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チェルノブイリ原発事故は20秒前の直下型地震が原因?地震兵器による攻撃の可能性は?
2007年08月02日 / ロシア・北方領土
図はセシウム137の濃度に基づく放射能汚染地域
●チェルノブイリ原子力発電所事故 - Wikipedia
チェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。4号炉はメルトダウンののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。
・原因
発端は、原子炉が停止して電源が停止した際、非常電源に切りかえるまでの短い時間、原子炉内の蒸気タービンの余力で最小限の発電を行い、システムが動作不能にならないようにするための動作試験を行っていたが、炉の特性による予期せぬ事態と、作業員の不適切な対応が災いし、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。
同実験は、原子炉熱出力を定格の20%から30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドによって、定格熱出力の1%にまで下がってしまい、運転員はこれを回復する為に、炉心内の制御棒を引き抜いた。これにより、熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない状態で不安定な運転を続ける事になった。不安定な運転により実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置を含める重要な安全装置を全て解除し、実験を強行した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇しはじめた。運転員は直ちに緊急停止を試みたが、この原子炉は特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力があがる設計だったため、その際に原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタンを押した6秒後に爆発した(緊急停止ボタンを押したために原子炉が暴走したとする説(→制御棒を挿入しようとしたが、大きい音と共に挿入が停止した)もある)。
この爆発事故は、運転員の教育が不十分だったこと、特殊な運転を行ったために事態を予測できなかったこと、低出力では不安定な炉で低出力運転を続けたこと、実験が予定通りに行われなかったにも関わらず強行したこと、実験の為に安全装置をバイパスしたことなど、多くの複合的な要素が原因として挙げられる。後の事故検証では、これらのどの要素が欠けても、爆発事故、或いは事故の波及を防げた可能性が極めて高いとされている。
当初ソビエト政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、のちの調査結果などはこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる。
事故から20年後の一部報道によると、暴走中に「直下型地震」が発生して爆発したとされている。ロシア地球物理学研究所のストラホフ前所長によると、事故の約20秒前に小さな直下型の地震があり、原子炉は耐震構造ではなかったために、原子炉で爆発が起きたということである。しかし、京都大学の今中哲二は、他の1〜3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。
また、4号炉の設計も事故の前年の12月26日の原子力産業の記念日にあわせて完工するために耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更・強行したのも放射能の拡散拡大の原因にあげられる。
・事故の経緯
1986年4月25日に、4号炉は定期保守のためにシャットダウンされることが予定されていた。この時を利用して、4号炉のタービン発電機が、外部電源喪失時に原子炉の安全システム(特に冷却水ポンプ)に給電するのに十分な電気を作る能力を試験することが決められた。
具体的には、4号炉の力を利用してタービンを回し、その後タービンは4号炉から切り離す。この時のタービン自体の慣性力で回り続け、どれだけの発電出力を生み出せるかという試験であった。 なお、この試験に際し、 原子炉の出力は標準出力の3.2ギガワットから、より安全な低い出力である700メガワットまで減らされる事が計画された。
実験予定日の前日から、実験を行うために、運転員は炉の出力を予定通りの700メガワットに落とし、実験開始に備えていた。しかし、中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期されたために、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始することが出来なかった。
そのうちに、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。その低下する出力を無理に補うため、挿入されていた制御棒を抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がっては抜きを繰り返し、伸びに伸びた実験開始の瞬間では、炉の自動制御棒の殆どを抜いていたといわれている。
これにより、炉内の出力分布は、まるでフタコブラクダのコブのように、本来核分裂が一番活発に行われているはずの中央部で低調で、上下の部分に大きなピークが出現していた。
その状態から実験は始まる。キセノンの中性子吸収効果で制御棒を目一杯まで引き出していた状態から、実験に適した更に低い出力状態へ移行するために、制御棒を挿入した。だが、その瞬間、炉の出力は予定外の30メガワットまで落ち込んだといわれている[2]。
低下しすぎた出力レベルは、安全規則が許す限度に近かったにも関わらず、操作員は原子炉を停止せずに実験を強行する事を決めた。しかも下がりすぎた出力を補うために、本来の実験手順・要項の一部を省略し、出力を200メガワットとすることに決めた。その為、過剰となっていたキセノン-135の中性子吸収を克服するために、安全規則で許されるよりやや多くの制御棒が炉から引き抜かれてしまう。
実験の予備段階として、4月26日午前1時05分に、タービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたのだが、午前1時19分、これによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水もまた中性子を吸収し、炉の出力を下げる働きをするので、その流量が増加したことによって、出力を確保するために、炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった。
こうして非常に不安定な炉心状態で、午前1時23分04秒に実験が始まる。
原子炉の不安定な状態は制御盤のどこにも表示されず、原子炉の操作員の誰も危険に気付いていなかったようだ。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性によって運転されると、その流量は減少した。タービンは炉心で蒸気量を増やしつつある原子炉から切り離されされた。
冷却剤が温められるにつれて、冷却材配管中に蒸気のポケットができた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉の設計では、大きい正のボイド係数を持っている。すなわち、水の中性子を吸収する効果が無くなると原子炉の出力は急速に増加し、そしてこの場合、原子炉の運転が次第により不安定に、より危険になることを意味する。
午前1時23分40秒に操作員は「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法として行われたのかは不明確である(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)。
その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと、通常は考えられている。他方、チェルノブイリ原子力発電所の事故当時の最高エンジニア アナトリー Dyatlov は彼の著書で次のように述べている:
「01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。」
制御棒挿入機構はスピードが遅いこと(完了までに18〜20秒)、制御棒の先端の空洞、そしてその空洞と冷却材が一時的に置き換わることによって、スクラム操作は反応率を増やす結果になった。 増えたエネルギー出力が制御棒経ガイドの変形を起こしたために、 制御棒は3分の1だけ差し込まれたところで動かなくなって、原子炉の反応を止めることが不可能になった。
1時23分47秒までに、原子炉は標準的な運転出力の10倍であるおよそ30GWまで跳ね上がった。燃料棒は融け始め、そして蒸気圧力は急速に増大して蒸気爆発を起こし、原子炉の蓋を変形させ破壊し、冷却材配管を破裂させ、そして次にその屋根に穴を開けた。
推測では爆発は2度あり、2度目の爆発によりおよそ1000トンあった蓋を破壊したとされている。この2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素爆発であるとする説と、冷却水が完全に喪失した事による核爆発であるとする説とがある。
経費を減らすため、そしてその大きさのために、原子炉は部分的な封じ込めだけで建設された。このため、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させたあと、放射性の汚染物質が大気中に漏れることになった。その屋根の一部が吹き飛んだ後、酸素が急速に流れ込んだことと、原子炉燃料の非常に高い温度が合わさって、黒鉛減速材が黒鉛火災を起こした。この火災は、放射性物質の拡散とそこの辺ぴな地域の汚染の大きな一因になった。
・論争
目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こったイベントの正確なつながりについて若干の論争がある。 最も広く合意されている説明は上で記述した通りであるが、この理論によれば、最初の爆発は操作員が「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きた。 しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張されることがある(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。 この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら、その事故原因は制御棒の設計に帰されなければならないのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのであればその責任は操作員にあるであろう。 実際には、1時23分39秒にマグニチュード-2.5の地震に類似している弱い地震動のイベントが、チェルノブイリ地方で記録されていた。 この振動は4号炉の爆発によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない。 その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムを押した人物は放射線障害のため事故の2週間後に死んだ。
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