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2008年5月8日木曜日
武士道とは何か
人の道を照らしつづける武士道の道
l 私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象であり、手に触れる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち我々を引きつけてやまない存在である。
武士道は「騎士道の規律である」
l 騎士道:中世ヨーロッパの騎士階級特有の気風。キリスト教を信仰し、勇気・忠義・名誉・道徳・婦人への奉仕を重んじた。
l 武士道:武士の守らなければならない道徳。名誉を重んじ、忠節を誓い、信義にそむかない生き方。
l 武士道は戦士たる高貴な人の本来の職分のみならず、日常生活における規範も意味している。一言で言えば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務」である。
人々の心に刻み込まれた掟
l 武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教育を受ける道徳的徳目の作法である。
壮大な倫理体型のかなめの石
l 「卑怯者」と「臆病者」というレッテルは健全かつ単純な性質の人間にとっては最悪の侮辱的言辞である。
第二章 武士道の源を探る
仏教と神道が武士道に与えたもの
l 仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可解なものへの静かな服従、危険や災難を目前としたときの禁欲的な平静さ、性への侮辱、死への親近感などをもたらした。
l さらに神道によって刻み込まれた、主君に対する忠義、祖先に対する尊敬、親に
l 対する孝行などは他のいかなる宗教によっても教わることのなかった教義である。神道において鏡は人間の心の表像である。心が完全に落ち着き、清明であるとき、そこには「神」の姿を見ることができる。
武士道の源泉は孔子の教えにあり
l 冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。
武士道は知識のための知識を軽視する
l 知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となる。知識は人生における実際的な知的適応の行為と同一のものとみなされた。
l 「知行合一」を説いた王陽明をその最大の解説者として見いだした。
武士道の基本原理とは何か
第三章 「義」−武士道の光り輝く最高の支柱
(義:筋道が立っていること。人としてしなければいけないこと。勇:いさましい。おもいきりがいい。)
「義」は「勇」と並ぶ武士道の双生児である
l 「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいう也。
l 死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也。」
l 「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」この素直で、正直な、男らしい徳行(義)はもっとも光り輝く宝の珠であった。義はもう一つの勇敢という徳行にならぶ、武の双生児である。
「正義の道理」こそ無条件の絶対命令
l 親に対する行為においては愛情が唯一の動機である。だが万一、愛情をもてなくなったときは、親に対して孝養を命ずるか何か別の権威が必要である。そのような事実から義理は生まれた。義務がわずらわしく感じられたときには「正義の道徳」が私たちの怠惰を防ぐために乗り込んでくる。「義理」は、手に鞭をもって怠け者にそのなすべき事を遂行させる厳しい親方となる。もし「武士道」が鋭敏で正当な勇気の感性、果敢と忍耐の感性をもっていなかったとすれば、義理はたやすく臆病の巣に成り下がっていたにちがいない。
第4章 「勇」−いかにして肚(ハラ)を錬磨するか
義を見てせざるは勇なきなり
l 勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。「義を見てせざるは勇なきなり」死に値しないことのために死ぬことは「犬死」と賤しめられた。「人が恐れるべきことと、恐れるべきでないことの区別」こそ勇気である。
l サムライの若者で「大儀の勇」と「匹夫の勇」の区別を教わらなかった者があろうか。勇猛、忍耐、果敢、豪胆、勇気−これらはもっとも容易に少年の魂に訴え、その実践と手本を示すことによって彼らを訓練できる資質である。
平静さに裏打ちされた勇気
l 勇気の精神的側面は落ち着きである。勇気は心の穏やかな平静さによって表される。平静さとは、静止の状態における勇気である。
l 破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。地震にもあわてることなく、嵐に向かって笑う。勇気と名誉はともに価値ある人物のみを平時に友とし、戦時においてはそのような人物のみを敵とすべきことを要求しているのである。
第5章 「仁」−人の上に立つ条件とは何か
(仁:貧乏人・病人・愚者など、どんな人々に対してもその人を心の底から仲間として親しみ思いやる気持ち。いつくしみ、なさけ。)
民を治めるための必要条件は「仁」にあり
l 愛、寛容、他社への同情、憐れみの情はいつも至高の徳、すなわち人間の魂がもつあらゆる性質の中の最高のもの。王者にこそもとして認められてきたっともふさわしい徳である。
徳と絶対権力との関係
l 封建制度のもとでは容易に武断政治におちいりやすい。私たちが最悪の専制政治から救われているのは仁のおかげである。
「武士の情け」に内在する仁
l 仁は優しく、母のような徳である。高潔な義と、厳格な正義を、特に男性的であるとするならば、慈愛は女性的な性質である優しさと論す力を備えている。もっとも剛毅なる者はもっとも柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なる者である。サムライの慈悲は盲目的衝動でなく、正義に対する適切な配慮を認めている。その慈悲は、単に心の状態の姿というのではなくて、生かしたり殺したりする力を持っていることを意味する。敗れたる者を慈しみ、おごれる者を挫き、平和の道を立つること
いつでも失わぬ他者への哀れみの心
l か弱い者、劣った者、敗れた者への仁は特にサムライにとって似つかわしいものとして、いつも奨励されていた。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重する事から生まれる謙虚さ、慇懃(インギン)さが礼の根源である。
第6章 「礼」−人と共に喜び、人と共に泣けるか
(礼:守らなければならない作法)
礼とは他人に対する思いやりを表現すること
l 長い苦難に耐え、親切でむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない。
礼を守るための道徳的な訓練
l 奥ゆかしさとはもっとも無駄のない立居振る舞いである
優雅な作法は力を内に蓄えさせる
l あらゆる礼法の目的は精神を淘汰することである。
l 正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序をもうけ、かつ身体を環境に調和させて精神の統御が体中にいきわたるようにする事を意味する。
l 礼儀は優雅な感受性として表れる礼儀は慈愛と謙遜という動機から生じ、他人の感情に対する優しい気持ちによって物事を行うので、いつも優雅な感受性として表れる。
第7章 「誠」−なぜ「武士に二言はない」のか
(誠:いつわりのないほんとうのこと。相手を全力で思いやる心。)
真のサムライは「誠」に高い敬意を払う
l 真実性と誠意がなくては、礼は道化芝居か見せ物のたぐいにおちいる。
l 「度を越えた礼は、もはやまやかしである」嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていると考えていた。
武士道と商人道とは何が違うか
l サムライは土地からその禄を得ていたし、もしその気があれば家庭菜園で農耕をすることもできた。だが銭勘定ごとと算盤は徹底して忌み嫌った。
誠とは実益のある徳行
l 偽りの証言をする事に対するなんらかの積極的な戒めがない中で、嘘をつくことは罪悪としてとがめられたのではなく、むしろ弱さとして批判された。そして、弱さは大いに不名誉であった。
第8章 「名誉」−苦痛と試練に耐えるため
(名誉:すぐれているという評判を得ること)
不名誉はその人を大きく育てる
人を人たらしめている部分、そしてそれを差し引くと残るのは獣性しかない。
高潔さに対するいかなる侵害も恥とされた。そして羞恥心という感性を大切にすることは、幼少の教育においても、まずはじめに行われた。羞恥心は人類の道徳意識の出発点である。
武士道はなぜ忍耐強さの極致に達したのか
l 名誉の繊細な掟がおちいりがちな、病的な行き過ぎは寛容と忍耐で相殺される。ならぬ堪忍、するが堪忍、取るに足らない侮辱に腹をたてるならば、すぐれた人物にふさわしくないが、大儀のための義憤は正当な怒りである。
名誉はこの世で「最高の善」である
l 名誉は「境遇から生じるものではなく」て、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにある。恥となることを避け、名をかちとるためにサムライの息子はいかなる貧苦をも甘受し、肉体的、あるいは精神的苦痛のもっとも厳しい試練に耐えたのであった。もし名誉や名声が得られるならば、生命自体はやすいものだとさえ思われた。したがって生命より大切とする根拠が示されれば、生命はいつでも心静かに、かつその場で棄てられたのである。
第9章 「忠義」−人は何のために死ねるのか
(忠義:国や主人にまごころをつくして仕え、命さえ捨てること)
日本人の忠義とはいったい何か
l 主君に対する臣従の礼と忠義の義務は封建道徳を顕著に特色づけている。忠義心がもっとも重みを帯びるのは、武士道の名誉の規範においてのみである。
命令に対する絶対的な従順が存在した
l 義務の命ずるところに対する従順、そしてより高い世界から発せられる命令に対する絶対的な従順が存在した。
武士道では個人よりも国を重んじる
l 武士道においては、一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする。武士道はこの利害を愛情、すなわち自然で、本能にもとづくもので、かつ他の者がとってかわることができないもので結びつけた。
サムライの真の「忠義」はここにある
l 己の良心を主君のきまぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲(イケニエ)にする者に対しては武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は「佞臣(ネイシン)」すなわち無節操なへつらいをもって主君の機嫌を取る者、あるいは「寵臣(チョウシン)」すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄(ロウ)して主君の意を迎えようとする者として軽蔑された。主君と意見が分かれるとき、家臣のとるべき忠節の道は、あくまで主君のいうところが非であることを説くことであった。もしそのことが容れられないときは、サムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。
第10章 武士は何を学び、どう己を磨いたか
行動するサムライが追求した「品性」とは何か
武士の訓育にあたって第一に必要とされたのは、その品性を高めることでった。明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされた。武士道の枠組みを支えているかなえの三つの脚は「智、仁、勇」といわれ、それぞれ、知恵、慈愛、勇気を意味している。
武士道は損得勘定をとらない
l 武人の徳とされている功名心は汚れをまとった利益よりも、むしろ損失を選ぶ厳格かつ質素な生活が武士階級に要求された。金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。
武士道は無償、無報酬の実践のみを信じる
l 若者を教育する主たる目的は知性ではなく品性をたかめることであった。サムライは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。また学問が目指すところのものの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。
第11章 人に勝ち、己に克つために
サムライは感情を顔に出すべからず
l 武士道においては不平不満を並べたてない不屈の勇気を訓練する事が行われていた。他方では礼の教訓があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の愉快や平穏をかき乱すことがないように求めていた。サムライにとって勘定を顔に表すことは男らしくないと考えられた。
なぜ「寡黙(カモク)」がよしとされるのか
(寡黙:ことば数がすくないようす。むくち)
l 多弁を弄して心の奥底の思想や感情、特に宗教的な感情を述べるという事は、私たち日本人にとっては、その行為自体があまり深刻でなく、また誠意に欠けるしるしであるとされる心を安らかに保つために克己の理想とは、心の安らかさを保つことである
第12章 「切腹」−生きる勇気、死ぬ勇気
腹切りの“ハラ”は何を意味するか
l 切腹がいささかも不合理でないとするのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念にもとづいている。
l 我はわが霊魂の座(イマ)すところ開き、貴殿にそれを見せよう。汚れありとするか、清しとするか、貴殿みずからこれをみよ。
切腹は一つの法制度、儀式典礼である
l 切腹とは、武士が自らの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、盟友を救いみずからの誠実さを証明する方法であった。きわめて冷静な感情と落ち着いた態度がなければ、誰も切腹などはできなかった。
切腹はどう行われたか
武士道における生きる勇気と死ぬ勇気
l 真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋いこがれることは卑怯と同義語であり、武士道の教えは、あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心を持ってたちむかうことであった。真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。そのためには死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしている者を避けるための死は、卑怯きわまりない。死を軽蔑するのは勇気の行為である。しかし、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることが真の勇気である。
「四十七士」の仇討ちに見る二つの判断
l 老子は「怨に報いるに徳を似てす」と教えた。しかしながら「真を以て怨に報ずべき」と教えた孔子のほうがはるかにもてはやされた。だが仇討ちは目上の人や、恩義のある人のためになされるときのみ正当とされたのである。かくして「刀」は「武士の魂」となったこれらの血なまぐさい制度からも、また武士道の一般的な傾向からしても、刀が社会の規律や生活にとって重要な役割を果たした。
第13章 「刀」−何故武士の魂なのか
刀は中世と名誉の象徴
l 武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。
l 剣は天国の鍵でもあれば、地獄の鍵でもある
鍛冶は重要な宗教的行為だった
l 日本の刀剣が人を畏怖させるほどの魔力を持つのは、刀鍛冶たちの気迫によるか、あるいは彼が加護を祈った神仏の冷気によるものだろうか
武人の究極の理想は平和である
l 武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを嫌み嫌った。やたらと刀を振り回す者は卑怯者か、虚勢をはる者とされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべき時はどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はごく希にしかやってこないのである。
第14章 武士道が求めた女性の理想像
家庭的であれ、そして女傑であれ
l 若い娘たちは、感情を抑制し、神経を鍛え、「薙刀」と呼ばれる武器を操り、不慮の争いに対して自己の身体を守れるように訓練された。その動機は二つあり、一つは個人のためもう一つは家のためであった。女性は夫たちが主君の身を護るのと同じくらいの熱意でわが身を潔く守った。
女性に求められる立居振舞い
貞操はサムライの妻にとってはもっとも貴ばれた徳目であって、生命を賭しても守るべきものとされていた。
妻女の努めとは何か
自己否定なくしては「内助」の功はありえない
l 武士道は自己の個性を犠牲にしても自己自身より高次の目的に役立たせることとした。
l 女性が夫、家、そして家族のために、わが生命を引き渡すことは、男が主君と国のために身を棄てることと同様に、自らの意志に基づく者であって、かつ名誉ある事とされた。
サムライ階級の女性の地位について
家庭において重んじられた女性
l 女性は社会的、あるいは政治的な存在としては重要ではないが、他方、妻、あるいは母としては女性は最高の尊敬と深い愛情を受けていた。
第15章 「大和魂」−いかにして日本人の心となったか
一般大衆を引きつけた武士道の徳目
サムライは民族全体の「美しき理想」
l 武士階級は営利を追求することを堅く禁じられていたために、直接商売の助けをするということはしなかった。しかしながら、いかなる人間の活動も、いかなる思考の方法も、武士道から刺激を受けずにいられなかった。日本の知性と道徳は
l 、直接的にも、間接的にも武士道の所産であった。
「エリート」の栄光、憧れ、そして「大和魂」の典型
l 武士道精神がどのようにあらゆる社会的身分の中に浸透していったか、ということは「男伊達」として知られるある種の侠客の親分、すなわち民衆の中の自然なリーダーの発達によって見ることができる。彼らは義侠心にあふれた連中で、頭の中から足先まで、ごうかいな男らしい力をみなぎらせていた。
サクラは「大和魂」の典型
l 私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いは決して華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。
第16章 武士道は甦るか
武士道は日本の活動精神、そして推進力である
知性がもたらした発見は人類共有の遺産である。しかし性格の長所や短所は各民族がそれぞれ継承する固有の遺産である。それらは幾世紀にもわたって、日夜、海水で表れている硬い岩のようなものであって、わずかに表面のとがった部分が削り取られているにすぎないものである。
自己の名誉心、これが日本の発展の原動力
l 人類がかって考え出したことの中で、もっとも厳しく、高尚で、かつ厳密な名誉の掟が、国民の間に支配的な影響力を持つ
日本人以上に忠誠で愛国的な国民は存在しない
武士道による無言の感化
第17章 武士道の遺産から何を学ぶか
武士道はその姿を消す運命にあるのか
名誉、勇気、そして武徳のすぐれた遺産を守れ
l 人間の闘争本能という者は普遍的で、かつ自然なものであり、また高尚な感性、男らしい徳目であるとしても、それは人間性のすべてではない。もっとも神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能の下にある。武士道や戦闘者タイプの道徳は、直接的な現実の欠くべからざる問題ののみとり組まざるをえなかった。そのため、しばしばこの愛するという本能の存在を正当に取り扱うことを閑却してきたのである。
l 武士道は我々が預かっている財産にすぎず、そせんおよび我々の子孫の者である。それは誰も奪い取ることはできない人類永遠の家禄である。
不死鳥はみずからの灰の中より甦る
武士道は不滅の教訓である
五倫の道:君臣、父子、夫婦、長幼、朋友
5常:仁・義・礼・智・信
武士道:智・仁・勇
叡智:物事の本質を見通す、深くすぐれた知性
奢侈:けたはずれに贅沢なこと
義:筋道が立っていること。人としてしなければならないこと
義を見てせざるは勇 無きなり
そうすることが正しいとわかっていながらしないのは、勇気がないからである。
志気・志操:主義や考え方などをかたく守る意志
義:すじみちが立っていること。人としてしなければならないこと。
利:もうける。もうけ
見識:物事の本質を見抜く
慈悲:あわれと思い、深い愛情を持って相手を救いたいと思う心
仁愛:親しみ思いやる心を持って、広く人を仲間と思い、愛すること
風格:人がらや言動などに自然とあらわれる、独特の味わいの深さ
投稿者 yanagihara tetsutarou 時刻: 20:47
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