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太平洋戦争の原因(二)
1:米国も認めた、自衛の為の戦争
(1)、戦略爆撃調査団、報告書
アメリカの勝利が決定的となった昭和 19 年 ( 1944 年 ) 11 月 3 日に、ルーズベルト大統領の命令を受けて米国の陸軍長官 スチムソンは戦略爆撃調査団を組織して、戦争終了後に日本に対する各種の調査に当たらせることにしました。
定員は文官、軍人の士官、下士官兵など 1,050 名からなる大規模な組織で、敗戦の翌月の昭和 20 年 ( 1945 年 ) 9 月に来日して東京に本部を設置し、名古屋、大阪、広島、長崎にも支部を設け、太平洋の島々、アジア大陸にも移動調査班を置き調査に当たりました。
その目的は、あらゆる角度から戦時中の日本に関する調査をおこなうことで、調査は民事、経済、軍事の三分野からなっていました。民事では更に民間防衛、医療、戦意の 3 部門に分けられていました。
軍事研究では日本側の将官 26 名、佐官 67 名の陸海軍人に対する詳細な尋問がなされ、日本軍の各作戦と戦闘に関する調査をおこない、経済の分野では戦時中の都市経済や戦時生産の状況に関するデータの調査は勿論のこと、米軍の爆撃が与えた被害状況や住民に及ぼした心理面での効果の項目も含まれていました。
調査はその年の 12 月までおこなわれ、108 巻の報告書にまとめられました。
調査団長 ニッツ ( Paul H. Nitze ) から昭和 21 年 ( 1946 年 )7 月に アメリカ大統領に提出された戦略爆撃調査団報告書には、興味深い以下の記述があります。
日本の指導部が国家の存亡にかかわる利益の為にと固く信じて、戦争を始めたことは明らかである。これに対して アメリカは、単に自分達の経済的優位と主義主張を押しつけようとしたのであって、国家の存亡にかかわる安全保障のために戦ったのではないと、アメリカ人は信じていた。
U.S. Strategic Bombing Survey Report ( Pacific War ) 1946
つまり日本は、自衛 ( 国家の存亡にかかわる利益 ) のため に戦争を始めたのだと、アメリカ自身も認めていたのです。
これに対してアメリカは自衛のためではなく、 市場獲得を優位にする為と、覇権主義のために戦った とありました。
(2)、マッカーサーの証言
連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーは、帰国後の昭和 26 年 ( 1951 年 ) 5 月 3 日に米国上院軍事外交合同委員会で証言をおこないましたが、その中で
日本に対し我々が近代産業を支える資源 ( 石油、錫、ゴム、羊毛など ) の供給停止をすれば、国内に 1 千万 〜 1 千 2 百万の失業者が出る状態になるのを日本は恐れていた。従って彼等が戦争を始めた動機は、主に Security ( 自国の安全保障 = 自衛生存 ) の理由によるものであった。
注:)原文の表現によれば、The war was largely dictated by security.
さらに朝鮮戦争に関連して、日本がこれまでおこなった大陸進出等は、 ソ連の南下を抑えるための 自衛の戦い であり、日清、日露の戦争 もまた同じ理由からだった。
と述べました。
日本が戦った相手の占領軍の最高司令官が、日本は 自衛のための戦争 をしたのだ。日清、日露戦争もそうだったと言っていましたが、この点をぜひ記憶しておいて下さい。
注:1)
米、英、オランダは アジアに於ける権益の確保、植民地体制の維持を図るため、邪魔な存在である有色人種国の日本を叩きつぶすことを計画しました。日米開戦の 4 ヶ月前の昭和 16 年 ( 1941 年 ) 7 月 25 日から 8 月 1 日にかけて産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産凍結などの経済封鎖をしました。
その結果、日本は石油の枯渇、外貨の支払い不能から、座して窒息死を待つよりも、国家生存の可能性を信じて戦争に打って出ました。
注:2)
朝鮮戦争の原因は、共産主義に後押しされた金日成による韓国侵略でしたが、マッカーサーは北鮮軍や、中国共産党の正規軍と戦いながら、背後にいるソ連の意図を強く意識させられました。
かつてソ連の南下を食い止める為に日本が日清、日露戦争を戦ったように、 日本の軍事力解体後は、皮肉なことに今度は米国自身が その地域に侵入を図る共産主義勢力を阻止するために 、多数の戦死者を出しながら 朝鮮半島で、その後は ベトナム、ラオス、カンボジャなどで、共産主義勢力と対決せざるを得ませんでした。
しかも米国が日本と戦争をしてまで強く求めていた中国における権益も、毛沢東による共産主義革命が中国全土を支配した結果、 水の泡 となりました。
2:人種間の戦争
(1)、白人優越神話の打破
日本が太平洋戦争の 37 年前に日露戦争で、ロシア帝国を打ち破ったことは、世界にとって予想外の驚くべきことでした。近現代史上初めて白人が有色人種に敗れた事件であり、それが清国、インド、ペルシャ、トルコ、エジプトなどの人たちに自信と希望を与えました。
[ ネールの言葉 ]
インドの ジャワハルラル ・ ネール ( 後の インド首相 ) は
小さな日本が大国 ロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大な ヨーロッパの 一国に対して勝つことができて、どうしてそれが インドに出来ないといえようか。だから日本の勝利は アジアにとって偉大な救いであった。インドで我々が長い間捕らわれていた劣等感を取り除いてくれた。
と述べました。
またネールの妹の パンデイット夫人は、1945 年 ( 昭和 20 年 ) に アメリカを訪れた際に、 太平洋戦争は本質的には人種戦争だと述べました 。
日本を貶 ( おとし ) めようとする内外の歴史家や自虐史観に立つ人たちは、これまで 太平洋戦争がもたらした アジアの民族主義への影響をことさら 無視 し続け、あるいは 過小評価 してきました。
日本が 一時的にせよ アジア全土の植民地から、白人の支配勢力を 一掃したことが、植民地住民の間に何世紀もの間受け継がれてきた、白人に対する劣等感と白人支配には絶対に勝てないとする神話を打破し、彼等住民に独立に対する自信を与えました。その結果が戦後の アジアにおける イギリス、オランダ、フランスなどの白人による植民地支配からの独立をもたらしました。
[ バーモウの言葉 ]
真実の ビルマ ( 現 ミャンマー ) の独立宣言は 1948 年 1 月 4 日 ( イギリスからの独立 ) ではなく、1943 年 8月 1 日 ( 太平洋戦争中 ) に行われたのであった。 真の ビルマの解放者は アトリー首相のイギリス労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国政府であった。
歴史的に見るならば、日本ほど アジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。( バーモウ著 ビルマの夜明け )
注:)
バーモウ ( 1893〜1977 年 ) 博士は英国からの ビルマ独立運動に参加し、ビルマが インドから分離した 1937 年に初代 ビルマ首相となりました。太平洋戦争中は ビルマ独立行政府長官となり、戦後は野党の マハーバマ党首をつとめ 87 才で死亡しました。
[ トインビーの言葉 ]
文明論を得意とする歴史学者 アーノル ・ト インビーは、
日本人が歴史に残した功績の意義は、西洋人以外の人種 ( 有色人種 ) の面前において、アジアと アフリカを支配してきた西洋人が、過去 200 年の間信じられてきたような、 不敗の神 でないことを明らかにしたことである。
と指摘しています。( 英国の新聞、オブザーバー、1956 年 10 月 28 日の記事 )
[ ウェルズの言葉 ]
有名な イギリスの歴史学者の H ・ ウェルズ は終戦直後に、太平洋戦争で日本が果たした世界史的役割について
太平洋戦争は大植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらすと共に、世界連邦の基礎を築いた。
と述べていますが、人種における平等の理念は、戦後の国際連合 ( United Nations ) 発足の基礎となりました。
[ 米国の裏切り ]
かつて第 1 次大戦の後始末の為に大正 8 年 ( 1919 年 ) 2 月 13 日に パリ講和会議が開かれましたが、その席上国連の前身である 国際連盟 ( League of Nations ) 設立の規約委員会において日本が提案した 人種差別撤廃条項案 が、黒人問題を国内に抱えた アメリカ大統領 ウイルソンの反対で否決されました。しかも彼は国際連盟の加盟を拒否してさつさと帰国してしまいました。
太平洋戦争がその後の国際社会に大きな影響を与え、民族主義に芽生えた アジア、アフリカなどの植民地から 百を超える国が独立する事態をもたらしました。それまでは自分たちを奴隷の如く卑しめ、王侯貴族のように君臨していた白人支配者とその軍隊が、自分たちと同じ肌の色をした小柄な日本兵との戦闘に敗れ捕虜となった哀れな姿を見て、白人優越の呪縛、コンプレックスから見事解放されたのでした。
[ 皮膚の色 ]
欧米そして アジアにおいても長い間、 皮膚の色によって人間の価値が決められてきました 。日本はその忌まわしい価値観を戦争という実力行使により、有色人種である植民地住民の眼の前で 白人種の権威を失墜させ、面目を失わせる ことにより、その変更を余儀なくさせました。
ガンナー ・ ミューラーは 1942 年 ( 昭和 17 年 ) に以下のように述べています。
この戦争の一方の側には 「 有色人種国 」 の日本がある。この国は自分自身の土俵で白人の アングロ ・ サクソン の打倒に立ち上がった。教育を受けない黒人でさえも世界の出来事における皮膚の色の図式に、おぼろげながら気づき始めた。
ある黒人の応召兵は、俺が戦死したら以下の言葉を墓石に刻んで欲しい、と遺言して戦地に向かいました。
白人のために、 黄色人種と戦って死んだ、 1 人の黒人ここに眠る
[ ガンジーの言葉 ]
米英が昭和 16 年 ( 1941 年 ) 8 月に発表した大西洋憲章には
すべての国民が政体を選択する権利を持ち、主権及び自治を強奪されたものに主権及び自治を返還すること。
という項目があり、あたかも植民地解放を題目に掲げているかの如くにみえますが、実は英国の首相 チャーチルはその当時植民地であった インドの主権は今後とも イギリスが保有することを明言し、議会でもその旨の説明をしました。
つまり看板に偽りがあったのです。これに対して インドの指導者 マハトマ ・ ガンジーは、昭和 17 年 ( 1942 年 ) に ルーズベルトと会談した際に、
世界を個人の自由にとって安全なものにするために戦っているという連合国側の宣言は、 インドや アフリカが、イギリスによって搾取されているかぎり、また アメリカが国内に黒人問題をかかえているかぎり、空虚に聞こえる。
と英国の偽りの姿勢と米国の人種差別政策を非難しました。
(2)、過酷な人種差別の実態
[ オランダ人の場合 ]
英国人と共に 有色人種蔑視の傾向が特に強い オランダ人によって、 350 年も続いた ジャワ ( 現、インドネシア ) の植民地支配は過酷なもので、現地人( インドネシア 人 ) は家畜よりもひどく扱われ、一握りの オランダ人支配者が 数千万人の原住民の生殺与奪の権利を握っていました。本国ではいち早く廃止されていた死刑や流刑は、誰はばかることなく堂々と実施され、1848 年までは体に烙印を押すことさえもおこなわれていました。
19 世紀の オランダの植民地政策を代表するものは、世界史の上でもよく知られた 強制栽培制度 がありました。この栽培制度は 1830 年から ジャワに導入されましたが、その骨子は ジャワの農民や小作人に対して、耕作地の 20 パーセント、もしくは労働時間の 20 パーセントを オランダの東 インド政庁が指定した農作物の栽培に割くように強制するものでした。政庁が指定した作物とは、当時西 ヨーロッパで庶民の日常生活の中に普及し始め、人気のあった コーヒーと砂糖が中心で、他に茶、藍、タバコなどがありました。政庁はこれらの作物を 非常に安い価格で独占的に集荷し、農民は政庁以外の第三者に売ることは禁じられていました。
オランダの植民省が懸命にその公表を阻止しようとした オランダ人検察官、 レムレフ の報告書 によれば、スマトラ島の タバコ農場では、
オランダ人は現地人を米国の黒人奴隷と同じか、それ以下に扱い 「 ムチ打ち、平手打ち 」 は当たり前だった。また現地人労働者の生命は軽視され、ごく簡単に殴り殺された。 スマトラ島の農場では意図的に米を栽培せず、ビルマ ・ タイからの輸入米に頼っていたので、 島民は米が手に入らず 、生きてゆくためには労働者として オランダ人の農場で働くしか方法がなかった。
刑務所で過酷な労役を課せられていた囚人が、元の オランダ人の農場よりも 食事の質が良いからと 、刑期を終えても出所を拒んだ例もあった。
と報告書にありました。近親者の葬儀でも作業を休むことは許されず、病気になると農場内の鉄格子のはまった病棟に入れられましたが、抜き打ち検査で係官が目にしたその光景とは、
鉄格子から鼻をつく悪臭が外に漂い、数平方 メートルの空間に、男 2 人、女 8 人、それから 24 時間前に死んだ死体が ひとつ臥していた。飲み水も便所もなく、排泄物は土を掻き寄せて排泄物にかけて、壁の隙間から外に押し出すだけだった。
飲み水が欲しい場合には外を通りかかる労働者に頼み、1 日 1 回支給される食物を、水と交換しては手に入れていた。
病気を治す為の病棟どころか逆に、病気になった際の休養や、怠業(?)をさせない為の みせしめ としての 懲罰小屋 というのがその実態でしたが、現地人が虐待により死亡した場合でも、オランダ人農場主の責任が問われることはありませんでした。
太平洋戦争の際に ジャワ ( インドネシア ) 占領に参加した 近衛連隊の総山 ( ふさやま ) 孝雄氏の記述 によれば、
オランダ人は高床の家に住み、現地人は土間に寝た。オランダ人は 「 より取りみどり 」で現地の女性を現地妻としたが、オランダ人から夜に呼ばれ相手をさせられる場合に限り、現地妻は床上に寝るのが許された。
オランダ人は統治戦略上、混血の子供には オランダ国籍を与えたので、母親は裏の土間で寝たが、子供は床上に起居して 自分の母親を下女のように叱りながら、こき使っていた 。
[ オランダの植民地統治方法 ]
原住民を 文盲のまま放置 し、土豪 ( どごう、その土地の有力者 ) を使用して間接統治をした。
キリスト教に改宗した者は、優遇して警察官や軍人に登用した。
オランダ人と インドネシア人との 混血を中間階級 として使用し、民族の分断を図った。
社会の流通経済は中国人の華僑にやらせ、経済搾取による インドネシア人の憎悪の対象を華僑に身代わりさせた。
一切の集会や団体行動を禁止した。
全国各地で使用されていた 320 もの部族言語 をそのまま使用させ、言語の共通化、標準言語の採用を禁止した。
日本政府の採った朝鮮における植民地政策とは大差がありましたが、これを読んだ 朝鮮半島の住民や在日に、ぜひ感想を聞きたいものです 。
[ イギリス人の場合 ]
その当時 アジア在住の英国人の家庭で働く現地人達は、 その家で飼われている犬よりも粗末な食事を与えられるのが普通でした 。
インドの列車では インド人は英国人と同じ車室 ( Compartment )に同席できませんでした。同じ等級の切符でも、英国人は 1 人でも 6 人掛けの車室を独占し、インド人は 1 つの車室に 10 人も詰め込まれました。
空いている車室がない場合、英国人は先客の インド紳士をあたかも犬を逐いはらうように追い出して、自らがこれを独占しました。
英国の大学を卒業し弁護士をしていた若き日の マハトマ ・ ガンジーが人種差別反対運動を始めたのは、南 アフリカ共和国 ( 現、南ア連邦 )において 1 等車の切符を持ちながら白人の車掌から、
お前のような ブラック ( 南アでは、白人以外は全て ブラックと呼んでいました ) の乗る場所ではない
と列車から追い出されたのが原因でした。
ガンジーは インドに戻ってからは非暴力主義による反英、反植民地運動を始めましたが、精神面での指導はともかく、実際には インド独立の為には 何の役にも 立ちませんでした。しかも彼の犯した最大の誤ちは インドの工業化を拒否したことで 、彼自身による 「 糸車 」 を手で回す姿に象徴された家内手工業の普及でした。
彼の無抵抗、非協力、不服従などでは、 強欲な イギリス の植民地支配を変えることは不可能で、 英国を インドから追い出したのは、後述の力による 反英暴動 と、全土に広がる 武装蜂起の威嚇< /font>でした。
非暴力主義者の彼は皮肉にも、昭和 59 年 ( 1984 年 )に狂信的な ヒンズー教徒により銃で暗殺されました。
[ ベルギー領、コンゴの場合 ]
1884 年末から ベルリンで欧州の 14 ヵ国が参加して アフリカの分割支配に関する協議がおこなわれましたが、それにより植民地支配の権利については 早い者勝ち という先占権の ルールが確認されて、欧州諸国による アフリカ分割競争が始まりました。その結果 ベルギーを例に挙げれば、本国の領土の実に 78 倍 もの、広大な コンゴ ( 旧 ザイールと旧 コンゴ ) を手に入れることができました。
しかも国王の レオポルド 二世はこの土地を ベルギー国家の植民地にしたのではなく、自分の懐を肥やすために、 国王の私領 ( コンゴ自由国 ) にして住民を国王が所有する奴隷の状態にして強制労働を課しました。当時黒い黄金といわれた天然 ゴムの原料となる ゴムの樹液を求めて、ジャングルに自生するゴムの木から「 天然ゴム 」の樹液を採取させるのに住民に ノルマを課し、あるいは アフリカ象の象牙の獲得にも住民に ノルマを課し、ノルマに満たない者、少しでも反抗する者は容赦なく死刑にするなどの残虐行為を続けました。
その結果住民の大量殺害、国外逃亡により 15 年間で コンゴの人口は 2 千万から 9 百万人へと半分以下に減少した と言われています。私領 コンゴでの残酷な支配、飽くなき収奪により世界一の資産家になった国王の レオポルド 二世は、世界中から非難を浴びたため、1908 年から コンゴの支配形態を 国王の私領から 、 ベルギー国家の植民地に 変えざるを得ませんでした。
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[ インドネシアの独立 ]
オランダ軍は進攻してきた日本軍との僅か 10 日間の戦闘 で降伏したために、350 年間続いた植民地支配は 一旦は終わりを告げました。しかし太平洋戦争終了後に オランダは再びやって来て植民地支配を復活させようとしたため、インドネシア人との間で独立戦争が始まりました。
戦車、飛行機などの近代兵器を持つ 10 万の オランダ軍との 4 年間の独立戦争の末に、インドネシアはようやく勝利を得ましたが、その間に女性子供など 80 万人が オランダ兵により殺害されました 。
インドネシアのスカルノ大統領は、
我々が独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである、と述べました 。
注:)
敗戦当時 インドネシアに駐留していた日本軍兵士の中には、敗戦後の祖国に捕虜として帰るよりも現地残留を望み、インドネシアの独立軍からも戦力増強のため残留を要望されたため、オランダとの独立戦争に参加した者もかなりいました。敗戦後の混乱の中でその正確な数は不明ですが、残留日本兵の数は 1 千名とも 2 千名ともいわれていて、そのうち約 6 百名が独立戦争で死亡したといわれています。
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