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http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=268509
国際情勢の分析と予測リンクより転載します。
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★国際金融資本支配による「短い20世紀(英国の歴史家ホブズボームはこれを1914年の第一次世界対戦開始から1991年のソ連崩壊までと定義する)」は1913年12月23日のFRB設立に始まり、2012年6月1日の日中通貨直接取引開始で終焉した。21世紀の世界は日中印露独などの地域大国による勢力均衡の時代になる。今年6月以降進行している東アジアや中近東での緊張はこの体制変動を反映したものである。それは、20世紀に犯罪国家の汚名を着せられた日独両国の名誉回復と、日独両国を犯罪国家と罵る為に建国された韓国・イスラエル両国の滅亡を意味し、それが今年中に起きると私は予想している。
今回の記事では、この国際情勢の激動から離れて、20世紀の歴史の謎に迫りたい。そのテーマは、真珠湾攻撃の謎である。1941年12月8日の日本による真珠湾攻撃は日本にとって自殺行為であった。日本が英国とオランダのみを対象に宣戦布告するならば、アメリカが第二次大戦に参加することは出来ず、従って枢軸国が勝利していた可能性が高いからだ。問題となる石油の禁輸も東南アジアの油田で事足りたと思われる。更に謎なのは、三国同盟では宣戦布告の義務がない(例えばドイツとソ連が激しく戦っている間も日本はソ連に宣戦布告することは無かった)にも関わらず、ドイツが真珠湾攻撃の直後に対米宣戦布告したことである。これでドイツの敗北も確定したのだ。この日独両国の対米宣戦布告は両国の支配階層の熟慮の末に合理的に決定されたと私は考える。この決断の理由が分からない人間に20世紀の歴史を語る資格はないだろう。その前に、19世紀と20世紀の概略を述べておこう。
ホブズボームの言う「長い19世紀」はフランス革命に始まる。欧州大陸の二つの超大国であるフランスとオーストリアがルイ16世とマリーアントワネットの結婚によって統一されることを恐れた英国本拠の国際金融資本が革命を扇動してフランスを滅ぼし、世界覇権を維持した時代である。しかし、19世紀後半には英国で発明された鉄道が欧州内陸国で大量に建設され、ドイツやロシアなどの東欧諸国の経済が劇的に発展して英国を追い抜きつつあった。この覇権喪失の危機に生まれた学問が地政学である。マッキンダーが「東欧を支配する者はハートランドを支配し、ハートランドを支配する者は世界島を支配し、世界島を支配する者は世界を支配する」と語ったことは、当時の英国が鉄道建設による東欧の発展を如何に脅威視していたかを示している。丁度現在の米国が中国を含む東アジアの経済発展を脅威視しているのと似ている。
この危機に英国本拠の国際金融資本が考えた解決策は以下の通りであった。
1.アメリカ・ウォール街の国際金融資本と協力して米国で私設の中央銀行を設立し米国政府を乗っ取る。
2.東欧のハザール系ユダヤ人と協力してロシア革命を起こしロシア政府を乗っ取る。
3.米露二極を中心に世界大戦を起こして、それ以外の地域大国である日本・ドイツ・オーストリア・清・オスマントルコなどを滅亡させ属国として支配する。また、君主制は国家の統合性を高めるので、国際金融資本の本拠地のある英蘭両国と北欧の小国以外の属国地域では君主制を廃止する。
この計画は第一次世界大戦でかなりの部分が成就された。残る日独を滅亡させて属国化する為に第二次世界大戦が計画され、ハルノートなどの過酷な対日制裁が行われていたと私は考える。
このような現状を認識した上で、日本支配階層はたとえドイツと手を組んでも国際金融資本の計画に対抗する事は困難であり、敗北は避けられないと認識した。その場合、他の地域大国全てで君主制が崩壊している事を考慮すると、日本で建国以来継続されてきた皇室(当時は国体と呼んだ)が途絶えることは避けられない。この皇室を如何に存続するかが最大の争点になったと思われる。日本支配階層は、アメリカを第二次世界大戦に参加させるという国際金融資本の計画に日本が悪役として参加することと引き替えに皇室維持の約束を取り付けたのだと私は想像する。
しかしながら、国際金融資本が皇室維持の約束を守る保証は全くない。結局、日本が敗北し属国化した段階でも、皇室を維持する為には、皇室を維持した方が米国にとって日本統治のコストが安いと認識させる必要がある。その為には、日本人が皇室を守るために死にものぐるいで戦う姿を米軍に見せつける事が必要不可欠であった。日本軍が敗北確実な状態でも神風特攻隊などで命がけで戦った理由はそこにあると私は考える。
今回の記事の題名は「大東亜戦争と関ヶ原の戦い」である。この二つの大戦争には大きな共通点がある。
1.関ヶ原の戦いで島津軍は敵中で孤立し敗北確実な情勢であった。これは大東亜戦争直前のABCD包囲網に囲まれて孤立した日本と類似している。
2.島津軍は東軍に寝返ることはせず、降伏もせず、東軍の総大将に向けて総攻撃をかけ、そのまま敵の大軍の中央を突破した。これは、日本がハルノートを受諾せず、連合国の太平洋艦隊の中枢のある真珠湾を攻撃したことと類似している。
3.島津軍は撤退の途中で「捨てがまり」という決死の戦術をとり大きな戦果を挙げた。これは、神風特攻隊として大東亜戦争で再現された。この戦術により、総大将の島津義弘は生きて鹿児島の地に生還した。大戦末期に鹿児島県の知覧に特攻隊の基地が設けられたことは偶然ではあるまい。
4.関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った武将は多くが取り潰された。いつまた徳川家から寝返るか分からないからだろう。また、関ヶ原の戦いで敗れた武将の多くは地域住民との繋がりを断って弱体化させる目的で別の領土に移動させられた。島津家は西軍の武将の中で取り潰されず、別の領土に移動させられることもなかった唯一の武将である。鎌倉時代始めからの守護大名である島津家は関ヶ原の時点で約4世紀の間鹿児島を領有し続けており、たとえ取り潰されることが無くとも地元との繋がりを断たれることは致命的であっただろう。これは、国際金融資本の支配下に入った多くの地域大国が君主制を失った(それは特に第一次大戦前後に集中している)中で、日本のみが皇室を維持することに成功したことと類似している。
長州藩と並んで明治維新の立役者であった薩摩藩は多くの人材を新政府に供給した。彼らは関ヶ原での島津藩の戦いの事を学んでいた筈である。真珠湾攻撃の決定には島津義弘の関ヶ原の戦いが取り上げられていたと私は想像する。
★2012年6月1日に日中通貨直接取引が開始されて国際金融資本の支配するドル覇権が決定的に崩壊した。敗戦後の長い米軍による占領体制は終わりつつある。その後に来るのは、国際金融資系国家である南朝鮮の滅亡と大東亜共栄圏の中核である朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)の半島統一である。この統一戦争にも島津の戦法である「釣り野伏せ」が取り入れられている。
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