国共合作のおかげで、国民党の影で力を蓄えていくことができました。その結果、ソ連はドイツとの戦いに専念でき、中共は戦後に国民党を倒して社会主義国家を建国できるほどの力を蓄えることができました。
大東亜戦争とは、日中戦争が拡大して米英の連合軍と戦うようになった戦争の総称として日本側が命名しましたが、第二次世界大戦とは、「欧州戦線とアジア戦線」を総称した用語で使われていますし、太平洋戦争は戦後GHQが命名した第2次世界大戦下でアジアで行われた日本との戦争のことを指しています。ですから、私は第2次世界大戦と大東亜戦争は異なる性格の戦争であったと見ているのですが、カンチャナブリで目にするお土産用の英語の本や各メモリアルなどで目にする英文の説明では第2次世界大戦という目線からの説明ばかりですので、どうしても先の戦争観が日本人の視点とは異なってしまいます。
第2次世界大戦後、アメリカはソ連との冷戦時代に突入しますが、これは戦前の日本が自らの全近代をかけて実践してきた政策と同じことであり、それ以前に日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったと見なしているアメリカの知識人がいることもアメリカの事実であり、そして懐の広さです。
対日関係をパールハーバー攻略とシンガポール攻略まで悪化させ、その結果、アメリカ人の生命と財産ばかりでなく、日本という極東の同盟国を失って、戦後は対共産主義の砦として日本の面倒を見なければならなくなってしまった当時の政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるという指摘もアメリカの知識人の中にはあるくらいです。
余談ですが、中華人民共和国の誕生にしましても、日本降伏の4ヶ月後、1945年12月、マーシャル(1947年1月、国務長官に就任)はトルーマン大統領から中国における全権特使に任命され、中国に13ヶ月滞在しました。マーシャルは国民党軍と共産党軍に停戦を持ちかけ、蒋介石が大幅に譲歩して停戦が実現しました。しかし、翌1946年4月には、共産党軍が停戦協定を破り、長春を陥落させました。蒋介石軍は長春を奪い返し、共産党軍は北に遁走することになります。
マーシャルは、共産党の要請を受けて、蒋介石と交渉し、再停戦を実現させましたが、その後も共産党軍はゲリラ活動を続け、ダムや橋の爆破、鉱山や工場への攻撃を続けました。そのような状況にも関わらず、優勢な国民党軍を抑えるべく、マーシャルは武器や弾薬の通商禁止措置を取りましたが、その一方でマーシャルはソ連の共産党軍への支援は見て見ぬふりをしていました。
米国は国民党軍に対して軍事物資の購入の道を閉ざし、国民党軍が共産党軍をもう少しで撃破できそうになると、常に「停戦」と称してストップをかけるという不思議な状態が続いていました。蒋介石の勢力は1946年11月頃がピークだったようで、1948年3月には米国議会で蒋介石支援を求める声が高まり、2億75百万ドルの経済支援と1億25百万ドルの軍事支援を行う案を議決するに至りました。
しかし、マーシャル国務長官とアチソン国務次官の牛耳る国務省は、早期実行を求める中国大使の懇請にもかかわらず、2ヶ月もその実行を棚上げにし、1948年6月にある上院議員から痛烈に批判されてようやく重い腰を上げましたが、それでもシアトルから最初の船積みが行われたのは11月9日だったために、この間に国民党軍の敗北は決定的となり、共産軍は翌1949年4月に首都・南京を制圧して同年12月には中華人民共和国の建国を宣言するという事態に至りました。
共産党軍の戦力はソ連のスターリンの武器援助によるところが大きく、当初は蒋介石の国民党にもスターリンは軍事援助をしていましたが、最終的にはスターリンの軍事援助を共産党軍を通すことで一本化に成功しました。そしてさらに、アメリカでも様々な謀略を展開していたようで、その結果としてルーズベルト政権の側近らに中国シンパの共産党員が多く、かれらが米国の外交をねじ曲げたという指摘もあります。(現在の状態もそれに酷似していますね。)
この結果としてその後、共産主義勢力の拡大を抑えるためにアメリカは朝鮮戦争まで行うわけですから、このアメリカ政府の対日戦後における中国への対応の不思議さは私には理解できない部分が多すぎます。
余談ついでに朝鮮戦争の経過についてお話しますと、1945年8月15日、日本は連合国側に降伏し、1945年9月2日にポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書に調印することになりました。
日本の降伏により、ソ連は慌てて朝鮮半島を南下し、38度線を境に日本領であった朝鮮半島の北をソ連軍が、南をアメリカ軍が統治することになりました。
ところが朝鮮半島ではその後、北の金日成、南の李承晩、などが入り乱れての政争が起こり、これに軍隊の反乱が拍車を掛けたために各地でクーデターや争乱が頻発しました。
このような状態が続いていた時、1950年1月12日にアメリカのアチソン国務長官が、アメリカの防衛線は、フィリピン―沖縄―日本―アリューシャンを結ぶ線だと発言しました。失言だといわれていますが、真意ははっきりしていません。
「朝鮮半島は含まれていない!」ことに注目した北朝鮮の金日成は、1950年6月25日、ソ連の支援を受けて南北統一に向かって動き出しました。韓国軍は軍隊とは言えない状態で、逃げまどう民衆と同じで敗走に敗走を重ね、韓国政府はプサンまで撤退しました。
アメリカはこの事態に激怒し、国連を動かして国連軍を仕立て上げ、9月15日にアメリカは仁川上陸を決行します。北朝鮮とソ連と中国は、アメリカの了解事項だと思っていましたから驚きました。国連軍は北上し、38度線を越えてもさらに進軍を続け、10月26日には元山付近に国連軍が上陸しました。このようにして、11月24日には北朝鮮のほうが事実上の敗戦に直面してしまいました。
この北朝鮮を支援したのが建国直後の中国でした。志願人民軍を朝鮮半島北部に集結させて一気に攻め込みます。戦線は再び南下し、翌年の51年1月25日にはソウルを越えた地点まで押し返しました。国連軍は態勢を立て直し、再び戦線を北へ押し戻しますが、二転三転したあと53年7月27日に休戦協定が成立することになりました。このようにして現在に続く38度の軍事境界線を挟んで南北に非武装地帯が設けられたのです。
休戦協定は、ソ連の提案で北朝鮮・中国軍と国連軍の間で会談が行われた結果です。韓国は戦争遂行能力がありませんでしたが、それでも「単独北進」を主張する韓国の意見はこの場では排除されての休戦協定でした。
このような結果としてその後の国際情勢が展開していきますが、その後米ソ冷戦に突入し、アメリカはソ連の脅威を封じ込めるためにニクソン政権時代には共産中国とまでも手を結びました。その後、中国が成長してきて脅威となると、今度はこちらを封じ込めようと戦略を練っています。
日本は戦後、外交や安全保障を全部アメリカに任せてきましたが、田中角栄首相のようにアメリカ抜きでアラブや中国と日本独自の外交をしようとする首相も出てきました。アメリカに逆らう首相としてはその後、細川首相や橋本首相などもいましたが、田中首相はロッキード事件で失脚し、細川首相や橋本首相の時代は日米関係では対日批判が大きくなっていました。逆に、親米の首相(例えば中曽根首相や小泉首相)による政権の時代は大変に長持ちし、そして政治が円滑に流れています。
最初に戻って泰緬鉄道のお話ですが、日中戦争が勃発した1937年を境として、中国共産党軍にはソ連から旧式の戦車や高射砲などが援助物資として供給されるようになり、国民党軍には米英からの軍需物資の支援が始まりました。先にも述べた経過を経て、中国への3本目である米英からの最後の物資補給路(ミャンマールート)を封鎖して日中戦争に終結の方向性を見い出し、太平洋戦争に関しては東南アジア諸国を独立させ、インパール作戦でインドを独立させ、このような状態で連合国との対等な講和に持ちこんで大東亜戦争の終結を促そうという戦略を日本軍は考えました。この戦略は当初は大変にうまくいき、多くの東南アジア諸国から歓迎されました。
しかしまもなく、日本軍のミッドウェー海戦の大敗北を転機に日本の太平洋戦争の戦局は次第に不利に傾き、ミャンマーへの海上からの物資補給も困難となり、そのために陸上からの軍需物資補給路として無理に無理を重ねて建設したのがカンチャナブリを通過する泰緬鉄道でしたが、これは日本の敗戦によって悲惨な戦争の歴史の証人として残り、その悲惨さから現在も多くの観光客を集めているわけです。しかし、カンチャナブリ県内各地の史跡にありますのは第2次世界大戦としての連合国側の戦争観からの説明ばかりで、日本側の視点からのものはありません。
少し補足しておきますと、日中戦争に関しては日本の陸軍は敗北感はなかったと思います。太平洋戦争は大負けしましたし、日本本土も戦禍が及ぶにあたって天皇陛下は終戦の決意をされましたが、中国戦線での日本兵には終戦の決意は敗北感が無かっただけにわだかまりが多かったと思います。しかし、それも当時の阿南陸軍大臣の割腹自殺による現地の日本兵への強い呼び掛けで日本は速やかに降伏をしました。このような終戦時の意思の統一の仕方も日本的な特徴と私は思っています。
私は大東亜戦争には二重の性格があったと思っています。1つは米英との帝国主義間の戦争という側面で、もう1つはアジア諸国に対しての侵略戦争という側面です。この後者の侵略戦争という側面は、当時の大アジア主義のスローガンを利用しながら、「脱亜論」の福沢諭吉につながる近代合理主義の考え方で戦争指導者が総力戦を遂行するために利用したと考えられています。しかし、現実に前線で戦った兵隊たちは純粋に大アジア主義を信じて、現地でその国の欧米植民地からの解放のために尽力した人たちが多かったことも事実です。東南アジアには、日本に感謝している国が多いのはそのためなのです。
そういう戦略での大東亜戦争の最後の切り札がインパール作戦でした。そのために、泰緬鉄道は日本の不利な戦局を打開する切り札としての逆転勝利の可能性を信じて必死に作られたという背景もあるのです。そのために日本軍鉄道隊は必死で作業をしましたが、結果的には「死の鉄道」とも呼ばれるように作業現場では悲惨な結果が続出していました。
当初、日本は戦争の詔勅で「自存自衛」のための戦争としていましたが、後には大東亜宣言を出して、アジア諸国の解放・独立を目的に変更するという複雑な戦略での戦争となりました。と言いますのは、どの段階で戦争をやめるかという目標が見えなかったからなのです。
第2次世界大戦や大東亜戦争、そして太平洋戦争、日中戦争などの呼び方の違いで、私にはそれぞれの戦争観は異なって感じますが、このような歴史を思い出すたびに、インパール作戦や泰緬鉄道建設という無謀にも始めてしまった太平洋戦争のわずかな勝機のために、現地で国のために尽力されて亡くなられた日本軍の方々や、そのために利用された戦争捕虜の方々、そしてアジア各地から集められた労働者の方々の気持ちを思うと、クワイ川鉄橋へ出かけるたびに私は黙祷せずにはいられなくなるのです。
日本の行動は、西安事件や南京攻略、そして南進論への転換など、ゾルゲ事件で代表される情報戦やソ連の権謀術数が背後で強く関わっていたようで、文官である当時の日本政府が軍の「統制派」の意見(背後にはゾルゲを中心とする共産党がいました)に乗せられて大東亜戦争への道へと踏み出してしまいました。
日本は1929年のジュネーブ条約に調印しますが、批准は軍によって阻まれました。軍は「捕虜になることは恥じ」と兵隊を教育し、1941年には東條英機陸軍大臣の下で野戦服務基準としての『戦陣訓』が施行されます。ジュネーブ条約を無視しての「戦陣訓」に見られる生命軽視、主体的思考の否定という思想が、その後の戦争捕虜の扱いを巡って様々な問題を生み出していきました。
日清日露戦争のころには存在した「名誉の捕虜」などという美談は、1937年度で小学校教育からは姿を消し、教育現場は次の3つの色合いで染められて行くことになりました。
・天皇制軍国主義体制による国民統合と、それを正当化するイデオロギーとしての皇国史観。
・植民地支配を正当化する国民意識、アジア諸民族に対する蔑視観。
・国民の人権を制限し否定することを当然とする天皇制国家。
今までに説明してきた大東亜戦争に至った過程で、国として大きな危機が差し迫ってきたときに上記のような日本全体としての体制や思想に急変していきましたが、このようなある条件下では大きくぶれやすいという日本人としての本質を考えることが先の戦争に対する本当の反省だと私は思います。また、大アジア主義を戦術面として利用して掲げ、南方進出を図りましたが、このようなやり方も反省する必要がありますし、開戦時に日タイ不可侵条約を一方的に破ってタイ南部へ強行進駐(タイ領土内通行承認が出る前に上陸しました)した日本のやり方も強引過ぎます。
しかし、上記のような思想や体制の変化にも関わらず、それに逆らって武士道の精神や明治人の気骨でアジアの人々に歓迎される接し方をした日本人も少なからずいました。それが現在でもアジア地域で旧日本軍が尊敬される温床となっている一方で、上記のような体制下で残虐な行動をしたケースがあったのも事実です。
泰麺鉄道の建設に従事されたオーストラリアの元戦争捕虜のアーネスト・ゴードン氏は、氏の著書の中で人権の感覚について次のように述べられています。
「私たちは日本兵が俘虜に対して残酷であることを体験してきた。それが何ゆえにであるということをいまはっきり見てとった。日本軍は自軍の兵士に対してもこのように残酷なのである。...(負傷兵)彼らは死を待つ人々であった。使い果たされた消耗品であった。戦争の廃棄物であった。」
国と国との話し合いが外交であり、外交で解決できないときに戦争となっていますが、戦争に対しても一定のルールがあり、そして倫理観があります。カンチャナブリの泰麺鉄道は、外交の失敗というよりも未熟さが原因であり、国際ルールの欠落や日本人としての倫理観が麻痺していた結果の汚点として、後世にその建設の歴史を伝え続けています。
外交は軍事戦略と経済戦略の土台の上に行う必要がありますが、現在の日本は軍事戦略はアメリカに依存しています。このような状態ですから、日本の近代史を正しく学ぶことは過ちを繰り返さないためにも必要なのです。
以上、日本人が過去の戦争の歴史に反省し、未来に何を活かすべきか、そのことについて考える参考意見として掲載しましたが、読者の皆様の参考意見をお聞かせ願えますと有り難い次第です。そして、ドイツ人のシュタインという方は、「世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰ってくる。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を作っておいてくれたことを・・・」と日本を賛美されていますが、私見は前段で述べましたので読者の皆様のこの言葉の意味することと考えることについてもご意見を賜れば嬉しい次第です。
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泰緬鉄道は日本にとって悲劇の鉄道(インパール作戦を巡る不可思議)
私は持論として、先の大東亜戦争は欧米列強のアジア植民地獲得競争の脅威の前に、日本の政治も軍も当時の日本の政治システムの欠陥から暴走をしてしまい、そして日本政府の適正な判断能力の欠落が大きいですが簡単に相手の罠にも引っかかって日中戦争を始め、大東亜戦争までズルズルと拡大させていってしまった、と理解しています。対戦相手国である蒋介石の中国と不本意にも始めてしまった戦争ですので、これに関しては明らかに日本の方に非があると考えていますが、その辺の詳細に付きましては、私のホームページ「タイ&カンチャナブリ」で掲載していますのでそちらをご参照ください。
日中戦争の本格的な入り口は南京攻略でしたが、日本の政治的貧困さから不本意にも戦争が拡大していって、拡大した戦争の最終的な出口となったのはインパール作戦でした。しかし、そのインパール作戦は問題だらけの作戦でした。
日本が大東亜戦争と命名された米英との拡大した戦争に踏み切った大きな要因は、重慶の蒋介石政府の打倒にありました。日中戦争を行なっていた日本は、当時の国際法でも禁止されていた米英の中国に対する軍需物資支援ルートを、香港ルート、南仏ルート、シンガポールルート、フィリピンルートと封じてきましたが、その最後の目標となったのが雲南・ビルマルートでした。
大東亜戦争が始まりますと、タイは日本の圧力の前にタイ国内の日本軍の通過を承認するという形で日本軍に協力しましたが、この当時のアジアでの独立国は日本とタイだけでした。タイ国王の柔軟な外交力も大きかったですが、仏印を植民地にしたフランスとインド・ビルマを植民地にしたイギリスが国境を接してトラブルを起こさぬように「緩衝地帯」としてタイ国を置いていたのがタイ国の独立が維持できた主な理由とみられています。
初期には、戦局を優位にするためと、資源の確保のために広範囲に日本軍は拡散しますが、あくまでも最終目標は雲南・ビルマルートの軍需物資支援ルートを封鎖して中国を孤立させることにありました。米英に対しては、日本にとっては自存自衛のための戦争の拡大であり、そのために日本軍は中国大陸には100万人の軍隊を釘づけにしたままでの戦局拡大でした。
日本軍はタイ国内の日本軍の通過承認を得てビルマへの侵攻を図りますが、タイとビルマの国境は天然の要塞であり、そのためにイギリスはこれを利用してシンガポール経由でラングーンへ至る海路を活用させることで利権獲得を狙い、そのためにわざとこの地域を不便にしておいたという事情もあったようです。
蒋介石軍はこの支援ルートを守るために雲南省から10万の兵を派遣し、英印軍はラングーンを中心に日本軍が進入する予想地点を南部ビルマと見て、サルウィン河付近で戦車部隊を率いて日本軍を待ち受けていました。しかし、日本軍はビルマ最南端の国境の平坦部分から進入すると見せかけて、大部分の兵を「象が通る道」がある北の山岳地帯の国境から道路を整備しておいて一気にビルマ国内に進入しました。沖中佐率いる騎兵隊による陽動作戦が行なわれ、最南端の国境を突破してタボイを占領し、その後は北上して「象の道」から進攻してくる第55師団と合流することになります。「象の道」からさらに進攻してきた主力第33師団は、日本軍得意の夜襲をかけて勝利し、勢いがある日本軍はわずかの兵で昭和17年3月8日にはビルマの首都ラングーンを陥れました。
イギリスはインド人にビルマ支配をやらせる間接統治の政策をとっており、そのためにビルマ人は圧制に苦しめられていたために日本軍は歓呼の声で迎え入れられました。ビルマ人のビルマ建設を助ける聖戦と日本軍は声明を発しましたので、長年苦しんできたビルマの人々は日本軍にあらゆる援助を惜しみませんでした。飯田軍司令官は軍政を布告し、「ビルマ人による中央行政機構」の設立を約束し、そして昭和18年8月1日にビルマは念願の独立宣言をすることになります。
問題はここからで、ビルマは一応の安定を保ちましたが、こののち英印軍は必ず体勢を立て直してビルマを取り戻そうと攻めてくるでしょうし、蒋介石軍もすべての軍需物資支援ルートを閉ざされて黙ってはいるはずはありません。援蒋支援ルートを閉ざすのが、もともと日本のこの戦争拡大の目的であったはずですから、ならばビルマを平定してイギリスから一応独立させ、雲南・ビルマの援蒋ルートを閉じた時点でこの大東亜戦争の目標を達成したのですから、ここが講和の潮時だったはずですが、そのような動きは一切現れず、この後日本は悲惨な運命に向かって吸い寄せられていくことになります。
その少し前、日本軍はミッドウェー海戦での大敗北と、ビルマへの補給ルートが海上と「象の道」だけであることから、南仏のサイゴンに駐屯する南方総司令部とを結ぶ補給ルートを早急に作らなければ、海上封鎖をされ、人海戦術で「象の道」を蒋介石の重慶軍に塞がれますと、ビルマの日本軍は袋のねずみとなるために、新しい補給路の確保としてタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設することが決定されることになったのです。
バンコック・シンガポール線の中間駅「ノンプラドッグ」から、クワイ・ノイ川の渓谷に沿って263キロを走り、国境を越えてからさらに152キロを西進して、ビルマの古都モールメン市の南方タンビュザヤット駅に達する415キロに及ぶ鉄道建設で、タイのノプラドックからは1942年6月に、ビルマのタンビュザヤットからは1942年10月に工事が開始され、戦争捕虜たちと現地人労働者を大量に投入して1943年10月17日には全線開通させるという脅威的な作業となりました
米・英・支、三軍の総反攻が近い将来ビルマにおいて加えられることが予想されており、ミッドウェー海戦での大敗北でビルマへ至る制海圏は無くなっていましたので、一刻も早い鉄道の完成が要求されましたが、それにしましても人跡未踏の密林や難所を通過する鉄道は大変な難工事となり、過労や栄養失調、風土病などで多大な犠牲者を出し続けながら完成を急がれた泰麺鉄道は、現在では日本軍の虐待行為の史跡として有名な観光名所となっている何とも皮肉なところとなっています。
しかし、この鉄道のおかげで陸の孤島状態であったビルマ人たちは大喜びし、この鉄道のお蔭で日本軍への兵や物資の大量輸送も可能となり、戦争末期においてはビルマからタイに後退した日本軍はこの鉄道がなかったら全滅したのは間違いありませんから、日本人にとりましては何とも複雑な心境にさせられる鉄道ではあるのです。そして、インパール作戦の敗北からの退却戦の中で、ビルマからチェンマイ方面に山越えで逃げた兵士たちの多くが力尽きて死に絶え、そのために白骨街道などとも呼ばれた道がこの地域にあるのはそのためでもあるのです。しかし、今なおビルマ戦線の日本兵約3万5千人が「未帰還」とされ、遺骨は現地に放置されたままになっているも事実です。
インパール作戦は、1944年3月8日に開始されました。第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍が3方面からビルマから国境を越えてインドのインパール目指して急襲する作戦のことです。
もともとビルマ国境を越えてインド東北部に進攻しようという構想は、1942年8月ごろに南方軍が参謀本部に進言していたようですが、寺内南方軍総司令官指揮下の第18師団長・牟田口中将は北部ビルマの困難な地形を指摘して反対を表明したために参謀本部が諦めていた案だったようです。しかし、1943年1月末、英軍のウィンゲート少将の一団がインドから山越えでビルマに攻め込み、日本軍の手薄な西ビルマの鉄道破壊作戦が行なわれました。1943年3月27日にビルマ方面軍が新設され、方面軍司令官に河辺正三中将が就任し、牟田口中将が第15軍司令官に昇格しますと、捕虜からそのジャングル越えの方法を聞いた牟田口中将はインパール作戦を現実味のあるものだと考えるようになって現実の作戦を立案します。そして、その作戦のことを知ったインド義勇軍を率いるチャンドラ・ボースのインパールを自由政府の根拠地にしたいという要求もあって東条首相はインパール作戦の認可を与えてしまいました。
制空権もなく、自分たちの持つ兵器は旧式のものばかり、そして国境のジャングルやチンドウィン川を越えての物資の補給は困難を極める。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されているために、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていました。そんなばかげたインパール作戦を行なうよりも、ビルマ北東に侵入してきた米・支連合軍を攻撃してビルマの平穏を保ち、中国を孤立させてこの戦争の終結を考えるべきなのに、そのような理性は日本政府にはどこかに吹き飛んでいたようでした。
話は変わりますが、1943年(昭和18)11月5日に東京で大東亜会議が開催されました。集まったのは、汪兆銘南京政府主席、張景恵満洲国総理、ワンワイタヤコーン殿下・タイ国首相代理、ラウエル・フィリピン大統領、バー・モウ・ビルマ首相、それに加えてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班がオブザーバーでした。これらの人々を前にして、大本営にいる首相・陸相・参謀総長を兼ねた東条英機は、日本の国益を優先して考えるという理性が無くなっていたのかもしれません。と言いますのは、最初の拡大戦争目標であったビルマの平定時点での戦争終結に向けた講和の話し合いでは、大東亜会議に集まったこれらの国々の国益は無視されることになり、日本は戦争の勝利を治めるしか道が残されていなかったと私には思えるからです。
大東亜会議では、道義に基づく共存共栄、互いの自主独立と伝統の尊重、経済と文化の交流が綱領とされ、大東亜戦争を「日本の自存自衛」の戦いから「大東亜各国の自存自衛」の戦いに位置づけられ、全員一致で大東亜宣言の採択が採択されました。この時点では米英との戦争の勝利が最終目標に変わっていたものと思われます。
昭和18年4月に中華民国大使であった重光葵から、「戦う目的について堂々たる主張がなければならぬ」として「日本の戦争目的は、東亜の開放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現が即ち、戦争目的であり、この目的を達成することをもって日本は完全に満足する。」という東条首相あての意見書が出されます。
東条はこれに共鳴して、この政策実行のために重光を外相としました。これは米英対日本という戦争の構図を欧米植民地主義対アジア被抑圧民族という構図に塗り替えてしまうもので、昭和天皇もこの政策に賛意を示されましたので、東条は半年ほどの間に、満洲国、フィリピン、タイ、インドネシアを精力的に歴訪し、各地の指導者と独立に関する協議を進め、その総仕上げが11月5〜6日に開催された大東亜会議でした。
各国を代表したのは、英仏に留学したバー・モウ・ビルマ首相、アメリカに留学したラウエル・フィリピン大統領、英国のケンブリッジ大学に学んだチャンドラ・ボースなどのそうそうたるメンバーですが、この歴史的な会議終了後にチャンドラ・ボースはこう語ったそうです。「日本という国が偉いことは認める。良い兵隊がいるし、いい技術者もいて、万事結構である。ただし日本には、良い政治家がいない。これは致命的かもしれぬ。」
この時に、日本にチャンドラ・ボースやバー・モウ、ラウレルたちと肝胆相照らすほどの日本人政治家がいたら、その後は大きく世界が変わっていたかも知れません。おそらくアジア諸民族は心から日本と共に立ち上がり、インドは独立して英国をアジアから駆逐し、蒋介石政権も覚醒して中国戦線を終結させることができたかもしれない。そうなればアジアの人々たちの夢、各国が平和のうちに自主独立をうたう真の「大東亜共栄圏」が実現していた可能性もあったと私は思います。何故ならば、中国の蒋介石政権は日本の中国に対する侵略戦争に対して戦っていたのであり、大アジア主義に日本が転換したのであれば中国と戦争を続ける理由が無くなることも意味するからです。
日本軍の南京攻略前のトラウトマン工作の時点、昭和18年8月1日のビルマの独立宣言の時点、何れも日本は中国との戦争の終結に向けての講和の話し合いのチャンスでした。しかし、日本の国益というものに対する政府としての共通した認識が乏しく、政府は大アジア主義を利用して戦争を拡大させましたが、そのためにビルマの平定で中国への軍需物資支援ルートをすべて防いでも講和の話し合いを始めることができず、戦略的に利用しようとした大アジア主義のおかげで馬鹿げたインパール作戦の勝利でインドを独立に導くことで、その上で日本の米英に対する戦争勝利による戦争の終結しか選べない道へ踏み込んでしまったと私は見ているのです。
このばかげたインパール作戦の実行中には、作戦継続困難と判断して撤退を進言する第15、31、33師団の3人の師団長が共に更迭されるという、日本陸軍始まって以来の師団長という陸軍の要職にある者の上官命令に従わない抗命事件が起こってしまいました。本来ならば師団長は天皇によって任命される親補職のはずなのですが、これが現場の一司令官によって罷免されたのに、後日この人事が問題となることはありませんでした。牟田口軍司令官の用兵は拙劣を極め、結果として本作戦は日本軍約8万6千人のうち戦死者3万502人、戦傷病者は4万1978人を出して、ついに1944年7月5日に中止されることとなりました。しかし、その後、終戦に至るまでこの作戦の失敗の責任が明らかにされることはありませんでした。
インパール作戦の失敗の責任の所在を陸軍が検証することは最後までありませんでしたし、牟田口中将は作戦失敗のあと、「退路の視察をする」とか言いながらさっさと現地を去り、のちに国内で陸軍予科士官学校長、つまり軍人の教育者の地位につき、しかも東京裁判でも不起訴となっています。その上、牟田口中将の上官であった最高責任者の河辺司令官はこの大敗北のあと大将に昇進しています。
また、無理をして行なったインパール作戦の失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ・ベンガル湾戦線は崩壊し、その後、英印軍が優勢に転じたために1945年(昭和20)にはアウンサン将軍率いるビルマ軍が寝返る事態となりましたが、これもビルマの国益を考えれば仕方のないことです。しかし、現在でも毎年行なわれるビルマの建国記念日の閲兵式では日本の軍歌が使用されていますのは、少なからず日本に対しての感謝の気持ちがあることを示しているのです。
話は少し脱線しますが、マレー半島を南下してシンガポール攻略を指揮し、2月15日に陥落させたのは「マレーの虎」と恐れられた第25軍司令官である陸軍中将・山下奉文(やましたともゆき)で、近衛師団、第5師団、第18師団、第3飛行集団を統括してこの作戦に当たりました。敵であるイギリス軍には植民地から徴発したインド兵が多いため、まず、現地の90万人のインド人を味方につけ、「反英独立」の思想を目覚めさせ、マレー英印軍内インド兵の戦意破砕、投降と背反を促し、「インド独立」に向かわせることに苦心しました。そして、昭和16年12月31日にはバンコクにインド国民軍・INAが誕生することになります。
山下将軍はマレーの地形と、華僑、インド人、マレー人など、この地域には習慣の違う人種が住んでいることに注目して、現地の人たちの支持がなければ勝てないと悟ったのです。
大本営はシンガポールへの「入城式を行え」と命じましたが、山下将軍は断固としてはねつけ、入城式はせずに軍を郊外に留めました。勝って威張ることなく、民政に気を配ったのです。日本兵と現地人はプールで共に泳ぎ、テニスに興じ、イギリス占領下の人種差別がなくなり、人々はイギリスから解放された実感に大喜びしました。さらに日本は占領中、マレー人優遇政策をとり、イギリス勢力の排除と華僑勢力の抑制の2大方針で統治しました。そのために現地での山下将軍の人気はうなぎのぼりとなりましたが、すると突然、東条首相は山下将軍を満洲に左遷してしまいましたので、その後のマレーの独立の可能性もなくなってしまいました。
また、ジャワ島を攻略したのは今村中将の第16軍で、昭和16年3月1日に3箇所に分かれてジャワ島上陸し、3月9日には全面降伏させました。このスピード勝利の裏には原住民がこぞって日本軍に味方したことがあります。この地には「いつか北方から救いが来る」という信仰があり、有色人種の兵隊が白人軍団を蹴散らして堂々と行進する姿に、自分たちのための民族解放をやってくれていると感激して日本軍を応援したのがスピート勝利の背景にあるのです。
今村中将は敵の降伏と同時に独立運動のリーダーのスカルノを東部スマトラの山中の獄舎から助け出し、活動資金と自動車20台を与え、彼の自由な独立運動を支援しました。インドネシアの青年たちを集めて防衛義勇軍を設立し、この結果祖国愛に目覚めた4万人の熱情を持つ若者たちはやがて終戦時には30万のインドネシア独立軍をつくりあげ、再び支配者として戻ってきたオランダから独立を勝ち取ることになります。
住民を大切にした今村軍政は住民から支持され、インドネシアには自由な空気がみなぎっていましたが、東条首相兼陸相はこのような今村軍政を改めさせようとします。しかし、少数の日本軍がだだっ広いインドネシアをまとめるには住民の意識を向上させ、彼らに任せる以外に方法がないとして、今村中将はその要求を断固拒否しました。
後に今村中将は、苦戦に陥っていた南東太平洋方面の戦局の打開のためにラバウルへ向かいますが、終戦後、今村中将はオーストラリアの戦犯管理下にあってラバウル刑務所につながれていたのを、昭和23年4月、オランダ側の要求によりジャワの軍事法廷に引き立てられました。そこで、裁判長デ・フロートが検事の求刑を退け、参考人として100人以上の白人や現地人がことごとく、今村の軍政の正当適切であったことを立証して今村は無罪になっています。そして、もし有罪になればスカルノは決死隊を指揮して今村を奪還する計画を立てていたそうです。
終戦後、インドネシアの独立派は直ちにインドネシア独立を宣言、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍、および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍とインドネシア独立戦争を戦うことになります。彼らは武器・弾薬を日本軍兵器庫から奪ったり、日本軍人の一部が横流しした武器・弾薬で武装し、インドネシア独立派には逃亡兵としての1000人の日本軍人が戦闘に参加して様々な手段で連合軍を苦しめ、ついに1949年12月のハーグ円卓会議によりオランダは正式にインドネシア独立を承認するに至ったのです。
こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名に日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚しています。これは、独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているのだそうです。そしてジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地には、インドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が独立の英雄として手厚く葬られています。
また、東京での大東亜会議に参加されたワンワイタヤコーン殿下・タイ国首相代理ですが、戦後に同殿下が国連議長に就任した際には日本の国連加盟に努力してくださいました。
私の住むカンチャナブリには、西南の役の田原坂に近い感情を私に抱かせる泰麺鉄道が、現在はナムトック線と名前を変えてトンブリとナムトック間を運行しています。当初は大東亜戦争の終着駅として考えられていたビルマの平定、そして大アジア主義を米英と戦うために政府が利用した結果として馬鹿げたインパール作戦を始めなければならなかったこと、少なくとも結果的には日本人は欧米列強からのアジア各国の独立を本気で援助しなければならなかったことが広島や長崎に原爆を投下される結果に繋がっているのです。
私は日本の残虐行為のシンボルとして世界中から観光客を集めている泰麺鉄道の持つ二重の意味を、少なくとも日本の方には真実を知る努力をして欲しいと願っています。こちらの各戦争史跡では日本の残虐行為だけが強調されていますが、戦略的に失敗した軍上層部は別にして先の例の2人の軍司令官にも見るように、日本兵の中には大アジア主義によるアジア各国の独立を本気で支援した人々も多くいましたし、日本政府も戦争の後段ではその方向に向かざるを得なくなっていました。
米英との戦争は1941年12月8日(現地時間12月7日)の真珠湾攻撃によって開戦し、1945年8月15日のポツダム宣言受諾によって終了したとされていますが、日本で大東亜戦争という名称が正式に決まったのは1941年(昭和16)12月12日の閣議においてであり,そのときから対米・英戦を支那事変(日中戦争・日華事変)をも含めて日本では大東亜戦争と呼ぶことになりました。
日中戦争から大東亜戦争へと、この拡大戦争を開始した当初の戦略目標であったのは中国に対する雲南・ビルマルートの封鎖でした。しかし、米英との戦争が開始された後に戦争の名称が大東亜と変更されていること、故意か偶然かビルマを平定して同ルートの閉鎖を完了したにも関わらずインパール作戦を行ったこと、その直前である1943年(昭和18)11月5日には東京で大東亜会議が開催されたこと、これらのことを考え合わせますと時の政府の迷走する姿勢が見え隠れしているように私には思われてなりません。
戦後の日本では謝罪外交が続いて来ましたし、歴史への反省という言葉もよく聞きますが、私の目からは多くの日本人は中国や東南アジアで本当は何があったのかを知らないで、歴史の一側面だけを教科書で教えられているように感じられてなりません。1943年(昭和18)11月5日に東京で大東亜会議が開催されましたが、この歴史的な会議終了後にチャンドラ・ボースが語った「ただし、日本には良い政治家がいない。これは致命的かもしれぬ。」ということが、現代の日本においても何ら変わらない状況にあるようにも思えます。日本人は先の戦争で反省することは多くありますが、最大の課題はここにあるのではないでしょうか。
以上は、私の私見による東南アジアでの先の戦争のお話ですが、読者の皆様はどのようにお考えでしょうか。
カンチャナブリにはヨーロッパからの観光客が大勢やって来ます。日本からの団体旅行者はほとんどがバンコクからの日帰りで、クワイ川鉄橋やアルヒル桟道橋などを見てバンコクへ戻りますが、ヨーロッパからの旅行者はもっと時間をかけて県内奥地の戦跡ヘルファイアパスを見学したり、そして日本軍発見によるヒンダー温泉の入浴も楽しんでいます。各戦跡などでは第2次世界大戦に基づく英語での歴史の紹介があり、その歴史的事実の説明は間違ってはいませんが、歴史にはそれを見る角度というものもあります。この地まで足を伸ばす日本の若者たちの中にはそれらの事実を見て日本に対する自虐史観を強める者も少なくないように感じますが、日本の側に立った歴史を眺める角度を持たない若者たちが増えつつあることも問題なのではないでしょうか。
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