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731部隊
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再建された建物
石井四郎博士
731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。
満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3][4]や実戦テストまで行っていたとする説もある。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。
目次
1 沿革
2 軍組織における位置
3 部隊の活動
3.1 防疫活動
3.2 生物兵器開発
3.3 人体実験
3.4 生物兵器の実験的使用
4 米軍 (GHQ)との取引
5 日本国への賠償請求
6 関東軍防疫給水部
6.1 組織
6.2 関東軍防疫給水部長
6.3 関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)
6.4 支部
7 脚注
8 参考文献
8.1 書籍
8.2 その他
9 関連作品
9.1 音楽
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 沿革
軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[5]。
1936年(昭和11年)4月23日、「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[6]により関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[5]。
1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[5]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[7]。
1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された[8]。
[編集] 軍組織における位置
沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。
従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。
[編集] 部隊の活動
本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がペスト・コレラ・性病などの生物兵器、びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。なお、近年になり米国の公文書が機密指定解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録はまだ発見されていない[9]。
[編集] 防疫活動
表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。
1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。
1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点、シェルダン・ハリス(en)など、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったとする論者もある[10][11]。しかし、常石敬一は、これらの自作自演説には確かな証拠が全くなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている[12]。また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している[13]。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも北里柴三郎が出席している[14]。
[編集] 生物兵器開発
731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。
日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。
731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。
[編集] 人体実験
生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする見解がある。森村誠一『悪魔の飽食』などの本で、731部隊は捕らえた多くの朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人や捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、生体実験に供したと言われている(ただし、『悪魔の飽食』は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している)。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[15]とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[16]。終戦時には、生存していた40-50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたという[8]。
こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員などの関係者の証言である[2][3]。その代表的な人物が陸軍病院の軍医であった湯浅謙である。湯浅は敗戦後に中国に抑留され、捕虜として2年、戦犯として撫順戦犯管理所で3年半過ごすことになったが、その後、彼は731部隊の軍医の教育の中で「中国人を生きたまま手術して殺す」という生体解剖を実施していたと主張している[17]。2007年に、湯浅と同じく元731部隊員で中帰連の篠塚良雄(en:Yoshio Shinozuka)は、当時自身が「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことをアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[18]。ただし、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定するに至った中国帰還者連絡会関係者などの証言については、その信憑性を疑問視する見方もある[19]。
他方、部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は余り確認されていない。近年になり米国の公文書が機密解除されたため調査が行われたが、その中からは非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[9]。
確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いの特例措置に関するものがあり、これが731部隊での人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソビエト連邦の諜報員(ソ諜、蘇諜等と記載)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[20][21]。また、現存する731部隊の医学的成果を常石敬一が分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷[22]治療の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[23]。このほか、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されている。それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中にも非人道的な活動を明示する内容は無いものの、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている[24]。
[編集] 生物兵器の実験的使用
生物兵器について、単なる研究だけではなく、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある。日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリック(en)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする[25]。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がいる[26]。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない[25]。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる。
また、ノモンハン事件においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、科学的には加害効果がとうてい期待できないことから、研究者の常石敬一や秦郁彦はデモンストレーションにすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[27]。
このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある[28]。
[編集] 米軍 (GHQ)との取引
終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。
1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。
石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。
結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。
[編集] 日本国への賠償請求
詳細は「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」を参照
731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[29]。この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。
安部英も731部隊での人体実験関与を経て[要出典]後に帝京大学の医学部教授に就任、その後血友病治療の権威として薬害エイズに関わり、逮捕される。
[編集] 関東軍防疫給水部
[編集] 組織
関東軍組織図[30]
防疫給水部組織表[31]
関東軍防疫給水部(通称号:満州第691部隊)
関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)
牡丹江支部(通称号:満州第643部隊)
林口支部(通称号:満州第162部隊)
孫呉支部(通称号:満州第673部隊)
海拉爾支部(通称号:満州第543部隊)
大連支部(通称号:満州第319部隊)
[編集] 関東軍防疫給水部長
1940年8月23日まで関東軍防疫部長
階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[32]。
石井四郎 軍医中佐(1936年8月1日〜1942年8月1日)
北野政次 軍医少将(1942年8月1日〜1945年3月1日)==日本学術会議南極特別委員・文部省百日咳研究会。
石井四郎 軍医中将(1945年3月1日〜終戦)==>新宿区若松町で旅館経営。
[編集] 関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)
第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[32]。
総務部
副官室
調査課
翻訳班
印刷班
写真班
兵要地誌班
調査班
図書班
人事課
庶務課
労務班
庶務室
食堂
酒保
学校
企画課
経理課
管理課
建設班
工務班
動力班
運輸班
電話班
軍需課
第一部(細菌研究/部長:菊池斉、北川正隆)
第一課(チフス研究)
田部班(班長:田部井和==>京都大学細菌学教授・兵庫県立医科大学教授)
第二課(コレラ研究)
湊班(班長:湊正男==>京都大学教授)
第三課(生理・マルタ管理)
吉田班(健康診断)
宮川班(レントゲン/班長:宮川正==>埼玉医科大学教授)
在田班(レントゲン)
栗秋班(薬理)
草味班(薬理研究/班長:草味正夫==>昭和薬科大学教授)
石井班(捕虜入出管理)
蓬田班(捕虜入出管理)
志村班
特別班(特設監獄)
第四課(赤痢研究)
江島班(班長:江島真平==>国立予防衛生研究所)
第五課(ペスト研究)
高橋班(班長:高橋正彦)
第六課(病理研究/課長:河本耕造)
石川班(班長:石川太刀雄丸==>金沢大学医学部長・金沢大学癌研究所所長・日本学術会議会員)
岡本班(班長:岡本耕造==>京都大学医学部長・近畿大学医学部長)
第七課
第八課(リケッチア・ノミ研究/課長:笠原四郎)
野口班(班長:野口圭一==>ミドリ十字)
第九課(水棲昆虫研究)
田中班(班長:田中英雄==>大阪市立大学医学部長)
第十課(血清研究/課長:秋元涛恵美)
内海班(血清研究/班長:内海薫)
小滝班(ツベルクリン/班長:小滝秀雄)
第十一課(病原菌研究)
肥野藤班(脾脱疽/班長:肥野藤信三==>長崎医科大学、肥野藤病院院長)
太田班(炭疽研究/班長:太田澄)
樋渡班(脾脱疽/班長:樋渡喜一==>茨城県衛生研究所、樋渡病院院長)
降旗班(ペスト研究/班長:降旗武臣)
金沢班(班長:金沢謙一)
貴宝院班(天然痘研究/班長:貴宝院秋雄==>京都微生物研究所
二木班(結核研究/班長:二木秀雄==>ミドリ十字共同設立者)
所属課不詳
笠原班(ウイルス研究/班長:笠原四郎==>北里研究所)
吉村班(凍傷研究/班長:吉村寿人==>京都府立医科大学学長・日本学術会議南極特別委員・生気象学会会長)
流行性出血熱研究班(班員:所安夫==>東京大学教授・帝京大学教授・熱海所記念病院)
第二部(実施研究)
八木沢班(植物菌研究/班長:八木沢行正==>国立予防衛生研究所・日本抗生物質学術協議会理事)
焼成班(爆弾製造)
気象班
航空班
無線班
田中班(ペスト蚤増産研究/班長:田中英雄==>京都大学講師、大阪市立大学医学部長)
篠田班(昆虫研究/班長:篠田統==>京都大学理学部、大阪教育大教授)
安達実験場
第三部(防疫給水)
庶務課
第一課(検索)
第二課(毒物検知/課長:川島三徳)
第三課
濾水班
給水班
運輸班
工作班(濾水機)
濾水機・弾筒製造窯
第四部(細菌製造/部長:川島清 軍医少将==>ハバロフスク裁判被告、八街少年院医師)
第一課(培養生産/課長:柄沢十三夫 軍医少佐、鈴木啓之)
野口班(ペスト・脾脱疽/班長:野口圭一)
第二課
第三課(乾燥菌・ワクチン/課長:三谷恒夫)
第四課(ワクチン/課長:小滝秀雄)
有田班(発疹チフス・ワクチン/班長:有田正義)
植村班(瓦斯壊疽・脾脱疽/班長:植村肇==>文部省保健教育課)
所属課不詳
朝比奈班(発疹チフス・ワクチン/班長:朝比奈正二郎==>国立予防衛生研究所)
細菌戦研究班(班員:園口忠男==>陸上自衛隊衛生学校副校長、増田美保==>防衛大学校教授)
教育部(隊員教育/部長:西俊英 軍医中佐)
庶務課
教育課
衛生兵
炊事班
診療所
錬成隊
少年隊
資材部(実験用資材)
庶務課
第一課(薬品合成)
山口班(細菌弾/班長:山口一季==>国立衛生試験所)
堀口班(ガラス/班長:堀口鉄夫==>国立予防衛生研究所)
第二課(購買補給)
第三課(濾水機)
第四課(倉庫)
第五課(兵器保管)
第六課(動物飼育)
診療部(付属病院)
伝染病棟
診療室
家族診療所
憲兵室
保機隊
[編集] 支部
牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
総務課
経理課
第一課
第二課
第三課
資材課
教育課
林口支部(満州第162部隊)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所・文部省百日咳研究会)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
大連支部(満州第319部隊)
総務部
研究部
製造部
[編集] 脚注
^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日付 板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。
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^ あいち・平和のための戦争展「[1][2][3]
^ 中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[4][5]
^ 「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵
^ 秦(1999)、552-553頁。
^ 青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9
^ a b 秦(1999)、561頁。
^ 秦(1999)、565-566頁。
^ 秦(1999)、556-558頁。
^ 秦(1999)、571-576頁。
^ 731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟
^ 関東軍組織図 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%B5%84%E7%B9%94%E5%9B%B3.pdf
^ 防疫給水部組織表 http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%98%B2%E7%96%AB%E7%B5%A6%E6%B0%B4%E9%83%A8%E7%B5%84%E7%B9%94%E5%9B%B3.pdf
^ a b 731細菌部隊の全貌 http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm
[編集] 参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。
[編集] 書籍
青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7)
軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年
近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7
田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 不二出版、1991年
「731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載
田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2
常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9
同上 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3
同上 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269
同上 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4
秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5
森村誠一 『悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1
[編集] その他
小泉純一郎(内閣総理大臣)「衆議院議員川田悦子君提出七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書」 2003年10月10日 (川田悦子 「七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書」 2003年10月3日提出への応答)
[編集] 関連作品
[編集] 音楽
池辺晋一郎 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。
スレイヤー 米国のスラッシュメタルバンド。2009年発売のアルバム・『血塗ラレタ世界』収録の「ユニット731」。
[編集] 関連項目
悪魔の飽食
731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟
516部隊
帝銀事件
ハバロフスク裁判
[編集] 外部リンク
松村高夫 『731部隊と細菌戦に関する鑑定書』 2001年2月5日 慶應義塾大学名誉教授
土屋貴志 『同志社大学文学部「倫理学特論」講義ノート目次』 大阪市立大学文学部准教授
『10. 日本の医学犯罪(1)概説』
『11. 日本の医学犯罪(2)生物兵器の使用』
『12. 日本の医学犯罪(3)軍医の訓練(「手術演習」)』
『13. 日本の医学犯罪(4)研究(人体実験)』
山本真-大分協和病院医師(編) 森下清人-元七三一部隊少年隊2期生(回答) 『七三一部隊元隊員証言記録』 1991年9月インタビュー
『日本大百科全書』(小学館)の「七三一部隊」の項目
100,000 Pages Declassified in Search for Japanese War Crimes Records
この「731部隊」は歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事/2011年2月 | 大日本帝国陸軍の部隊 | 関東軍 | 日本の戦争犯罪 | 生物兵器
隠しカテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 参照方法 | 歴史関連のスタブ項目
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