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4オウム真理教とキリスト教の審判思想
やすい:オウム真理教事件の衝撃がひっかかっています。オウム真理教がサリンを撒いたりして、神仙民族としてオウム真理教に従わない旧人類を抹殺するハルマゲドンを仕掛けようとしたということです。それは『ヨハネ黙示録』を論拠にしているんです。実際『ヨハネ黙示録』の中にはほとんどの人類に対して審判を行う神があるわけです。愛の象徴みたいに見られているイエス・キリストは、「ほふられた仔羊」としてホロ・コーストの先頭に立っているんです。それがある限り、キリスト教に対して非キリスト教の人達は、自分たちが神に滅ぼされるのを待ち望んでいるような連中と、仲良く出来るだろうかと、根源的に疑問になりますよね。
今の時代は世界が一つに統合していっている時代ですので、文化的な摩擦が激しくなる恐れがあるわけです。だから『ヨハネ黙示録』を聖典である『バイブル』に残しておいていいのかと、本気で問いかける必要がある気がしてきたんです。それで『ヨハネ黙示録』を読みますと、神が人類を大量殺戮するというイメージしか伝わってこないんです。じゃあ『ヨハネ黙示録』だけにそういう恐ろしい審判思想があるのか、というとそうでもないんです。ぼくは『バイブル』というのは、非常に尊い愛の教えが説かれているという固定観念で捉えていたんです。神の愛の権化みたいにフェティシュ化して『バイブル』を見ていたんです。ところが読みなおしてみますと、「ノアの方舟」は一家族を除いて人類全滅だし、ソドムとゴモラも皆殺しみたいなものです。福音書のイエスだってかなり恐ろしい 審判思想を語っています。キリストの再臨は審判の為だというイメージが強いんです。
ユダがイエスを裏切ったのですが、彼は悪で懸賞金が欲しくて裏切ったのではなく、イエスが有罪を宣告されると首を括って自殺しているんです。それでキリストに対する幻滅があって裏切ったのじゃないかという気がしたんです。幻滅すると破壊するというのは、石塚さんのいうポジティブ・フェティシズムにあたるんじゃないかと思って、「キリスト悲劇のフェティシズム」を書いたのですが、どうでしょう?
石塚:パピルスに書かれたものが『バイブル』なんです。つまりもう書くのは支配者に属する知識人なんで、書かれたものである以上は支配の諸側面を反映しているのです。しかし普遍的なものだということを示すために愛の聖典となるわけだから、聖典や経典なんてみんなそんなようなもので、読みが二重になるのは当たり前だと思うんですね。じゃあ何故あんな大殺戮のようなものを説いたのか、ということですが、いつも一方的に神の方に 理があるわけだから、たとえノアの洪水のように一家族以外はすべて滅ぼしても、絶対神様は責められないんです。それは滅ぼされたほうが悪いわけだから。悪いほうが滅ぼされるのは当たり前だから。
やすい:悪いと書いてありますからね。
石塚:それと同時にその悪をも救い取るのがイエスの場面で、ユダは悪いと百も承知の上で食事に招待するし、自分が捕まると分かっていて、私を食べなさいと最後の晩餐をするわけです。どうして聖なる愛の神が大殺戮をするんだと疑問に思われる背景は、ヨーロッパの宗教だと思うからなんです。元々はユダヤ教・キリスト教はオリエントの宗教なんです。「目には目を、歯には歯を」という言葉が『バイブル』に入っちゃうぐらいだから、かなりの部分ゾロアスターなんです。ゾロアスターにおいては善神と悪神、光と闇の二項対立で、善や光が勝つという信仰です。
やすい:『新約聖書』「ヨハネによる福音書」にもあります。光が結局イエスで、闇は光に勝てなかったというのがあるんです。
石塚:それでその闘争の場面というのは、神様には両義性があるというのが、断ち切られたときに出てくるんです。本来は善神の中に悪神があって、分断出来ないものなんです。 それが分断されたのは、第一形態が第二形態に進んでいるということなんです。そこでは徹底的に悪は滅ぼされると言うことになるんですよ。第一形態では善神と悪神は分断できないから入れ替わるんですよ。それが『バイブル』にも、愛の神がホロ・コーストをする という形で、現れているんじゃないかと思います。そういう意味ではイエスの言ってることは、庶民のレベルでは両義性を持って読み取れるんじゃないかと思うんです。そして今、ハルマゲドン、麻原彰晃なんて型に嵌めて、読むからそう読めるんで、その背後には実はこもごもになった信仰形態というのがあるんじゃないかと思うんです。それがイエスと ユダで、その意味では、ぼくはやすいさんの唱えた、《ユダにとってイエスがフェティシュ》だって説は、素直に受け入れられますね。ただフェティシズムには人格神は馴染みませんから、それも習合しているということになりますね。
やすい:でも「王殺し」等もフェティシズム的でしょう?
石塚:それも既に霊が移動するのでアニミズムなんです。アニミズムというのは「アニメーション」から言って「動く」という意味です。霊が動くのは第二形態なんです。もちろん習合してますから、「王殺し」もフェティシズム的なのです。ですからイエスを裏切るのもフェティシズム的です。《ユダがフェティスト》というのは、言い得て妙です。
やすい:最近『バイブル』の審判思想を読んでいますと、恐ろしい神を待望するということは、自分が審判できないから、代わりに神が審判してくれるという、審判そのものがすごく民衆の欲求を神が代理してるんじゃないかという気がしてきたんです。ひとつのお祭りみたいな感じで、時がくれば審判が下って、自分の仲間以外はみんな殺されてしまうという期待です。これは民衆の中にある強烈な殺人願望の現れです。審判というものには、 民衆は物凄く興奮してカタルシスを感じるものではないかという気がするんです。
石塚:それはフロイト的な読みとしては可能ですね。愛しているから苛めるとか、深く交わる為には傷つけ合うといいますね。また排外主義は愛の裏返しだといわれます。元々は自分たちは苛めたいんだけどそれができないから、神様に代わりに絶滅してもらうという発想は、神観念を古いほうに逆上れば、逆上るほどないですよね。人間を殺すという発想はないんです。共同体同志の戦争というのはあります。でもおそらく同じ人間とみなしてやっているとすれば、残酷なんだけれど、そうじゃなければなんの残酷性もありません。 相手は同じ人間なんだけど許せないことをしたので殺すというようなイメージで、果してハルマゲドンの原風景があったのかは、ちょっと別でしょうね。
やすい:ちょっとフロイト的な読みに過ぎるという感じですかね。でももちろん超越神論になってきてからの審判思想ですからね。だからフェティシズムから抜け出したところで、文明的な民衆の欲求不満というものは、そういうホロ・コーストまでいくのかなあと『バイブル』読んでて、そういう気がしたんです。
石塚:だけど基本的に闘争し合うこと自身は、次元やレベルの問題、一線を越える越えないの問題はあるとしても、これは人間的ですよね。喧嘩し合うことが愛情を醸しだすわけですからね。必ず交互なんですから、愛と憎しみはセットで、愛情ゆたかな人は、必ず非常に憎む心も持ってる筈なんですよ。そういう意味では大量殺戮は別にし、人を苛めるということ自体は、ある意味では自然なものです。その一方だけを超越神論なんかは、俺は善の方だけで、俺を信じない連中は悪だけと弾劾していくから、ハルマゲドンみたいな、とんでもないものになるので、麻原的なものはもうあの時からあったんじゃないかと思うのです。そういう意味からも、フェティシズム・トーテミズム的なものを研究しなおすと いうのは意味がありますよね。
やすい:フェティシズムに対抗して出てきた超越神論の性格として、超越神論をとってると無限的な力になっていくので、ただいじめ合うだけではなくて、全面展開してしまい、全人類規模のホロ・コーストまでいってしまったということですね。そういう意味ではフェティシズムの方が限界を知っている感じもしますね。
石塚:だから中世以降に現れてくる農民指導者トマス・ミュンツァーや、ぼくが研究したワイトリングなど聖書でもって農民一揆や革命をやろうとする人達の発想は、イエスに戻れというわけですよ。それは三位一体のイエスに戻れというのではなくて、この地上を弟子たちと一緒に歩いていて、社会やソキエタス的な世界を作っていたイエスに戻れというわけですよ。だからぼくの読みでいくとフェティシズムに戻れということですよ。
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