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日本人が知らないミャンマーの真実
元駐ミャンマー大使 山口洋一
http://gekkan-nippon.com/?p=2074
『月刊日本』2月号
戦後アメリカ追随一辺倒に堕してきたわが国では、人々の国家意識の低下は嘆かわしく、低下が進んで喪失一歩手前まできていると言える状況になっている。その結果、国際社会における日本の独自性は失われ、存在感は希薄化の一途を辿っている。国民は自信を失い、政治は混迷し続けている。
戦後、ドイツと似たような状態から再出発した日本は、国民の優秀さと勤勉さの賜物として、ドイツと並んで世界有数の経済大国に伸し上がった。しかし現在ドイツが国際社会で大きな発言力を確保し、信頼される大国に成長したのに比べ、日本はそのどちらも手にしていない。
せめてアジアにおいては頼りにされる国になりたいものであるが、ひと頃は日本が担いつつあるかに思われたアジアの主導国の役割すら失いつつあり、中国の躍進の前に、影の薄い存在となっている。
何年か前に国連改革の一環として安保理常任理事国の拡大が議論された際、日本はG4決議案(日独印ブラジル共同決議案)を出したが、中国や韓国は日本の常任理事国入りにあからさまに反対し、G4決議案に賛成したのはASEANの国ではベトナムとシンガポールのみ、それ以外のアジアではブータンとモルジブ共和国(この二国はむしろ対インド配慮)しかいないという惨憺たる有り様であった。「どうせ日本が常任理事国入りしてもアメリカの票を一票増やすだけ」と見られて、賛成を得られなかったのである。
二〇一〇年九月二四日、日本は尖閣諸島海域で不埒な行動に出た中国漁船の船長を処分留保のまま釈放した。この措置は今後のわが国の安全保障のあり方を根幹から揺るがす重大事であったばかりでなく、南シナ海の方で固唾を呑んで日本の出方を見守っていた東南アジアの国々を深く失望させ、日本に対する信頼感を失わせた。南シナ海では、島の領有をめぐってしばしば中国とベトナム、フィリピン、インドネシアなどとの衝突が生じており、往々にして軍事行動まで起きているのである。中国の恫喝の前に弱腰を露呈した日本の姿勢を見て、東南アジアの国々はあきれ返ったに違いない。
対米追随路線と決別し、独自のアジア外交を展開せよ
こうして日本は「不可解な国」と評され、「顔の見えない日本人」と言われるようになっている。日本が国際社会で一目置かれる存在となるには、国家存立の基盤として国のアイデンティティーを国民が明確に意識し、これを世界に明示することが不可欠である。
それにはなによりもまず国家としての独自の立ち位置と独自の政策を明示すること、つまり対米追随ではなく、独自の立場で国家経営をすることが重要である。現状はアメリカの属国、保護国同然と見られている。
日米安保体制はわが国の安全を保ってきた枠組みであり、戦後の冷戦構造の中で、日本がいち早く復興・経済発展を成し遂げられたのも、この枠組みのお蔭であったことは事実である。アメリカがわが国の重要なパートナーであることは疑いない。対米協調は大切だ。しかし、だからと言って、日本の外交政策は全てアメリカと同一でなければならぬということにはならないし、いわんやアメリカの顔色を窺い、アメリカの指図通りに行動しなければならない理由はない。アメリカにも日本独自の判断、見解を示し、自立的立場、姿勢を打ち出し、理解を求めるべきであり、そうしてこそアメリカとの信頼関係も深まり、真の協力関係を築くことができる。
日本は欧米との協力関係は重視しつつも、対外姿勢の軸足をもっとアジアにシフトし、アジア外交をより積極的、能動的に展開すべきである。
このような視点に立って、最近のアジアの動きの中で注意を怠ってはならないのは、ミャンマーの変貌である。
脚光を浴びている親日国ミャンマー
一九八八年以来続いてきたミャンマーの軍事政権は、長年の懸案であった民政移管をこの程ようやく実現し、今やこの国は世界の注目の的となっている。
長年来、欧米諸国は「軍人が政権の座に居座って国民を虐げている」として、ミャンマー政府を非難し、この国に種々の制裁を科す一方、反政府勢力の表看板であるアウン・サン・スー・チー女史を「けなげに民主化運動を推進するヒロイン」として支援してきた。国際マスメディアはこの風潮を助長し、軍事政権=悪玉、反政府勢力=善玉と決め付けて、ステレオタイプの報道を続けてきた。
こうした中、ミャンマー政府は二〇〇三年八月に「民主化を目指した七段階のロードマップ」を発表し、これに従って民政移管に向けてのプロセスに入る方針を明らかにした。その後、このロードマップに即して憲法制定の作業が進められ、でき上がった憲法草案は二〇〇八年五月に国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成により採択された。
政府はこの憲法に基づいて二〇一〇年一一月七日に総選挙を実施し、その結果は「国民代表院」、「民族代表院」の両院ともに、政府寄りの候補者の圧勝となった。
この選挙結果に基づく国会は二〇一一年一月三一日に召集され、二月四日にテイン・セイン首相(当時)を国家元首である大統領に選出した。三月三〇日、テイン・セイン大統領は新閣僚と共に国会で就任宣誓を行い、四月一日、新政府が正式に発足した。ここに軍事政権は新政府に政権を移譲し、それまでの国家平和発展評議会(SPDC)は三月末に廃止された。
欧米諸国はこの民政移管の取り組みについても、「軍人が権力を手放さないことを狙ったまやかしのプロセスだ」と非難してきた。
民主主義を機能させるには、幾つかの前提条件が満たされていなければならないことは自明の理である。国の統一が確保され、安全が保障されていることは、なによりの大前提であり、その上で国民が最低限餓死しない程度の経済の営みが行なわれる必要がある。その上で、国民の教育水準がある程度のレベルに達し、健全な政治意識が持たれるようになっていなければならない。十分な前提条件が整わないまま、ただ闇雲に形だけの民主制度を実施したところで、うまく機能しないばかりか、かえって混乱を招くことは、この国の心ある識者なら、誰しも過去の経験から熟知している。
そこで軍事政権は完全な民主制度に至る前に、先ず中間段階の制度を採用して民政移管し、それに馴染んだ後に最終的な民主体制に到達するという構想を打ち出したのである。この中間段階の制度では、軍が引き続きある程度の政治的関与をして制度の円滑な運用を期して行く。彼らはこの中間段階を「規律ある民主主義」と呼んでいるが、謂わば「踊り場の民主主義」と言える。そして今回なしとげた民政移管は、まさにこの「踊り場」に当たる中間段階の体制なのである。これを実施した上で、やがて機が熟せば憲法を改正して最終的な民主体制に移行し、軍は政治からいっさい身を引いて、安んじて兵舎に戻ることになる。軍事政権の当局者も、これを将来この国が辿るべき道筋だと公言してきた。
このような発想は十分理解できるところであり、国際社会はもっとこの筋書きに理解を示さねばならない。欧米諸国が続けてきたミャンマー・バッシングは、現地の事情を無視し、事の本質を弁えない欧米の独善としか言いようがない。
そもそも一国の国造りの取り組みに対して、国際社会はどのように関与するのが好ましいのであろうか。国の政治制度を如何に構築するかは、国家体制の基本である。このような「国のありよう」はまさに国のアイデンティティーそのものであり、それをどうするかは当該国民の自覚と責任に委ねるべきであって、外国が指図すべきものではない。それはその国の歴史、文化、国民性、民族感情に結びついて形成されるものであり、部外者が見当違いの介入をするのは余計なお節介にしかならず、有害・無益と断定できる。
何時の時代においても、為政者は与えられた状況の下で、自国に合った国造りに最善の努力を払ってきた。群雄割拠する戦国時代に、天下人になって朝廷の権威のもとに国をまとめようと奮戦する織田信長に、民主主義を説いても全く意味をなさない。
国際社会は国家体制の構築については当該国の努力に余計な口出しをせず、むしろその努力を貿易、投資、技術移転、開発協力(ODA)、観光、学術文化交流などの形で側面的に支援すべきである。ところがこれまでミャンマーに対しては、欧米、特にアメリカはこれと全く逆のことをやってきたのである。(以下略)
*本稿は編集部の許可を得て投稿しています。
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