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カッザーフィー・wikipedia(カダフィー・ダライラマ・ビンラディンがスーツを着ると、軍産複合体の社員にみえます)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 3 月 24 日 15:56:56: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC
ムアンマル・アル=カッザーフィー
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ムアンマル・アル=カッザーフィー
معمر محمد القذافي

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大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
初代革命指導者(事実上の国家元首)
任期: 1969年9月1日 – 現職

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リビア
第13代首相
任期: 1970年1月16日 – 1972年7月16日

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アフリカ連合
第7代総会議長
任期: 2009年2月2日 – 2010年1月31日

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出生: 1942年6月7日(68歳)
リビア スルト
ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر محمد عبدالسلام أبو منيار القذافي الدهمشي العنزي‎ 、 Mu‛ammar Muhammad ‛Abd 's-Salām Abū Minyār 'l-Qaddhāfī 'd-Dahamshī 'l-‛Anazī 、1942年6月7日[1] - )は、リビアの軍人、革命家、政治家。称号は「リビア最高指導者および革命指導者」(亜: زعيم و قائد في الثورة ليبيا‎ 、Za‛īm wa Qā'id 'th-thawrah fī Lībiyā 、ザイーム・ワ・カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)だが自身は「民間人」を名乗り、一般には「敬愛なる指導者」(亜: الأخ القائد‎ 、al-Akh 'l-Qā'id 、アル=アフ・ル=カーイド、英訳: the Brother Leader)と称されている[2] 。

日本では一般にカダフィ大佐と呼称され、海外では実に多様な綴りで表される[3]。かつては中東で最も反欧米の強硬派だったことや、数々の極端で奇怪な言動から「砂漠の狂犬」「アラブの暴れん坊」とも呼ばれていた[4]。

1969年の革命以来、リビアの実質的な国家元首を務める。2009年2月から2010年1月まで、アフリカ連合の議長(任期1年)も務めた。2009年6月8日にガボンのボンゴ大統領が死去し41年半の政権に幕を下ろしたため、現在のアフリカではカッザーフィーが最も長く元首として在任している人物となった。また、2011年現在では、世界で最長の政権を維持している人物である[5]。

現在の1ディナール札にその肖像を見ることができる。

目次
1 名称表記
1.1 「大佐」の語義の諸説
2 経歴
2.1 生い立ち
2.2 軍人として
2.3 クーデター
2.4 思想──イスラム社会主義と汎アラブ主義
2.5 対外政策の舵取り
2.6 態度の変化
2.7 2009年国連総会での演説
2.8 内政
2.9 反政府デモ
3 日本との関係
4 他国やその要人との関係
4.1 アラブおよびその周辺
4.2 欧米
4.3 その他の国
5 国際会議等での発言・パフォーマンス
6 テロ行為の疑惑と変容
7 デモ弾圧の正当化
8 パーソナル
8.1 容貌
8.2 派手な衣装
8.3 高所恐怖症
8.4 質素な生活
9 家族
10 その他
11 関連項目
12 参考・脚注
13 外部リンク

[編集] 名称表記
日本では「カダフィ大佐」という呼び名でよく知られている。特に新聞などのメディア報道では「カダフィ大佐」という呼称が普通である。今上天皇とカッザーフィーが慶事等で祝電、答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記され、彼自身の公式ウェブサイトでも敬称は「閣下」である。

日本の新聞報道では、1969年から1977年までは「カダフィ革命評議会議長」、1977年から1979年までは「カダフィ全人民委員会書記長」、1979年に一切の公職を退いてからは「カダフィ元首」「カダフィ国家元首」「リビアの国家元首カダフィ前書記長」などと表記されていた。しかしリビアは公式には「直接民主制」を標榜しているために政府や国家元首は存在しないことになっている。このためか、1985年あたりからは「リビアの最高指導者カダフィ大佐」と表記されるようになり、現在に至っている。

読売新聞は、2011年リビア騒乱以降、彼本人が「もう軍人でも大佐でもない」と言っているとしてそれまで使用してきた「リビアの最高指導者カダフィ大佐」の表記をやめ「リビアの最高指導者カダフィ氏」と表記している(2011年2月19日東京本社版朝刊国際面より)。

[編集] 「大佐」の語義の諸説
カッザーフィーが「大佐」(アラビア語: العقيد‎ 、al-‛Aqīd 、アル=アキード、英訳: colonel)と呼ばれている要因については諸説がある。いずれの説でも、カッザーフィーが敬愛するエジプトのナセル大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。

なお、リビアの事実上の国家元首が軍の中堅幹部階級である「大佐」であることに違和感を覚える向きも多い[6]が、リビアは建前上は「国家元首」の概念そのものを否定しているのであり、リビアの国家元首をあらわす称号が「大佐」だというわけではない。当然ながら、リビア軍には大佐より上の階級(将官)も存在し、軍の司令官であり士官学校時代以来のカッザーフィーの友人であるアブー=バクル・ユーニス・ジャーベル(亜: أبوبكر يونس جابر‎ 、Abū-Bakr Yūnis Jāber)は准将(亜: عميد‎ 、‛Amīd 、アミード)である。

「大佐」はニックネームであるという説
エジプトのナセルの地位が大佐であったため、自らもニックネームとして大佐を名乗ったのが定着した。
「大佐」は軍事上の階級であるという説
カッザーフィーの軍事上の階級はもともと中尉(亜: ملازم أول‎ 、mulāzim awwal 、ムラーズィム・アウワル)であったが[7]、1969年の革命によって、エジプトのナセルに倣って儀礼的に大佐に昇格した。その後も、革命の初心を忘れないようにということで大佐の階級のまま現在にいたっている。在東京のリビア人民局(事実上の大使館)はこの説明を採っている[8]。ただし、カッザーフィー自身は「私はもう軍人ではないので『大佐』と呼ばないで欲しい」と発言しているという[9]。
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
カッザーフィーはリビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)ガッダーファ部族の子に生まれた。1956年から1961年まで、リビア南部のフェッザーン地方で伝統的な宗教教育を受ける。エジプトのナセル大統領の影響を受け、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志す。

[編集] 軍人として
1963年にベンガジの陸軍士官学校に進んだ。在学中から仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始める。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となる。ただしイギリスに留学経験があるものの英語は苦手のようで、1986年4月に米軍がトリポリを空爆し米・リビア関係が極度に緊迫した時期、アメリカのある小学校の生徒たちがカッザーフィーに世界平和を求める手紙を書いて送ったところ、カッザーフィーは全員に英語で返事を書いたが、文法やつづりが間違いだらけだったという逸話がある。2007年8月の朝日新聞国際面の特集でも「カダフィ大佐は外国要人と会談する際に最近、英語も上達してきたようだ」との特派員の記述がある。

[編集] クーデター
1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行。病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功、イドリース1世はそのままトルコに亡命した。11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会(正式名称は「革命指導評議会」だが、日本のメディアは終始一貫して「革命評議会」と呼称していた)が共和国の最高政治機関となることが宣言された(カッザーフィーが革命評議会議長と公表されたのは翌年)。

1974年には政治理論の研究に専念するためとして革命評議会議長職権限をナンバー2のジャルード少佐に委譲(あくまで権限移譲であり、退任はしなかった)。1977年の人民主権確立宣言により、初代全国人民委員会書記長に就任。1979年からは全国人民委員会書記長を辞任し一切の公職を退いたが、「革命指導者」として現在に至るまで実質上の元首としてリビアを指導している。

[編集] 思想──イスラム社会主義と汎アラブ主義
1973年からは文化革命を始め、イスラームとアラブ民族主義と社会主義とを融合した彼独特の「ジャマーヒリーヤ」(欧米では「イスラム社会主義」と言われる)という国家体制を宣言した。現在のリビアの正式国号にも大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と、ジャマーヒリーヤという言葉がある。1976年には自身の思想をまとめた『緑の書』という題名の本を出版した。緑とは、イスラームのシンボルカラーで、社会主義の赤に対して「イスラム社会主義」を象徴する。

同時にカッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者でもある。1972年にはエジプトのサーダート、シリアのアサドと組んで汎アラブ主義三か国によるアラブ共和国連邦を結成したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。

1970年代、カッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されたことがある。

[編集] 対外政策の舵取り

2008年4月、プーチンとカッザーフィーはパレスチナ解放機構 (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持しているほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体 (CEN-SAD) を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としている。

カッザーフィーには、1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれている。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカのロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続く。

当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。1984年の駐イギリスリビア大使館員による、反リビアデモの警備を行っていたスコットランド・ヤードの警官に対する射殺事件や、ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件などテロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1986年にアメリカは居宅を狙って空爆する強硬手段(リビア爆撃)を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れたが、この空爆により幼い末の娘(養女)を失った。この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えているという。また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあったベッティーノ・クラクシ首相、ジュリオ・アンドレオッティ外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した[10]。

[編集] 態度の変化

2006年アメリカによる経済制裁を受けて以降、彼の態度には変化が訪れる。ポピュリズム的な派手なパフォーマンスで国民から支持を得る一方で、1999年にはパンナム機爆破事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じ、2003年8月、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意した。カッザーフィーは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際して、アラブ諸国の中でアル=カーイダに対する激しい非難を表明した指導者の1人であり、世界的なテロ批判の風潮をリビア国内のイスラーム過激派組織「リビア・イスラーム戦闘団」の封じ込めに利用した。

更には、ブッシュ政権でイラク戦争後にアメリカをはじめとする西側諸国に新たな標的にされるのを恐れてか、2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどはこれらの対応を評価しそれまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。そして2006年5月15日にリビアとアメリカの国交正常化が発表された。リビア政府はパンナム機爆破事件などの遺族補償として、15億ドルを米政府に支払った。一方の米側も、一連のテロの報復として米軍機がリビアを空爆した際の民間被害に対し、3億ドルの支払いに応じていた[11]。2008年10月にはアメリカ人犠牲者への補償金の支払いが完了し、国交を完全に正常化。2009年7月のラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にバラク・オバマ米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた[12]。なおオバマ大統領についてカッザーフィーは国内での演説で「オバマはイスラム教徒である」との誤った認識を語ったことがある。


2009年2月のアフリカ連合のサミットでのカダフィ。こうした近年の態度の変化には、カッザーフィーの政治的関心が、各国間の対立が激しくて進展を見せない「汎アラブ主義」から、欧米との利害対立が比較的少ないといわれている「汎アフリカ主義」に移行しつつあるのでは、と指摘する意見がある。事実、2000年にトーゴで開かれたアフリカ統一機構 (OAU) 首脳会議に、長年同機構とは疎遠であったカッザーフィーが出席して地域統合の必要性を唱え、2002年のアフリカ統一機構からアフリカ連合への改組では、カッザーフィーが主導的な役割を果たしている。

2009年9月にリビア革命40周年記念式典が行われ、リビア原油の主要輸出先であるイタリアのベルルスコーニ首相が植民地支配の謝罪・賠償合意に訪問し、式典にはベネズエラのチャベス大統領、スーダンのバシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領、カタールのハマド首長、フィリピンのアロヨ大統領、イラクのハーシミー副大統領らが姿を見せ、最高指導者のカッザーフィーと笑顔で握手するなどした。リビアの国営通信社によると約50カ国から首脳や閣僚らが参列したが西側諸国は参加せず多くはアフリカや中東諸国だった[13][14]。

[編集] 2009年国連総会での演説
近年は態度を軟化させたとはいえその特異な言動と舌鋒は衰えてはおらず、2009年9月23日に初めて出席した国連総会では、ニューヨーク郊外のニュージャージー州に遊牧民族の伝統に則りテントを張り、そこを宿にした。

また一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。国連安保理常任理事国にのみ与えられている拒否権を、国連憲章の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判したほか[15]、「タリバンが作りたかったのは宗教国家だったのだ。だったらバチカンのように作らせてやればいい。バチカンもわれわれ(ムスリム)にとっては危険な存在だ」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領の暗殺はイスラエルの陰謀。捜査した方がいい」「新型インフルエンザは細菌兵器として軍事目的で作り出されたもの」などと怪気炎を発した。これにたいし、会場は笑いに包まれた。カッザーフィーの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説にたいしてオバマ大統領、クリントン国務長官などは、はじめから退席。イランのアフマディーネジャード大統領も途中で退席。機関銃のように言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のアラビア語の同時通訳士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。

[編集] 内政
1988年3月3日、「刑務所の囚人に恩赦を与える」と突然宣言し、トリポリにある刑務所の壁を自らブルドーザーを運転して破壊、囚人400人を解放するパフォーマンスをおこなった。リビアはこれを記念して現在でもこの日は祝日になっている。

2010年1月26日、リビアの全人民会議は新しい書記(事実上の国会議長に相当)にカッザーフィーの学生時代の同級生で元駐英大使のムハンマド・ズワイを選出した。ズワイはカッザーフィーの次男のセイフ・アル・イスラムと親しいと言われている。このようにリビアではアブデルサラム・ジャルード少佐など1969年のクーデターを実行した自由将校団メンバー数人が治安機関の責任者や軍の高官を務めるなど、いまだに大きな権力を握っていると言われている。

[編集] 反政府デモ
2011年2月、カダフィの辞職を求める大規模な反政府デモ(2011年リビア騒乱)が発生した。カダフィはこれに対して徹底的な弾圧を加え、国際社会からの批判を浴びる。国連安保理にてリビアへの軍事攻撃を容認する国際連合安全保障理事会決議1973が採択された後も反政府勢力への攻撃の手を緩めず、同年3月19日に米英仏を中心とした軍事介入を招くに至った。

[編集] 日本との関係
1973年7月のドバイ日航機ハイジャック事件では、自国のベンガジにあるベニナ空港にハイジャック機が降り、現地で犯人グループ(日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認している。

カッザーフィーは、日本のラブホテルで使用しているのと同じ回転ベッドを日本より輸入し使用していた。この事実は1986年、トリポリの住居をレーガン政権下のアメリカ軍機に爆撃され、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。

阪神・淡路大震災が発生した際には「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。しかし近年ではアフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意があるとし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われる。公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほかイギリスをはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。

2009年12月15日、明治大学軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本は米国に追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「広島と長崎に原爆を落とした米国の(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ米大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへの米軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方中国については「アフリカ大陸の人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。

[編集] 他国やその要人との関係
[編集] アラブおよびその周辺
エジプト
エジプトのナセル大統領に心酔しており、クーデターで政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナセルと会談している。が、直後にナセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになる。

当時、汎アラブ主義を唱えていたカッザーフィーは、1973年エジプトを訪問しサダト大統領に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サダトが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。1977年にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーはPLO、イラク、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサダト政権の打倒を繰り返し呼びかけ、1981年、実際にサダトが暗殺されるとトリポリ放送を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継のムバラク政権に対しても敵意をむき出しにし、1985年にはスーダンでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。1989年5月に開催されたアラブ首脳会議ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカダフィは強く抗議し国営ジャマヒリア通信を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、現在でも友好関係は続いている。1998年にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバラクが病院へ見舞った。

他の中東・北アフリカ諸国
1974年、イランのパーレビ国王体制打倒を呼びかけ、同国王と激しい対立関係に陥った。1979年、イラン革命が起きると関係を修復し、翌年勃発したイラン・イラク戦争でもアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。
その後モロッコのハッサン国王(1984年にカダフィが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やチュニジアのブルギバに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。サウジアラビアのアブドラ国王ともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちにカタールのハマド国王の仲介で和解している。

1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻でPLOのアラファト議長の動向に世界中の注目が集まる中、「アラファトがいまだ独身なのは彼がホモだからだ」と突然発言。この発言はアラファトからは相手にされなかったものの、1992年4月にアラファト議長の乗った飛行機がリビアの砂漠で不時着した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアはパンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファトは「私はわが友人、カダフィの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファトの関係は決して悪いものではなかった。

1990年、湾岸危機が起きた際にはイラクとクウェートの和解を目指して提案を行ったが失敗している。

1991年10月にパレスチナ問題の解決を目指しマドリードで開かれた中東和平会議の際には「我々がヒトラーの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年オスロ合意にも反発し1995年からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「イスラティナ」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でイスラティナ構想を提唱しているがアッバス議長からは苦笑いされるだけで終わっている。1995年、イスラエルのラビン首相が暗殺された際には国営ジャマヒリア通信を通じ「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」と歓迎声明を出した。

1999年、ヨルダンのフセイン国王が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継のアブドラ国王とは関係は悪くないようで、リビア革命40年記念式典にもアブドラは招待されて出席している。

2006年12月、イラクのサッダーム・フセインが処刑されると「彼は殉教者になった」としてリビアは3日間喪に服した。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでもなく(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのクウェート侵攻をリビアが批判したことも原因)相互に会談を行ったこともなかった。

2009年11月、FIFAワールドカップアフリカ予選試合でエジプトとアルジェリアが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。

[編集] 欧米
旧ソ連
1974年、ソ連を初めて訪問。友好親善訪問にもかかわらずブレジネフ書記長との会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。

フランス
1984年に地中海のクレタ島でフランスのミッテラン大統領と会談。フランス大統領との会談は1973年に訪仏して以来11年ぶりだった。その後2007年にサルコジ大統領がリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際にはルーブル美術館訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。

アメリカ
1976年、ニューズウィーク誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカダフィ議長を打倒することで合意した」と報道。このころからアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。

1986年4月にアメリカ軍の空爆を受けた際は「ベトナム戦争のビデオを見ていた」と当時語っている。なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。のち1989年になって当時のマルタ政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。この演説はアフリカの地図をバックに、海軍の軍服姿で行った。カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。翌1987年、シリアのアサド大統領と会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。2004年6月、レーガン元米大統領が死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。

1992年8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカの民主党はユダヤ人の支持する大きな組織だ」として共和党への支持を表明。これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。

スイス
2008年12月、カッザーフィーの五男がスイスで婦女暴行容疑で一時拘束される事件が発生。のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中のスイス人ビジネスマン2人を拘束した。
スイス政府はリビアとの交渉の末、ハンス=ルドルフ・メルツ連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。スイス人2人は紆余曲折の末、2009年11月9日にようやく解放され、スイス大使館に保護された。
しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。その後、EU各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。
このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。

イタリア
2009年6月、イタリアを初訪問。黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄オマル・ムフタールの写真をつけていた。友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。訪問中、ローマ大学での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、フィーニ下院議長とも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。

トルコ
1996年、リビアを友好訪問したトルコの首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難、訪問客に肘鉄をくらわせた。

[編集] その他の国
1997年、国連制裁で飛行が禁止されているにも関わらずクーデター後のニジェールを訪問し熱狂的歓迎を受けた。

2003年11月、アジア・韓国の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」授与した。

2009年2月、アフリカ・ウガンダの地元大衆紙が同国の部族王国の皇太后とカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所とウガンダ・メディア委員会に起訴した。委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。

2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。国連にスイスの分割・解体を提案したのと同様、他国の内政に干渉する発言ぶりは健在である。

[編集] 国際会議等での発言・パフォーマンス
外遊の際などには必ずといっていいほど大使館の庭にテントを張って野営、そこで首脳会談を行ったりする。これは自分がベドウィン(遊牧民)出身であることを強調するためであるとされる。また若い女性兵士をボディーガードとしてひきつれて行動する。この女性たちは西側メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼ばれている。

1989年9月、ユーゴスラビア(現在のセルビア)のベオグラードで開かれた非同盟諸国首脳会議に出席。会場外にテントを張り、ラクダを空輸して話題をさらった。この際、テントの中で日本をはじめ外国メディアとの会見に応じ、当時世界を席捲していたソ連のペレストロイカについて「私は支持している。しかし我々のほうが先に『緑の書』で革命を行っている」と語った。またレバノンでの欧米人人質は解放されるべきだ、とも語った。首脳会議での演説では「イスラエルをアラスカに移してしまえ」と発言した。

1990年、国際会議で「エイズは同性愛者のみが感染する疾病だ」との古い認識を披露し会場の失笑を買った。また「イスラエルにミサイルを打ち込むべきだ」とも発言したがイスラエルは「いつものカッザーフィー発言だ」として相手にしなかった。

2009年11月、国連サミットにおいて発展途上国の貧困へのアピールとして総長以下、各国国家代表も参加した「断食」のパフォーマンスを尻目に、500人のイタリア美女を集めたパーティを催し、その健在ぶりを誇示した。

2010年3月にシルトでアラブ連盟首脳会議を開催、開催国としてアラブ各国首脳を出迎えたが、カッザーフィーへの個人的わだかまりなどから加盟22カ国・機構のうち出席した首脳は10か国あまりにとどまった。前日の外相会議ではイラクの外相がカッザーフィーが以前に旧バース党のメンバーらと会談したことを非難、抗議して退場する一幕もあった。

2010年6月12日、ワールドカップ開催中、リビア国内での演説で国際サッカー連盟 (FIFA) について「選手の人身売買を行っている国際的なマフィアだ」と批判した。「貧しい国から選手を金で買い、練習をさせて金持ちの国に売っている」と主張し貧しい小国もワールドカップの開催地となる権利があると強調、「FIFAは人身売買でもうけた金で、貧しい国でのW杯開催を手助けすべきだ」と述べた。ちなみにリビアはこの年のワールドカップでは予選で敗退し本大会には出場していない。

[編集] テロ行為の疑惑と変容
1978年8月31日、レバノンのイスラーム教シーア派ウラマー、ムーサー・アッ=サドル師がリビア訪問中に行方不明になった。リビア側は一貫して同師らはローマに向け出国したと説明してきたが、イタリアに入国記録はなく、レバノン司法当局はリビア政権が関与し誘拐、殺害した可能性が高いとして2008年8月27日、誘拐教唆などの容疑でカダフィらリビア人計8人の逮捕状を取った。

1980年5月、国外に逃れた反体制派リビア人に対しただちに帰国するよう命令を出し、「帰国しない場合は命は保証しない」と恐怖の通告を行った。その後実際に欧州各地で亡命リビア人が何者かに殺害される事件が相次いだ。この事件についてナンバー2のジャルード少佐は当時「我が国では深遠なる革命が起きているのだ。革命有志たちが行っていることだ」と語っていた。

1988年にはテロ支援をやめると宣言を出す。「アラブの暴れん坊」から「地中海の紳士」へ変貌か?とも言われたが当時世界からは全く相手にされなかった。

1992年4月、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連がリビアに制裁を課した。この時カダフィは「制裁が発動されればリビア国内のすべての油井に火を放つ」などと発言していたが実行はしなかった。またこれまで何度も「もうアラブ連盟を脱退する」などの発言を行ってきたが一度も実行に移したことがない。

[編集] デモ弾圧の正当化
2011年2月、騒乱状態のリビアにて、「中国の天安門では、武装していない学生も力で鎮圧された。天安門事件のようにデモ隊をたたきつぶす[16]」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した[17]。

[編集] パーソナル
[編集] 容貌
アラブの指導者のなかではめずらしく、長い間ひげをたくわえない人物であったが、10年ほど前から口やあごに無精ひげをはやしはじめている。髪は長髪に伸ばし、軍帽の脇から髪が振り出している肖像が公開されている。

[編集] 派手な衣装
1970 - 80年代までは陸軍軍服姿や質素なベスト姿が多かったカダフィだが、20年ほど前からさまざまな民族衣装や独特の服装を好んで着るようになっている。あるときは白や黒の陸軍士官制服姿だったり、ベレー帽に野戦戦闘服姿だったり、アフリカの過去の著名な指導者の姿がプリントされたサファリルックだったりする。スーツの場合は純白のものを好んで着ることが多く、ネクタイは殆どしない。民族衣装も茶色、紫色、紺色、深紅色、青色などさまざまな色彩のものを着て登場する。またサングラスを着用していることが多い。

[編集] 高所恐怖症
告発サイトであるウィキリークスによるとカダフィは建物の2階より上階には滞在できないこと、長時間の航空機による移動や海上の飛行を嫌うなど、高所恐怖症である可能性が明らかにされた[18]。

[編集] 質素な生活
私生活においては公においては質素を旨としており、住居は「指導者が豊かさを享受するのは国民の後でよい」という理由から長く兵舎を代用していたとされる。

[編集] 家族
7男1女で、長男のムハンマド (en) は、カダフィと第一夫人との間の子(ちなみに次男以降は全員第二夫人との間の子)で、リビアオリンピック委員会委員長である。

次男のサイフ・アル=イスラーム (en) は、1972年生まれで、2011年までカッザーフィー開発基金(旧:国際慈善基金)総裁を務め、2005年4月には愛知万博視察のために来日している。その際に日本のTBSテレビのインタビューを受けたことがある。また、愛知万博においてリビアをフレンドシップ国として交流していた田原市も訪れ、渡辺崋山の絵を寄贈している。2006年には国際慈善基金総裁としてフィリピンのイスラム武装組織アブサヤフに誘拐された人質の解放に一役買った。2009年にパンナム機爆破事件のメグラヒ懲役囚が末期がんを理由にスコットランドの拘置所から釈放された問題では釈放に向け積極的に動き、メグラヒと一緒に飛行機に乗りトリポリの空港に降り立った。近年、父親の政治を批判したり、国内の民主化が必要だとする発言を行うなどして注目された。2009年10月6日に父カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼に役割を果たさせる地位が必要だ」と発言し、急きょ設けられた「人民社会指導部総合調整官」という職務に就任した。後継者としての立場を強めたのではないかとも言われる。「人民社会指導部」は全人民会議、全人民委員会に助言を行う機関とされるが実態は不明。2010年6月、ロシアの首都モスクワで自身の描いた絵画の個展を開き、注目された。2011年2月の反政府デモに対してはテレビで武力弾圧を肯定する演説をおこなった。

三男のアッ=サーアディー (en) は、元プロサッカー選手。リビアの旧宗主国でもあるイタリアのサッカークラブ、ペルージャに入団したことは大きな話題となった。2002年日韓ワールドカップを見に日本に入国したことがあるが、成田空港で彼のボディガードが拳銃を所持していたために足止めをくらったことがある。彼はリビア軍の司令官の娘と結婚、現在、リビアサッカー協会会長を務めている。1996年にトリポリでサッカーの試合中に観客が暴動をおこし、通りに繰り出して「反カッザーフィー」を叫んだ事件では、サッカーの審判団がサアディーがオーナーを務めるサッカークラブに有利な判定を連発したことが原因とされている。

四男のアル=ムアタシム=ビッラーフ (en) は、リビア陸軍少尉で、過去、父親に反乱を企てたこともある。が、のちに父親はそれを許し、現在「国家安全保障顧問」という地位にある。2009年、リビアと米国の今後の関係についてクリントン米国務長官と会談を行い父親の有力後継者として注目された。

五男のハーンニーバール (en) は、海運会社を経営するビジネスマンだが、欧州での豪遊で知られ、パリでスピード違反事件を起こしてしまったり、スイスで婦女暴行事件を起こしたとして拘束されてしまったり(結局無罪放免となった)、数々のトラブルを起こしている。2009年12月22日にはスイスでの暴行事件を報じた際に自分の顔写真を掲載したとしてスイスの新聞「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉棄損での損害賠償を求める訴えを起こした。また同25日にはイギリスの高級ホテルにボディーガードらと宿泊していたが部屋から女性の悲鳴が聞こえたためにホテル側が警察に通報し、警察が到着するとハンニバルの妻(元モデル)が顔から血だらけになっていたなどの騒ぎを起こしている。なお、妻は2011年リビア騒乱の際にレバノンへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている[19]。

六男はサイフ・アル=アラブ (en)。

七男のハミース (en) はトリポリの軍学校で軍事学と科学の学士位を取得後、モスクワに留学しフルンゼ軍事学院(ru)とロシア連邦軍士官学校(ru)を卒業。2010年にはマドリードのIE ビジネススクールで修士位を取得する。 2011年リビア騒乱ではリビア軍で最も重要とされる第32特殊連隊の司令官に就任。

長女のアーイシャ (en) は、弁護士で、イラク元大統領サッダーム・フセインの弁護団に加わると報道され(実際にはイラクに入国できず)、注目を浴びた。彼女は2006年に父親のいとこと結婚した。2009年7月に、国連開発計画(UNDP)の親善大使に任命されていたが、2011年のリビア騒乱でリビア政府による市民への武力行使に対する措置としてその役を解任された[20]。また騒乱を避けマルタへ亡命を図ろうとしたものの、拒否されている[19]。

養女のハンナは、1986年のアメリカ軍のリビア爆撃で死亡した。2006年には爆撃20周年・ハンナ死亡20年の追悼行事が開催された。

[編集] その他
「カダフィ・ガールズ」と呼ばれる女性の護衛を引き連れている[21]。
[編集] 関連項目
石油輸出国機構
ロナルド・レーガン
マヌエル・ノリエガ
バスク祖国と自由
IRA
アフリカ連合
アフリカ合衆国
[編集] 参考・脚注
^ 6月19日生まれ説もある。かつては9月生まれ説もあった。
^ 公式サイト(#外部リンク参照)より。
^ 井上ひさしの『ニホン語日記』によれば1969年の革命でにわかに政権指導者になったとき、欧米メディアの「カダフィ」のローマ字表記は7つから8つあったという。冠詞の "al" をつけるか否かやイニシャルだけで G, Q, K などガ使用される(リビア方言では正則アラビア語の q の文字は g, k, kh と3通りに発音される可能性がある)ためで、実際に海外主要メディアにおける表記は40種前後もあり、さらに個人名ムアンマルの表記のヴァリエーションも含めれば更に総数は増える。詳しくは本項目英語版該当記事(en)参照。
アル・ジャジーラ等Gaddafiの表記を採用している。彼自身は1986年にアメリカの学校に宛てた返信では El-Gadhafi と署名している。しかし彼の公式ウェブサイトでの表記は El Gathafi, Al Gathafi など複数の表記が見られる。
参考リンク:Gaddafi? Qaddafi? Kaddafi? Let's call the whole things off! - newsling
^ ロナルド・レーガン米大統領は「中東の狂犬」(the mad dog of the Middle East)と呼んだ。
^ 現在の世界でカッザーフィーより長く国家元首の地位にあるのは、タイのプミポン国王(1946年即位)と英女王エリザベス2世(1952年即位)である。ただし、タイやイギリスの国王は象徴的存在であり、実質的な「政権」は首相に委ねられている。
^ もっとも、小国や軍の規模の小さい国(欧州の公国、アフリカ諸国など)では、軍の常設の最高位が大佐である場合もある。これは近代以前の軍隊では連隊が平時の編成上の最大単位であり、連隊長を務める大佐が実質的に軍の最高位であったことも関係している。英語版 Colonel の該当項目も参照のこと。
^ 大佐昇進以前のカッザーフィーの階級を大尉(英: captain)と解説する例もあるが、これは誤りである。またアブー=バクル・ユーニス・ジャーベルも少将(英: major general)と誤記されることがある。
参考リンク:Libyan Army - UNIFORM INSIGNIA
^ http://osaka.yomiuri.co.jp/mono/mo71023b.htm
^ 2009年9月の朝日新聞「特派員コラム」
^ 毎日新聞2008年11月01日
^ [1]
^ “ラクイラ・サミット:固めの握手 カダフィ大佐と米大統領”. 毎日.jp (毎日新聞社).(2009年7月10日). http://www.mainichi.jp/select/world/news/20090710dde007030014000c.html 2009年7月10日閲覧。
^ “リビア革命40周年式典 西側首脳は欠席”. 日テレNEWS24.(2009年9月2日). http://www.news24.jp/articles/2009/09/02/10142993.html 2010年1月10日閲覧。
^ “リビアで革命40周年記念式典、西側首脳は欠席”. ロイター.(2009年9月2日). http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-11305020090902 2010年1月10日閲覧。
^ “カダフィ氏、国連総会で大荒れ…憲章投げ捨てる”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社).(2009年9月24日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090924-OYT1T00131.htm 2009年9月24日閲覧。
^ 時事ドットコム:カダフィ発言に不快感=中国
^ 【リビア騒乱】腹心の公安相が辞任し反乱を呼びかけ 内戦の様相 - MSN産経ニュース
^ 時事ドットコム
^ a b “カダフィ一族まで海外逃亡の動き 長女、五男の妻が脱出図り、拒否”. MSN産経ニュース (産経新聞).(2011年2月24日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110224/mds11022408170007-n1.htm 2011年2月26日閲覧。
^ asahi.com(朝日新聞社):カダフィ大佐娘の親善大使解任 国連開発計画
^ カダフィ・ガールズ 写真特集
[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ムアンマル・アル=カッザーフィーに関連するカテゴリがあります。公式サイト(日本語有り)
官職
先代:
(新設) リビア革命指導者
初代:1969 - 次代:
(現職)
先代:
Mahmud Sulayman al-Maghribi リビア首相
第13代:1970 - 1972 次代:
Abdessalam Jalloud
外交職
先代:
ジャカヤ・キクウェテ アフリカ連合総会議長
第7代:2009 - 2010 次代:
ビング・ワ・ムタリカ
表・話・編・歴 OPECの首脳

ヌーリー・マーリキー
マフムード・アフマディーネジャード
ナーセル・アッ=サバーハ
アブドゥッラー・アブドゥルアズィーズ
ウゴ・チャベス
ハマド・アール=サーニー
ムアンマル・カッザーフィー
シャイフ・ハリーファ
アブデルアジズ・ブーテフリカ
グッドラック・ジョナサン
ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
ラファエル・コレア


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事/2010年9月 | リビアの政治家 | 革命家 | クーデター政権指導者 | 紙幣の人物 | 1942年生 | 存命人物
隠しカテゴリ: 出典を必要とする存命人物記事  

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