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日本人が知らない 恐るべき真実 研究ノート
■c-6-5 キリスト教は植民地支配の先兵だった
2006-03-13
日本に初めてキリスト教を伝えたとされるイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、教科書に載っているそのユーモラスな服装から今日ではマンガやギャグにも使用され、かなり好意的に受け入れられているようです。しかし、イエズス会は世界へキリスト教を広めることを目的とし、そのためには軍事力も利用した、かなり戦闘的な修道会であったようです。ちなみに、イルミナティを創設したアダム・ヴァイスハウプトもイエズス会の出身です。
1582年、日本に3年ほど滞在したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、フィリッピン総督のフランシスコ・デ・サンデに下記のような手紙を出しています。
「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができます。なぜなら、国民は非常に高貴かつ有能にして、理性によく従うからです。もっとも、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きでしょう。なぜなら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛かつ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからです。しかしながら、支那において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるでしょう。それゆえ日本の地を極めて重視する必要があります。」
ちなみに「支那において陛下が行いたいと思っていること」とは、スペインによる中国の植民地化のことと思われます。つまり「日本には資源が少なく、国民は強いので、植民地にするには向いていないが、その軍事力は支那の征服に利用できるから、日本へのキリスト教の布教を重視する必要がある」ということでしょう。
当時の覇権国スペインは、植民地フィリピンを足場として、極東各地に対し積極的な貿易と布教を行っていました。
1570年から81年まで日本でイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年、スペイン国王宛の書簡で、支那の征服には下記のような利益があるとしています。
1.支那人全体をキリスト教徒に改宗させることは、主への大きな奉仕である。
2.それによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。
3.支那との自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされる。
4.その関税により王室への莫大な収入をあげることができる。
5.支那の厖大な財宝を手に入れる事ができる。
6.それを用いて、すべての敵をうち破り、短期間で世界の帝王となることができる。
さらに、
「私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千ないし8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分でしょう。〈中略〉日本に駐在しているイエズス会のパードレ神父たちが容易に2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるでしょう。彼らは打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、嬉々としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するでありましょう。」
と、このように日本のキリスト教徒を支那征服のための傭兵にしようとしていたようです。
日本に上陸したイエズス会は、教会だけでなく、学校や病院、孤児院を建設し、西日本を中心にキリスト教徒=キリシタンが増えていきました。しかし、御存知のように徳川家康によって、キリシタンは弾圧されていきます。
当初、家康は、貿易のためにキリシタンを黙認していました。しかし、家康がなぜ黙認から弾圧へと方針を変えたの?それについての説明は教科書には載っていません。
1585年、イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョは、当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めました。その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束したそうです。さらに秀吉が「日本を平定した後は、支那に渡るつもりだ」と言うと、「その時には2艘の船を提供しよう」と申し出たそうです。
このような申し出に、秀吉は「イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持っているのではないか」と疑い始めました。
1587年、秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えました。
日本にはないタイプの軍艦なので、秀吉の軍をおおいに驚かせたといいます。その前に、秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が破壊されているのを見て激怒していました。秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、伴天連(バテレン)追放令を出します。
ちなみに、その理由は、
1.宣教師による信仰の強制。
2.キリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害。
3.宣教師たちの牛馬の肉食。
4.ポルトガル人による奴隷売買。
とされています。実際、島原の大名、有馬晴信は、宣教師の求めに応じ、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送っていたそうです。
慌てたコエリョは有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名たちを結集して秀吉に敵対するよう働きかけました。そして、自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備しました。しかし、この企てに有馬晴信が応じず、実現はされませんでした。
コエリョは次の策として「2〜3百人のスペイン兵の派兵があれば要塞を築いて秀吉の武力から教界を守れる」とフィリピンに要請しましたが、その能力はないと断られたようです。
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が多勢を占めるようになりました。1590年から1605年頃まで日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年、イエズス会総会長に下記のような手紙を出しています。
「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足しています。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができましょう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち九州または四国を包囲することは容易でしょう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るでしょう。〈中略〉このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにしましょう。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適しています。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にあります。〈中略〉スペイン人はその征服事業、ことに機会ありしだい敢行すべき支那征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来ます。」
このような計画を背景に、のちに島原の乱が起こったのではないかと推測されます。
ちなみに、キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段でした。
1598年、秀吉が亡くなると、このようなキリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれます。
家康が恐れていたのは、秀吉の遺児、秀頼が大のキリシタン贔屓で、スペインの支援を受けて大阪城に籠もって徳川と戦うという事態でした。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放しています。
江戸幕府は、1624年、スペイン人の渡航を禁止し、さらに1639年、ポルトガル人の渡航を禁止しました。朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確には「鎖国」と言うより「キリシタンとの絶縁」と言うべきでしょう。
【参考】『国際派日本人養成講座』
キリシタン宣教師の野望
島原の乱 〜 持ち込まれた宗教戦争の種子
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