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君が代
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君が代
「君が代」の楽譜(国旗及び国歌に関する法律による)
国歌の対象 日本
作詞 不明(読人しらず)(905年古今和歌集初出)
作曲 林廣守、奥好義、フランツ・エッケルト
採用時期 1880年10月26日(非公式)
1888年(対外正式公布)
1999年8月13日(立法化)
試聴
君が代:楽器による演奏
表・話・編・歴
君が代(きみがよ)とは、日本の国歌である。
明治維新後の1880年(明治13年)に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになった。1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌である。
目次
1 歌詞
2 歴史(制定までの経緯)
2.1 日本における君が代の認識
2.2 和歌としての君が代
2.2.1 テキストと作者
2.2.2 解釈
2.3 国歌になるまでの君が代
2.4 明治維新から「君が代」制定まで
3 国歌としての君が代
3.1 第二次世界大戦前
3.2 第二次世界大戦後
4 君が代をとりまく現状
4.1 意見の対立
4.2 著名人の意見
4.3 教育現場
4.4 国際スポーツ競技
4.5 放送局での君が代の演奏
5 異説
5.1 沖縄の元の歌を起源とする説
5.2 九州王朝時代を起源とする説
5.3 もとは挽歌であるとする説
6 歌としての論評
7 関連する楽曲
8 参考音源
9 脚注
10 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
歌詞
ウィキソースに君が代の歌詞と楽譜の原文があります。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである[1]。
日本の国歌の歌詞を以下に引用する[2][注 1]。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで
– 君が代, 日本の国歌
チェンバレンバジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する[3]。
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
歴史(制定までの経緯)
日本における君が代の認識
国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[4]
つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[4]。
こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。
和歌としての君が代
テキストと作者
作者は未詳。
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[5][6]。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[7]。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[7]。
解釈
万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのか、はたまた別の王朝(徳川家など)なのかどうかということがしばしば問題にされる。
『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[8]。
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[9]。
これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[4]。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[9]。
別の解釈もある[要出典]。「君」=神の源語(元々沖縄では自分より偉大な者に君と言った)[要出典]、さざれ石=神の降臨する石[要出典]。つまり神の世であり続き、力(巌)が世に届き、苔のむすまで未来永劫続きますようにとのこと[要出典]。
国歌になるまでの君が代
元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。
江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる[10])、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた[11]。
明治維新から「君が代」制定まで
薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ
横浜妙香寺境内 薩摩バンドの碑ウィキソースに歌詞の原文があります。1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[5][12]。国歌の概念が無かった日本人に対してフェントンがどのような説明を行ったかは定かではないが、国王を言祝ぐ英国国歌"God Save the King"が手本にされたのであろうと言われている[要出典]。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただしこの説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。
当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[5][6][12]。
同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[6][12]。
その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[6][13]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[13]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[6]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[14]。
国歌としての君が代
この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2008年11月に貼り付けられました。
この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2008年11月に貼り付けられました。
第二次世界大戦前
大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後には、「主権在民」を定めた日本国憲法が制定された。1947年(昭和22年)5月3日の憲法施行記念の式典で斉唱された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。
日本国政府の公式見解は、国旗国歌法が提出された際の1999年(平成11年)6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[15]。
君が代をとりまく現状
この節は言葉を濁した曖昧な記述になっています。Wikipedia:言葉を濁さないを参考に修正して下さい。このタグは2009年12月に貼り付けられました。
国旗国歌に対する問題については「国旗及び国歌に関する法律」を参照
意見の対立
君が代は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[注 5]において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答した[16]。
一方で、君が代の歌詞への一部の反対意見は現在でもしばしば取り上げられ、(主に日本教職員組合や傘下の教職員労働組合による)教育現場での「君が代伴奏」「君が代斉唱」反対運動も存在する。主な肯定的/否定的意見には以下のようなものがある。
肯定的意見
事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしい
国民は愛国心を持つべきであるから「君が代」を歌うことでその意識を高めなければならない
君が代によって天皇陛下への忠誠心を涵養(かんよう)する
否定的意見
大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い(「君」は天皇を指すため)
軍国主義を象徴している
著名人の意見
1999年に石原慎太郎は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えている[17]。
1999年に菅直人は「厚生大臣を務めていたときは終戦の日の戦没者慰霊式や、日本青年会議所のセレモニーに招かれたときにも歌った。」と、歌うことについては肯定的な一方で、君が代そのものに対しては「もう少し明るい歌でもいい。歌詞も(解釈が)わかりにくい部分があり、1回議論してみるのは良いことだと思う」と述べた[18]。
教育現場
「君が代」の教育現場での扱いについては議論になることが多いテーマである。
1998年(平成10年)頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが日教組側は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びにこれを支持する保守派との対立は続いてきた。職務命令が発せられていること自体は事実で、職務命令の服従を拒否した結果懲戒処分を受け、その取消を求める訴訟も頻発している。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は上昇している(君が代に対する意見の対立については、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
国際スポーツ競技
国際競技大会やオリンピックでの表彰式・FIFAワールドカップでの試合前の「君が代」斉唱が、各国の国旗掲揚・国歌斉唱と同様に、起立・脱帽の上、厳粛に行われている。 ※しかし、リレハンメルオリンピックでは出場国中、日本(選手や記者団等)のみが起立さえせず、世界中のメディアから批判を浴びた。
日教組は、「日の丸・君が代」を拒否しているが、「君が代」に代わる新しい国歌の制定を主張していない。
放送局での君が代の演奏
1951年(昭和26年)9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が独立国に復帰して以降、日本放送協会 (NHK) のラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局した1953年(昭和28年)2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。
しかし、近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日の録音演奏が流れるのはNHKラジオ第2放送とNHK教育テレビのそれぞれの終了時のみである。ただしNHK教育は24時間放送を行っていた2000年(平成12年)から2006年(平成18年)4月までは放送休止を行う時(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)に流れていた。あとはNHK総合テレビの減力放送・拠点局の放送休止明け(主として月曜早朝。歌詞についてはテロップ表示される局とされない局がある)に流れる。
また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年(平成10年)4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日0時のニュース明けに、FNN/FNS・NNN/NNS系列のテレビ大分とFNN/FNS系列のテレビ熊本でも放送開始・終了時に日章旗掲揚と共に演奏されていた。
アール・エフ・ラジオ日本で放送されているミッキー安川がパーソナリティーを務める一連の番組、「ミッキー安川の「勝負」シリーズ」のうち『ミッキー安川のスーパーフライデー』と『ミッキー安川の雑オロジー』において0時前後に「君が代」の合唱を流す。かつては『ミッキー安川のずばり勝負』と『ミッキー安川の朝まで勝負』においてアシスタント・ゲスト出演者を含めて番組冒頭に生斉唱していたが、最近は以前『朝まで勝負』で斉唱された録音を流す。当初は正調演奏だったが、歌い出しが揃わない事が多く、歌いやすい様に最初の一小節をリフレインした編曲で演奏されている。
スカパー!217chで間借り放送をしているチャンネル桜では、間借り放送開始時と終わりの時に、日章旗と共に「君が代」の演奏が流れる。
フジテレビで放送された世界フィギュア選手権の女子フリーで2007年・2008年・2010年と日本人選手が優勝したのにも関わらず、国旗(日章旗)掲揚及び国歌(君が代)演奏・斉唱がカットされ、2009年の韓国人選手が優勝したときは国旗掲揚・国歌斉唱が放送され批判されたこともある。
異説
沖縄の元の歌を起源とする説
沖縄に「石ナグム」という歌がある。 ここから変化したとする説もある。
九州王朝時代を起源とする説
九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している[19][20]。
「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が見つかった福岡県・志賀島の志賀海神社で4月と11月の祭礼(山誉め祭[21])として以下のような神楽歌として古くから伝わっている。なお、この山誉め祭は、民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の無形文化財に指定されている。
君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな
– 山誉め祭, 神楽歌
糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。なお、桜谷神社の「苔牟須売神(コケムスメ)」とは地元では「盤長姫命(イワナガヒメ)」の事として伝承されている[22]。
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。
『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
糸島・博多湾一帯[23]は参考資料[24]」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。
もとは挽歌であるとする説
藤田友治を中心として唱えられている、およそ以下のような説[25]。
国歌の元歌とされる古今集の賀歌は『万葉集』の挽歌を本歌にしたものであり、もともとは挽歌である。
本来挽歌であったものを賀歌にしたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の個人的創作活動である。
したがって国歌になった「君が代」も挽歌なのだと認識すべきである。
歌としての論評
「小さな石が大きな岩になる」という内容が非科学的であるとの批判がある。これに対して、以下のような反論がある。
これは地質学的に一般的な現象である。小さな砂粒が大きな石になる例には細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。非科学的という誤解は歌詞の正確な理解を欠くことによる。
これはそもそも文学表現である。「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞である。
「メロディが歌いづらい」「歌詞が陰鬱だ」などといった意見がある。ただ、この曲調は、雅楽の中でも大陸文化がもたらされる以前の形式である神楽歌が基調とされていることに起因する。
永六輔は「大勢で歌うと揃わない歌」だとして、特に「さざれ石」の一息が続かずに「さざれ」で息継ぎをして後が微妙に遅れる者が出やすいと述べた[26]。ちなみに朝鮮半島のパンソリふうに歌うとピタリとはまるとも述べた。母音で伸ばすのはパンソリの歌い方だという永の意見に対しては、パンソリでなくとも母音で伸ばす歌唱法はあると内藤孝敏が指摘している[27]。また音階にレとラが無い琉球音階を伝統とした沖縄にとって、メロディの半分がレとラの「君が代」は諸事情を別にしても合わないとして、全国に一県でも歌いにくいところがあるなら国歌とするのはどうなのかと述べてもいる[26]。
関連する楽曲
君が代行進曲
唱歌版君が代
箏曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
君が代(忌野清志郎)
さくら(作詞・作曲 小松純也)靖国神社の桜への鎮魂歌。イントロが国歌の独唱である。世界で初めて君が代にコードが付いた曲で、楽曲自体も歌詞曲共に君が代のオマージュになっている。
「君が代」の主題によるパラフレーズ 作品96(アレクサンドル・グラズノフ)
参考音源
ウィキメディア・コモンズには、君が代に関連するマルチメディアがあります。君が代:演奏(前半)と歌唱(後半)。
「君が代」(キングレコード、K1-A。1930年)
君が代:演奏のみ。
アメリカ海軍軍楽隊による。
うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。
Media:Kimigayo70.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
Media:Kimigayo60.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
Media:Kimigayo50.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。
脚注
^ 歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である。
^ 海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことがわかる(『君が代と萬歳』参照)。
^ 松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々である(東京大学国語国文学会 『国語と国文学 昭和四九年六月号』 至文堂、日本、1974年。収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』参照)。
^ 1658年(万治元年)に第一巻が発行されている(全国大学国語国文学会 『国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集』 三省堂、日本、1960年。参照)。
^ 新情報センターが委託を受け調査した。
出典
^ ベン=アミー・シロニー 「第8章1『日本王朝の太古的古さ』」『母なる天皇:女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、日本、2003年1月、30頁(日本語)。ISBN 4062116758。
^ 歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。
^ チェンバレンの英訳は、『国歌君が代の研究』より引用。この英訳を和訳した歌詞は、シロニー (2003)、30頁より引用。
^ a b c 小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、日本、1941年。urn:nbn:jp-46036320。
^ a b c 暉俊康隆 『日の丸・君が代の成り立ち』 岩波書店〈岩波ブックレット〉、日本、1991年。ISBN 9784000031271。
^ a b c d e 陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏). 君が代のすべて(KICG 3074). 日本: キングレコード. https://www.amazon.co.jp/dp/B00005HM29
^ a b 和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、日本、1998年。ISBN 4944113277。
^ 佐伯梅友註 『日本古典文学大系8 古今和歌集』 岩波書店、日本、1974年。
^ a b 東京大学国語国文学会 『国語と国文学 昭和四九年六月号』 至文堂、日本、1974年。収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』
^ 川口和也「『君が代』の履歴書」批評社、2005年、3章「封印された『君が代』」
^ 山田孝雄『君が代の歴史』宝文館出版、昭和31年、9章「この歌は古来如何に取り扱われたか」、10章「江戸時代に於ける「君が代」の歌」
^ a b c 内藤孝敏 『三つの君が代 - 日本人の音と心の深層』 中央公論社、日本、1997年。ISBN 9784120026546。
^ a b 弓狩匡純 『国のうた』 文藝春秋、日本、2004年。ISBN 9784163659909。
^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。
^ 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈(「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン)
^ 内閣府・政府広報室(1974年), “年号制度・国旗・国歌に関する世論調査” (日本語), プレスリリース, http://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html 2010年7月31日閲覧。
^ 毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビュー)
^ 論座 1999年8月号より
^ 古田武彦 『「君が代は九州王朝の讃歌」』 新泉社、日本、1990年。ISBN 4787790129。
^ 参考:独創古代|君が代の源流
^ 参考:志賀海神|社山誉祭
^ l 参考:神話(君が代)(個人ブログ)
^ l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸
^ 参考資料:福岡|歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー
^ 藤田友治 『君が代の起源』 明石書店、日本、2005年。ISBN 4750320374。
^ a b 永六輔 『芸人』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、133-136頁。
^ 内藤孝敏 "「国歌」となった「君が代」" 2009年(平成21年)9月8日 閲覧(内藤孝敏「「歌唱(ウタ)」を忘れた「君が代」論争」『諸君!』 文藝春秋社、1999年10月号 所収)
参考文献
小田切信夫 『国歌君が代の研究』 平凡社、1965年。
川口和也 『「君が代」の履歴書』 批評社、2005年。ISBN 4-8265-0425-X。
小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、1941年。urn:nbn:jp-46036320。(非売品)
和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、1998年。ISBN 4-944113-27-7。 - 光風館書店(昭和9年刊)の復刊。
関連項目
海行かば - 太平洋戦争時に良く歌われた国民歌。
日本の国歌問題
外部リンク
君が代寺・日本吹奏楽発祥の地 本牧山 妙香寺
*.rmの音楽ファイル(音楽のみ)
もうひとつ(二つ)の君が代
君が代の源流
志賀海神社の神事で唱えられてきた君が代
表・話・編・歴アジアの国歌
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東南アジア インドネシア | カンボジア | シンガポール | タイ | 東ティモール | フィリピン | ブルネイ | ベトナム | マレーシア | ミャンマー | ラオス
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西アジア アゼルバイジャン¹ | アフガニスタン | アラブ首長国連邦 | アルメニア¹ | イエメン² | イスラエル¹ | イラク | イラン | オマーン | カタール | キプロス¹ | クウェート | グルジア¹ | サウジアラビア | シリア | トルコ¹ | バーレーン | ヨルダン | レバノン
その他 アブハジア¹ | 北キプロス | 中華民国(台湾) | ナゴルノ・カラバフ¹ | パレスチナ | 南オセチア¹
「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。
¹ ヨーロッパにも分類され得る。
² 一部はアフリカに含まれる。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3」より作成
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